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「デカい奴は必要なんだよ」。これは、シャックがレイカーズに移籍しそうだった頃にマジック・ジョンソンがペニー・ハーダウェイに語った言葉だそうです。よくよく考えるとこの言葉をシャックを引き抜く側のレイカーズ側に近い人間であるマジックが、シャックを引き抜かれる立場のペニーに言うのは随分変な気もしなくはありませんが、これはカリーム・アブドゥル・ジャバーが引退した後全く優勝出来なくなったマジックだからこそ言える台詞でもあったのです。

小林孝さんa.k.a.「師範」はかつてこう仰っていました。NBAの歴史を見るとスター級のビッグマンが時代を支配するのが普通であって、マイケル・ジョーダンとシカゴ・ブルズのような例はむしろ歴史的には例外であると。実際、ジョーダンが最初の引退を決め込んでいた時に優勝したのはオラジュワンとロケッツでした。そもそも、ブルズ黄金期以前の'80s優勝チームはジャバー(とマジック)のいたレイカーズ、マクヘイルとパリッシュのいたセルティクス、モーゼス・マローンのいたシクサーズ、レインビアとロドマンのいたピストンズと、それぞれ本格的なビッグマンを揃えています。そもそも、ジョーダンにしてからがホーレス・グラントやロドマンがいて初めて優勝に手が届いたのです。最初の引退から復帰したてのジョーダンとブルズがマジックに不覚を取ったのも、ホーレス・グラントの抜けた穴が結局埋まらなかった事が大きく響いたと言えるでしょう。

もっと歴史を振り返って見ても、マイカン、チェンバレン、ビル・ラッセル、ジャバー、ウォルトン・・・ビッグマンが明らかにその時代その時代の中心である事が分かります。現にガードのスターであるジェリー・ウエストは圧倒的なクラッチ能力を誇りながら、チェンバレンと組んでキャリア終盤にやっと1回優勝。ピート・マラヴィッチ、デイブ・ビング、ジョージ・ガーヴィン等々、個人の才能はレジェンド級ながらレジェンド級ビッグマンと組む事無く、結果リングに手が届かなかった選手は少なくありません。

実はマイケル・ジョーダンの時代、'80年代中盤〜'90年代もビッグマン自体は人材豊富でした。ジャバーとパリッシュはもちろん、サンプソン、オラジュワン、提督ロビンソン、ムトンボ、シャック、ZO・・・そんな中にあって、ニューヨーク・ニックスを支え続けた大黒柱について今日は語ります。キング・オブ・ニューヨーク、パトリック・ユーイングです。

ユーイングは1962年8月5日、ジャマイカのキングストンに生まれました。ええ、レゲエのメッカたるゲットーなエリアです。ジャマイカではクリケットやサッカーに興じていたユーイングでしたが、11才(12〜13才説もあります)の時にユーイング一家はアメリカはマサチューセッツ州、ケンブリッジに移民しました。高校時代には既に6-10の背丈があった彼に回りがバスケットボールを薦めるのはまあ当然ですよね。最初はぎこちなくプレーしていましたが、高校上級生になる頃には「次のビル・ラッセルになるだろう。しかもオフェンス面では(ユーイングが)ベターだ」とまで言われたのです。

そんな彼が選んだ大学はジョージタウン大。ナイキのスニーカー、ターミネーターのカラリングでも有名なこの大学には名将にして名教育者でもあるジョン・トンプソンがいます。後にムトンボ、ZO、アイヴァーソンを指導する事になるトンプソンはセルティクスでラッセルのバックアップセンターを務めた経験もあったのです。道理でビッグマンの指導が上手い訳ですね。かくしてユーイングはジョージタウン大で4年を過ごします。そして、その4年の間にジョージタウン大は実に3回のNCAAトーナメントFINAL進出を果たしたのです。

'82年、ジョージタウン大は決勝戦まで勝ちあがり、ノースカロライナ大と対戦。ジェームズ・ウォージー、サム・パーキンスなど後にNBAで長いキャリアを過ごす事となった面々の間に、同じく1年生のマイケル・ジョーダンの姿もありました。そして、大接戦となった試合の決勝点を決めたのは・・・



1:35からのプレーで決まった決勝シュート、それこそがジョーダン栄光の軌跡の第1歩、「The shot」です。1年生にしてこのシュートを沈められるジョーダンというプレーヤーの天性には恐れ入ります。この後、ジョージタウン大は最後のオフェンスで相手のウォージーにパスしてしまうという大ポカで自らチャンスを潰し、結局準優勝に終わったのです。ユーイングとジョーダン、因縁の原点はここからでした。

翌'83年は2回戦で敗退してしまうものの、'84年には再度ファイナルへ進みます。今度の対戦相手は、これまたキャリアを通じたライヴァルとなるオラジュワン、そしてドレクスラーのコンビが率いるヒューストン大、通称「スラマ・ジャマ」だったのです。



動画で見るとウィンゲートなんて懐かしい名前が確認出来ますね。ともあれユーイングはこのビッグセンター対決を制し、この年遂にジョージタウン大は悲願の初優勝を達成したのです。その原動力たるユーイングが最優秀選手に選ばれたのは当然の流れでしょう。そして既にアメリカに帰化していたユーイングはこの年、ロサンゼルス五輪にマイケル・ジョーダンと共に出場、母国での開催で金メダルをもたらします。



ユーイングは翌'85年にもジョージタウン大を決勝へ進出させ、ネイスミス賞を受賞。アーリーエントリーすることなく4年間の大学生活を終え、いよいよ満を持して'85ドラフトにエントリーしたのでした。このドラフトでは初めてロッタリーが導入された時でもあります。上位指名権が欲しいがために成績の悪いチームがわざとシーズン中後半の試合を投げる悪弊を防ぐための導入でした(まあ、今でもシーズン終盤には同じような光景が見られますし、完全には防げませんが)。

このユーイング1位指名が鉄板な年に1位指名権を獲得したのが、ニューヨーク・ニックスでした。この1位指名権獲得には何故か不正疑惑が囁かれました。曰く、NBA経営陣はニューヨークという大市場にユーイングのようなスターを送り込みたかった、というのです。かつてABAで看板スターだったジュリアス・アーヴィングをニューヨーク・ネッツに移した事がありましたが、同じような動機ですね。もっとも今となっては真偽の程は定かではありませんが・・・。

ともあれ、好敵手オラジュワン('84年ドラフト1位指名)とジョーダン(同3位指名)に遅れること1年、ニックスに入団したユーイングもいよいよNBAデビューとなった訳です。時は正にバード&マジック時代のピーク、セルティクスとレイカーズが優勝を分け合う時期でした。ニューヨークはマジソン・スクエア・ガーデンに集う熱きファンの期待は33番の若き背中に集まったのです。

(以下、中編へ)

※参考文献

ウィキペディア

Wikipedia

nba.comからバイオ

Basketball-Reference.com

knicksonline.comよりキャリアハイライト

thechroniccurmudgeon.comよりドラフト疑惑関連記事

ニューヨークタイムズ紙より、上記ブログに引用された元記事

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NCAA全米大学バスケットボール選手権1982年決勝 ノースカロライナ大学 対 ジョージタウン大学
NBAクラシックス パトリック・ユーイング