ブログネタ
NBA に参加中!
前編

中編

後編

'94ファイナルの無念の惜敗を見た時、ニックスが再度ファイナルまで勝ち上がる可能性を考えるのは至って当然の事です。しかし、実際にニックスがファイナルまで勝ち上がるのには時間が必要でした。その理由の1つは、同じアトランティック・ディヴィジョンに所属していたオーランド・マジックの躍進です。シャックとペニーのコンビにブルズからホーレス・グラントを迎えたマジックはニックスに代わってディヴィジョンを制します。

しかしながら、'95プレーオフのカンファレンスセミファイナルでニックスを倒したのは、マジックではなくプレーオフ3年連続の対決となったペイサーズでした。ニッキチ番長格(?)たる映画監督スパイク・リーとのトラッシュトーク合戦もすっかり板に付いたレジー・ミラーのミラクルがこの時も炸裂します。



ホームでの初戦、残り1分切って6点差のリードがこのミラータイムで掻き消え、ニックスは結局この試合を落としてしまいました。激戦のシリーズの行方はまたしても第7戦まで持ち越されたものの、3年越しのミラーのリヴェンジは遂に成り、ニックスは前年の半分にも満たない11試合でポストシーズンを終えました。そしてこの敗戦を機に、パット・ライリーはニックスHCの職を去ります。後任はドン・ネルソンでした。

結局のところ、ジョーダン第1の引退期だった2シーズンの間、リーグを席巻したのはビッグマンでした。東のユーイングとシャック、西のオラジュワンと提督ロビンソン。彼らがこの2シーズンのプレーオフでの主役だったのです。ガードでこのプレーオフでのシリーズを左右するほどの活躍を見せたのはレジー・ミラーぐらいだったでしょう。そして、そのレジー以上の支配力を持つ男、マイケル・ジョーダンはこのプレーオフ中にNBAに戻って来たのです。

ホーレス・グラントを失ってインサイドに計算出来る選手がいなかったためにニックスと同じカンファレンスセミファイナルでマジックに敗れたブルズは、そのオフにピペンを筆頭にブルズ古株の面々との因縁も深いロドマンを獲得する賭けに出ます。じゃじゃ馬ロドマンをヒッピー出身の知将フィル・ジャクソンは見事に乗りこなし、ロドマンはフィルにピストンズ時代の師匠チャック・デイリー以来の全幅の信頼を預け、ここにブルズ史上、いやNBA史上でも屈指の最強チームが誕生してしまったのです。正直言ってこのブルズがラストダンスを踊る'97-'98シーズンが終わるまで、実質他のチームに優勝のチャンスなど無かったと言えます。

'96プレーオフ、ディヴィジョン2位のニックスは2年連続キャヴスを1stラウンドで倒したものの、カンファレンスセミファイナルでブルズに1勝しか出来ず惨敗。ドン・ネルソンのアンソニー・メイスンPF(ポイント・フォワード)化計画はシーズン半ばで頓挫し、ネルソンHC時代は1年と持たずして終わりました。そしてその後任が、あのジェフ・ヴァンガンディーだったのです。スチュ・ジャクソン、ジョン・マクロード、パット・ライリー、そしてネルソンの4人の元でACを務めたヴァンガンディーはそのライリー退任とネルソン早期退職で混乱しかけていたはずのニックスを見事に纏め上げる手腕を発揮、'96-'97シーズンにはシーズン57勝を挙げてプレーオフに臨みます。ホーネッツをスウィープで下し、カンファレンスセミファイナルで対戦した相手こそ、ニックス近年最大の因縁の相手、マイアミ・ヒートだったのです。

エクスパンションチームの常でなかなか上位進出出来なかったヒートは、ニックスを辞任したばかりのライリーをHCかつGMとして迎えます。チームの人事権をも握ったライリーは早速大きくチームを改造し、シャーロット・ホーネッツとの再契約が縺れていたアロンゾ・モーニングをトレードで獲得するなどしてチーム力を強化すると、フランチャイズ記録となる61勝を挙げ、1stラウンドでペニーに手こずりながらも3勝2敗で勝ち上がって来たのでした。

前コーチパット・ライリーが率いるチーム、しかもセンターにジョージタウン大の後輩で、オフには母校で共に汗を流すアロンゾ・モーニング。ユーイングにとってやり難い相手だったことは想像に難くありませんが、そんなユーイングの思いと関係無く、過熱したシリーズは思わぬ方向へと暴発してしまいました。



第5戦でのチャーリー・ウォードとP.J.ブラウンのプロレスのような応酬をきっかけに起きた乱闘の結果、ニックスはウォードが残り2戦、ユーイングとアラン・ヒューストンが第6戦、そしてラリー・ジョンソンとスタークスが第7戦での出場停止というペナルティーを受けます。主力選手を欠いたニックスは結局3勝1敗の優勢から3連敗を喫しての敗退となり、ここにニックスとヒートの因縁は決定的なものとなりました。

翌'97-'98シーズンはユーイングが12/20に手首を骨折すると残りシーズン全てを欠場する事態となりますが、ニックスは55勝を挙げてプレーオフへ。1stラウンド2年連続のヒートとの対決はまたも良くない方向にヒートアップしてしまい、今度は元ホーネッツの同僚だったはずのラリー・ジョンソンとモーニングのパンチの応酬という形で暴発してしまいました。ヴァンガンディーHCが必死で止める姿が印象的だったこのシリーズ、今度はこのモーニングの出場停止が響いたヒートを下してニックスが制します。続くカンファレンスセミファイナルでユーイングが復帰しましたが、ニックスはあっさりペイサーズに土俵を割ってしまいます。ニックスのユーイング時代に黄昏が迫り始めていました。

短縮シーズンとなった'98-'99シーズン、ニックスはシーズン前にユーイングの相棒オークリーをキャンビーと交換でラプターズへ放出。そしてウォリアーズでP.J.カーリシモHCの首を絞めて一時はNBA永久追放の処分を受けていたスプリーウェルを、スタークスとのトレードで獲得します。しかしながらヴァンガンディーHCは新加入の面々を重用せず、結果ニックスは50戦中27勝で、辛うじて第8シードでのプレーオフ進出となりました。



そこからのニックスの快進撃・・・しかし、その主役は最早ユーイングではありませんでした。1stラウンドでヒートを最終戦で下す決勝ジャンプショットをオフバランスで沈めたのはヒューストンであり、カンファレンスセミファイナルでホークスを4勝0敗で一蹴する際にムトンボの上からワンハンドダンクを叩き込んだのはキャンビーであり、カンファレンスファイナル第3戦で劇的な4ポイントプレーを決めてシリーズの流れを決めたのはラリー・ジョンソンでした。ユーイングがそこまでのシリーズに貢献していなかった訳ではありませんが、そのカンファレンスファイナル第3戦からDNPだったのです。

そしてファイナル、相手はここまでNBAチャンピオンに縁の無かったスパーズ。提督デヴィッド・ロビンソンと新鋭ダンカンのツインタワーに相対するにはニックスのフロントコートはあまりに薄く、ユーイングがウィリス・リードの奇跡を再演してコートに立つ事を期待する声も小さくありませんでした。しかし、結局ユーイングがファイナルのコートに立つ事は無く、スプリーウェル決死の奮闘も空しくニックスはスパーズに屈します。それは、ユーイングの同世代ビッグマンたるロビンソンが、オラジュワンに続いてリングを獲得した瞬間でもありました。ユーイングはまたしても目の前でライヴァルが優勝の歓喜に沸くところを目の当たりにする事となったのです。

翌'99-'00シーズン、昨プレーオフでユーイング抜きでのファイナル進出を受けてユーイング不要論が囁かれる中で50勝を挙げたニックスは1stラウンドでカーターとT-MAC、そしてオークリーのラプターズを倒すとカンファレンスセミファイナルで4年連続ヒートと激突。4年連続最終戦まで縺れ込みましたが、またもニックスがシリーズを制します。しかしペイサーズにカンファレンスファイナルで2勝4敗で敗れた後、遂にニックスフロントとユーイングは決裂。ユーイングは遂にニックスのユニフォームを脱ぎ、ソニックス(現サンダー)へとトレードされてしまったのです。



しかし、このトレードは双方にとって不幸な結果に終わります。ニックスは翌'00-'01シーズンも48勝を挙げるもののプレーオフでは1stラウンドでラプターズに倒され、長い低迷時代に突入してしまいます。そしてユーイングもソニックスで出場した79試合全てに先発したものの流石に衰えは隠せず、キャリア初の平均得点1桁にまでスタッツを落とします。そしてソニックスも44勝と勝ち越したもののプレーオフ出場は逃してしまいました。

そして明けた'01-'02シーズン、ユーイングが選んだ移籍先がオーランド・マジックだったのです。グラント・ヒルとダンカンを同時にFAで獲得する目論見が崩れたためにヒルとT-MACを迎えたマジックでしたが、ヒルが故障のため殆どプレー出来なかったため、実質T-MACのワンマンチームになっていました。特にフロントコートの薄かったマジックはホーレス・グラントを再度呼び戻すと同時にユーイングを招いたのです。シャック以来の本格派センター(サイカリーの事も思い出してあげて欲しいものですが・・・)と地元紙も期待したユーイングの加入でしたが、彼の衰えは更に進んでおり、65試合の出場中先発は僅か4試合、平均出場時間も13.9分にまで落ち込みます。そしてプレーオフに出場したマジックがホーネッツの前に1stラウンドで敗れ去ったと同時に、ユーイングの長いNBAキャリアは遂に終わったのです。6.0得点4.0リバウンド、それがユーイング最後のシーズンのスタッツでした。



ニックスをトレードで去る時こそニューヨークのメディアもニックスファンもユーイングに冷淡な感さえあったものの、上に貼った動画で確認出来る通り、ニックスを離れて初のマジソン・スクエア・ガーデン帰還の様子、そしてキャリア最後となった背番号6(ヒルが33番を譲るべきだったと私は今でも思っています)でのマジソンでの試合を見れば、ニックスファンのユーイングへの愛情は十二分に伝わります。それは肝心のニックス自体が低迷しているという事情も少なからず影響しているかも知れませんが・・・。

なるほどユーイングはニューヨークに優勝の凱旋パレードをもたらす事は出来ませんでした。しかし、チーム通算得点では2位のウォルト・フレイジャー(ニックス2度の優勝に貢献したレジェンド級名PG)に10,000点近い差をつける23,665点で1位、通算リバウンドでも伝説の名センターウィリス・リードを押さえて10,759で1位、通算ブロックはブロックを記録したのが'73-'74シーズンからという事情もあるとは言え2,758で2位のビル・カートライトに2,000以上の大差を付けて1位、通算スティール(こちらも'73-'74シーズンから記録開始)でさえも1,061で1位です(但し、恐らく真のニックススティール王は上述のフレイジャーでしょう)。更に出場試合、フリースロー成功数でもユーイングがチーム最高記録を保持しています。ニックスファンにとって、やはりユーイングこそがチームの象徴である事は疑いないでしょう。ブルズファンにとってのジョーダンと等価値、そう言って概ね間違っていないと思います。

ジェフ・ヴァンガンディーがロケッツのHCを務めていた際に彼の元でアシスタントコーチに就任したユーイングはヤオミンを育てた後、ジェフの兄であるスタン・ヴァンガンディーHC(彼もまたライリーのアシスタントコーチからHCへ昇格しました)の元、キャリア最後のシーズンを過ごしたマジックで、今度はドワイト・ハワードの育成にあたっています。東西の現NBAを代表するセンター2人の成長にユーイングが関わっているという事実は、彼のビッグマンへのコーチング能力の高さを示すものと言えるでしょう。

ホール・オブ・フェイムにも先般選ばれたユーイングは今シーズンもマジックのアシスタントコーチの仕事を継続する予定ですが、息子のパトリック・ユーイングJr.もニックス入りした今、もしもニックスからアシスタントコーチのオファーが届けばたちまちニックスへと翻意してしまうと思います。マジックファンの立場としてはまだまだドワイトの育成をお願いしたいところなのですが・・・。彼の長きに渡るプレーオフでの栄光と蹉跌の経験は、必ずドワイトにとって良い他山の石となるはずです。

優勝の栄光はNCAAとオリンピックでしか味わえませんでしたが、ユーイングは間違い無くNBAの歴史に残る名センターの1人でした。現役選手としてのキャリアは終わりましたが、名HCとなってニックスを率い、ニックスの黄金時代をもう一度取り戻す可能性も決して少なくないと私は思っています。・・・但し、出来ればドワイトの引退後にお願いしたいところですが(笑)。

P.S.
ユーイングがマジックで背番号6をつけた理由ですが、恐らくドリームチームでの背番号が6だったからだと思われます。ユーイングJr.の6番もそこから来ているのかも知れませんね。

banner_03

Sports Great Patrick Ewing (Sports Great Books)
Sports Great Patrick Ewing (Sports Great Books)
In the Paint
In the Paint
Patrick Ewing (Basketball Legends)
Patrick Ewing (Basketball Legends)
NBAクラシックス パトリック・ユーイング
NBAクラシックス パトリック・ユーイング