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死んじまったらおしまいじゃねぇか!

特に最近そう思うのは、私が所謂無信教に近しいスタンスだからでしょうか。それなりに年を取ったからでしょうか。それとも東日本大震災での生と死のドラマをあまりにも頻繁に目の当たりにしてしまったからでしょうか。それでもまだ、戦争を体験していないだけこの日本における我々の世代はまだ運が良いのかも知れませんが・・・。

生死観は人それぞれですが、とりあえず死んでしまえば人間は活動を停止し、やりたい事も出来なくなってしまいます。生まれ変わりとかあるかどうか分からないものにすがるのは危険です。どんなハンデを背負ったとしても、今この人生でベストを尽くさないと始まらないんです。

ただ、仕事に没頭したり、何かに夢中になったりするのは良い事ですが、度が過ぎればそれは時にあなたの命を縮めます。何事も程々にして、駆け足の人生よりも多少細くとも長い人生を私は望みたいですね。そりゃあ太くて長いのが最高なんですが。

前置きが長くなりました。今回取り上げるのは(´・ω・`)ショボーン列伝の3で取り上げたレン・バイアスに続いてセルティクス史上に残る悲運の名選手となってしまった男、レジー・ルイスであります。

ルイスはバイアスよりほぼ2年遅れた1965年11月21日生まれ。そして驚く無かれ、彼もまたメリーランド州出身です。但しルイスの場合はバルティモアの生まれでした。ルイスが進学した東バルティモアのダンバー高校は、彼のバスケット選手としてのキャリアの原点となります。

http://www.slamonline.com/online/college-hs/high-school/2007/09/dunbar-high-brick-house/

マグジー・ボーグス、レジー・ウィリアムズ、デヴィッド・ウィンゲート、そしてルイスと後のNBA選手を4人も擁するダンバー高は圧倒的な強さを見せました。'81-'82シーズン29勝0敗、そして'82-'83シーズン31勝0敗。それがルイス在籍時のダンバー高のシーズン成績だったのです。このチームは史上最高の高校チームの一つとして未だに語り草となっています。



http://www.sports-reference.com/cbb/players/l/lewisre01.html

バイアスと異なり、彼は大学でメリーランド州を出ます。進学した先はボストンのノースイースタン大でした。ここで彼は平均22.2得点をマークし、総得点数(2,708点)でも大学歴代No.1となります。言うまでも無く彼の背番号は永久欠番となりました。そして大学をキッチリ卒業してから、彼はNBAへと向かったのです。バイアスの悲劇から1年後、'87年のドラフト1巡目、22位。当時の1巡目としては下から2番目という順位で彼はセルティクス入りを果たしたのです。

ルイスがセルティクス入りを果たした時、まだセルティクスはバード、マクヘイル、パリッシュによるBIG3体制が健在でした。K.C.ジョーンズHCが新人をあまり使わないという事もあって出場時間も決して長くない中で、それでも時として出番が長くなればルイスは2桁得点をキッチリ稼いでみせたのです。またBIG3から若い彼が得るものは決して少なくありませんでした。

その効果が、2年目から早くも現れます。HCが交代し、バードが6試合しか出場出来なかったこのシーズン、ルイスは81試合中57試合に先発してFG成功率.486で18.5得点4.7リバウンド2.7アシスト1.5スティールを稼ぎ、一躍チームの中心に踊り出たのです。プレーオフでは1stラウンドでピストンズにスウィープ負けを食らったものの、バードが戻った'89-'90シーズンもルイスは79試合中54試合に先発、エインジを追い出して先発SGの座をほぼ手中にしました。FG成功率も.496と更に向上させてバード、マクヘイルに続く17.0得点を挙げ、完全に主力選手の座を固めます。もっとも、この時もプレーオフでは1stラウンドでニックスに敗退します。

名PG、デニス・ジョンソンが去ってブライアン・ショーに代わった'90-'91シーズンには18.7得点5.2リバウンドでチーム2位の得点源となり、今度は1stラウンドを突破、またもピストンズに2勝4敗で敗退。そしてバード最後のシーズンとなった'91-'92シーズンにはルイスは遂に20.8得点でチームの得点王となり、オーランドでのオールスターにも初選出されたのです。そしてプレーオフ、1stラウンドでペイサーズに勝った次の相手はキャヴスでした。その時のインタヴュー動画がありましたのでどうぞ。



セルティクス対キャヴスの激戦は第7戦まで縺れましたが、最後はマーク・プライス、ナンス、ドアティーを擁したキャヴスに凱歌が上がります。とは言えバードが引退し、マクヘイルとパリッシュも年齢による衰えが隠せなくなってきたチームにおいて、ルイスは完全にフランチャイズのセンターピースとなったのです。ドラフト22位指名選手としては申し分の無い大出世ですね。セルティクスはあのバイアスの悪夢を振り切り、次代を担う選手を得たかに思われたのです。

そして運命の'92-'93シーズン。バードを継ぐ新キャプテンに選ばれたルイスは80試合全てに先発して20.8得点4.3リバウンド3.7アシスト1.5スティール。しかし、問題は彼以外の選手でして、得点2位のゼイビア・マクダニエルは13.5得点。35才のマクヘイルと39才のパリッシュの衰えはいよいよ深刻なものになっていました。それでもルイスの尽力でチームは48勝を挙げます。ルイス加入以来セルティクスは57勝→42勝→52勝→51勝と推移していました。バードが引退し、BIG3の残り2人が衰えていたこの状況で48勝はむしろ賞賛に値します。そしてプレーオフ、第4シードで臨んだ1stラウンドで対戦した相手こそが新進気鋭のシャーロット・ホーネッツでありました。

第1戦はモーニングとギルに30得点を許したものの、3Qに引き離したセルティクスがまず1勝を挙げます。しかし、この試合でルイスは僅か13分の出場に留まり、17得点しか挙げていません。このゲーム、ルイスは試合開始早々に10点を稼ぎました。そして試合開始6分ほど経過した時、彼は突然前のめりに倒れるとベンチへ下がります。ベンチで休んだ後再び出場するも1分後に再び眩暈を覚えたルイスは前半の出場をここで終えました。チームドクターの診察を受けた後、再びルイスは後半開始早々に2本のシュートを決めるも再び眩暈に襲われ、ベンチに下がったのです。ルイスにとっては不本意極まりなかっただろうこのゲームが彼にとって最後の試合となってしまったのです。



この後、キャプテンを失ったセルティクスは第2戦を98-99と接戦で落とし、第3戦も89-119と惨敗。そして第4戦、このモーニングのクラッチショットと共にセルティクスは1stラウンドに沈んだのであります。

一方のルイスは4/30にニューイングランド・バプティスト病院で診察を受け、一旦帰宅するも精密検査のため緊急入院。心臓の異常の疑いが出てきたのを受け、セルティクスはボストンの心臓専門医13名を集めます。「ドリームチーム」と言われたこの医師団は「限局性心筋症による不整脈」という結論を下します。彼らは5/2、セルティクスのチームドクターを通じてルイスに引退を勧めたのです。

しかし、唐突に引退を告げられたルイスはこれに反発、数時間後に制止を振り切ってブリガム&ウィメンズ病院へ強引に転院してしまいます。そしてチームドクターがドリームチームの診察の詳細をテレビのインタヴューで明らかにした事で、ルイス側は更に態度を硬化させてしまいました。試合中にルイスを何度か試合に戻した事、そしてこの医師のルイスへのコミュニケーションミスはセルティクスへの非難を呼びました。

そしてブリガム&ウィメンズ病院は5/10に、ルイスを「心臓神経症」であると発表、ルイスの現役続行を許可したのです。一度は引退と言われたルイスの喜びは言うまでもありませんでしたが、結論ありきの診断だったのでは?というように傍目には見えてしまいます。ドリームチームとブリガム&ウィメンズ病院の医師との討論という話も持ち上がりましたが、セルティクス側はこれを結局断ります。法的な責任を避けたセルティクスのこの判断もまた、ルイスにとって命取りでした。

とはいえルイスも流石にブリガム&ウィメンズ病院による、あまりにも好都合過ぎる診察結果をそのまま信用するのもどうかと思ったのでしょう。6/21にはセカンドならぬサードオピニオンを求めてロサンゼルスにて4人の心臓専門医の診察を受けます。が、結局明確な結論は出ませんでした。悩んだルイスですが、そもそも現役続行への思いがあってこの転院を強行したのですからその判断を変える訳もありません。結局ブリガム&ウィメンズ病院の指導の元、復帰への準備を行いました。

そして7/27、午後4時15分。ルイスは親戚と共にセルティクスの練習場、ブランダイス大学の体育館で軽いシュート練習を始めます。しかし、5時過ぎにルイスは倒れました。たまたま隣のコートにいた救急医療士の指導の下まずブランダイス大学の警察官達が、追って到着した救急隊員が蘇生処置を行ったものの反応は無く、遂にはブランダイス大学長(後のマサチューセッツ総合病院長)までも駆けつけますが、状況は同じでした。

その後ウォルサム・ウェストン病院に運ばれたルイスでしたが、医師のあらゆる努力も実る事はありませんでした。かくて午後8時30分、既にルイスが倒れた事を知って報道陣もかけつけていた病院で、ルイスの妻の要請により医師による蘇生処置は終わりました。ここに、セルティクスはチームキャプテンにしてチームのエースたる偉大な選手を永遠に失ってしまったのです。享年27才の若さでした。

なお、ルイスの死後その死因がコカインによるものであるという記事がウォール・ストリート・ジャーナル紙に掲載されています。しかしこの件については証言なども錯綜しており、疑うに足る材料は少ないと思います。ルイスの生命保険会社がウォール・ストリート・ジャーナル紙に手を回して書かせた記事という説もありますが、個人的にはバイアスの死因から同じ可能性を連想して書かれた記事なんじゃないの?という気もしないではありません。その後ルイスの妻はブリガム&ウィメンズ病院側と法廷で争う事となりますが、個人的には「だったら最初にドリームチームの話をもっと冷静に聞いていれば・・・」という感を持たずにはいられません。

ともあれ、このルイスの死と共にセルティクスは一挙に暗黒時代に突入してしまいます。働き盛りのエースを失ったセルティクスはこの後一気にドアマット化し、8シーズンの間に1度も勝ち越せず、プレーオフも1回しか出場出来なくなります。特にマジックに1stラウンドで敗れて伝統あるボストン・ガーデンを後にしてから、'95-'96シーズン以降は実に6年の長きに渡ってポストシーズンと縁が無くなってしまうのです。これは栄光あるセルティクスの歴史において最長の屈辱でありました。

ポール・ピアースが2000年の9月25日、ロサンゼルスで暴漢に襲われて瀕死の重症を負った際、セルティクスファンの頭をよぎったのは間違い無くバイアス、ルイスの悲劇であったでしょう。またしてもチームの未来を担うフォワードが不測の事態で散ってしまうのか・・・そう思うのは当然です。しかし現場で一緒だったトニー・バティの迅速かつ適切な対応、そして僅か3日で退院したピアース自身の驚異の回復力でもって彼は'00-'01シーズンフル出場を果たします。そして翌シーズン、ピアースの活躍で遂にセルティクスはプレーオフに戻ったのです。バイアス、ルイスと続いたセルティクスの悲劇の連鎖が断ち切られた瞬間でした。

ルイスの背番号35は現在、セルティクスの永久欠番となっています。セルティクスで優勝せずに永久欠番となった選手は彼以外に1人しかいません。彼と背番号が1つしか違わないピアースのファイナルMVPの姿に、ルイスの魂がいくらかでも救われた事を願って止みません。





※本文引用以外の参考文献
Wikipedia
Fallen Celtic: Remembering Reggie Lewis
TIME誌より「Did Reggie Lewis Have to Die?」
バルティモア・サン紙より「Remembering Reggie Lewis」
バスケットボールリファレンス.comよりキャリアスタッツ

※ルイス入院の状況について週刊医学界新聞の連載、「市場原理に揺れるアメリカ医療 番外編 スター選手の死(マサチューセッツ総合病院内分泌部門、ハーバード大学医学部助教授 李 啓充)」を特に参考にしました。



Mitchell&Ness(ミッチェル&ネス) フィッテッドキャップ“BOSTON CELTICS”HEATHERED LOGO GREY
Mitchell&Ness(ミッチェル&ネス) フィッテッドキャップ“BOSTON CELTICS”HEATHERED LOGO GREY