ブログネタ
NBA に参加中!
マイケル・ジョーダンの功罪のうち、最大の罪を挙げるとするならばダンク、でしょう。空中を華麗に舞い、ダンクする彼の姿は確かに世界中の人々をも虜にしました。しかし、一方で彼のダンクを目の当たりにした全米の子供達はダンクにばかり夢中になり、バスケットの基礎練習を怠り、結果運動能力だけで戦おうとするような選手ばかりになって、国際大会で基本的なスキルに勝る他国に勝てなくなっていった・・・どうやらそういう事のようです。

また、ジョーダンというアイコンの偉大さゆえに、その後「ジョーダン二世」と呼ばれた選手は雨後のタケノコの如く次々と登場しましたが、コービー・ブライアントという偉大なる例外を除いてその称号で呼ばれた選手達はほぼ全員大成しなかったのです。

当シリーズもいよいよ本題と言いますか、当初のプランで想定していた面々を取り上げていこうと思います。即ち、高い期待を裏切り若くしてNBAを去っていった、ついぞNBAで才能が花開かなかった面々です。今回はその中でも代表格と言える選手を取り上げましょう。ジョーダン二世と呼ばれた面々の中でも極めつけの存在、ハロルド・マイナーであります。



マイナーは1971年5月5日のこどもの日、カリフォルニア州イングルウッドの生まれです。ええ、バイロン・スコットの育ったレイカーズ旧本拠地「ザ・フォーラム」のあった場所ですね。ホームタウンのイングルウッド高校で彼は早くもその運動能力を発揮し、その名を知られた存在となります。特にその爆発的なジャンプ力からの豪快なダンクは強烈なインパクトがあったのです。かくて、彼にはあるニックネームが与えられました。それが「ベイビー・ジョーダン」であります。・・・そのニックネームが後々自分を苦しめると、まだ若いこの時の彼には知る由もありませんでした。



http://www.sports-reference.com/cbb/players/m/minerha01.html

サザンカリフォルニア大(以下USC)へ進学した地元志向のマイナーはここでもその運動能力をフルに生かして次々とハイライトになるようなダンクを連発します。在学3年の間に20.6得点→23.5得点→26.3得点というアヴェレージをマークした彼は、カレッジ通算成績では3ポイント成功率.367となかなか悪く無い感じでした。当時の映像を振り返ってみても、決してダンクだけの選手では無い様に見受けられます。クロスオーヴァードリブルだってサマになってますよね。




それに3年生時にはリバウンドも7.0を稼いでいたのです。そしてこの年、彼はなんとシャック、モーニング、レイトナーといった凄まじい面子を押さえてスポーツイラストレイテッド誌選出のカレッジ・プレーヤー・オブ・ザ・イヤーに選出されます。



(↑何故か動画の最後が関係無い試合になってます)

しかしながら、彼のカレッジキャリアは些か苦い形で終わります。NCAAトーナメントにミッドウエスト第2シードで入ったUSCは2回戦でジョージアテック大と対戦、ジェームズ・フォレストのNCAA史に残る劇的な逆転3ポイントシュートを残り0.8秒からのブザービーターで喰らって敗れ去ります。このゲームをカレッジでのラストゲームとして、マイナーはUSCの総得点歴代1位の記録(2011年7月現在でも1位です)を引っ提げてアーリーエントリーを宣言してNBAへと向かいました。



かくて'92年、シャック、モーニング、レイトナーがドラフトトップ3を占めた年に、マイナーもまた12位指名でヒートに入団を果たしたのです。ヒートとの契約は5年730万ドルといったところでしたが、彼はより大きな収入を得る事となります。



それは、ナイキとの1400万ドルと言われる契約でした。新人ながら早くもこの契約を獲得出来たあたりに、マイナーへの期待の高さが伺えます。実際彼のあのダンクを見れば、CM映えする新たなライジングスターの登場を期待するのは無理からぬことです。6-5のタッパにあだ名が「ベイビー・ジョーダン」では尚更、ナイキとしてはほっとけませんよね。



・・・結論を先に言ってしまえば、NBAという舞台でマイナーが輝いたのはオールスターウィークエンド、スラムダンクコンテストだけでした。'93・'95年の2回、彼はダンクコンテストに出場してそのアスレティック能力を遺憾無く発揮し、細かいテクニックではなくダンクそのものの迫力で2回ともチャンピオンの座を獲得したのです。そしてこれだけが、彼がNBAで勝ち取った名誉の全てでした。

http://espn.go.com/nba/player/_/id/3789/harold-miner

レギュラーシーズンにおいての彼のスタッツは、大きな期待にはそぐわないものでした。ヒートでの3シーズンでは凡そ20分程度の出場時間を与えられ、先発の機会も与えられたものの平均得点は10.3得点→10.5得点→7.3得点と推移。FG成功率も.475→.477→.403と3年目にガクッと落ち込んだのです。そして4年目、'95-'96シーズンにはキャヴスへトレード。もっともキャヴスもそもそもシーズン開始前にマイナーをヴィクター・アレクサンダー(エクスパンションドラフトでウォリアーズから移籍していました)と交換で球団創設1年目のラプターズへトレードしたのですが、アレクサンダーが健康診断に引っ掛かってトレードが取り消しになっていたのです。

結局キャヴスに留まったマイナーでしたが、そもそも戦力外だっただけあって出番は7.2分にまで落ち込みます。そして2/20のブルズ戦、僅か5得点に終わったゲームを最後にチームを解雇されたのです。そして'96-'97シーズン開幕前、ラプターズ入りを目指すもプレシーズン中にカットされるに至り、彼はNBAのみならずバスケットボールそのものから離れる完全引退の道を選んだのでした。

長らく、マイナーがこうなった原因を説明する際には「彼はダンクだけの選手だった」という言い方がとりあえずされていました。もう少しちゃんと説明を加えた場合だと、「ディフェンスが良くなかった」「バスケIQが良くなかった」ってとこでしょうか。恐らく、それはそれで説明として正解だったのでしょう。そしてマイナー自身もその後は人前から姿を消し、バスケットボールとは縁の無い生活を送っているといった程度の情報しか入らなくなっていました。彼は長らくバスケットボールについて語る事さえしなかったのです。

http://www.lostlettermen.com/feature-uscs-harold-mineer-speaks-after-years-of-silence/

しかしながら、2010年になって突如、ESPNヤフーにマイナーの名前が久々に踊りました。その記事ソースが上掲のロストレターメン.comだったのです。ロサンゼルスのアイスクリーム屋で働いてるだの牧師になっただのとあれこれ噂ばかり言われ放題なのに業を煮やしたのか、長年の沈黙を破って遂にマイナーが過去の日々を語り始めたのでありました。「話す時だと思ったんだ。長い時間だった」と言って。

ラスヴェガスの地でマイナーは妻、娘と息子と一緒に暮らしていました。彼は現在職についてこそいませんが、選手時代の稼ぎを浪費する事無く、マメに管理・投資して実に堅実な生活を送っていたのです。おお、豪快なダンクのイメージと裏腹に地に足着いたヒトだったのですね。そんな彼は未だに自分の事を気にする人間が多いのに戸惑い気味でした。

「人々が私に関する話を読みたがっている理由に関して本当にちょっと唖然としているよ。僕は15年間とプレーしていないし、、およそ20年前のUSCでの3年生時以来国の規模で何ら重要な事も成し遂げてないんだ」とダンクコンテストの事は自らカウント外にするあたり、なかなか慎み深いですね。そしてこうも言ったのです。「僕は多分スポットライトの中にいるのに、決して慣れる事は無かった。僕にはスポットライトは落ち着かなくて、自然じゃないって言いたいね」と。そう言われて見れば、マイナーがダンクコンテストでチャンピオンになった時、トロフィーを持つ彼の表情はレブロンなんかが見せるふてぶてしさや自信のようなものとは無縁なものに感じられますね。むしろ良い子風にさえ見えます。

ナイスガイ風


※画像引用元はこちら

さて、更にマイナーの言に耳を傾けてみましょう。

「僕がプレーをやめた理由は2度の膝の手術を受けて悪化した間接を膝に抱えていた事、だからこそそれがあまりの損傷である事、そして僕が最後には膝に非常に軟骨が少なくなってしまった事を、多くの人々が理解しない」

実はそうだったんです。彼の4シーズンに渡るNBAキャリアにおいて、82試合フル出場という年は1度として無かったのですね。ディフェンスの欠落もこれで説明がつきます。なお、'97年にラプターズ入りを目指した時も、彼はよりによってコートの湿りでスリップしてしまい、膝を悪くして動けなくなってしまったのだそうです。

「まるまる2週間、僕はトロントで眠れなかった―全く眠れなかったんだ。分かってたんだと思う、おしまいだって」

今こうして彼の発言に耳を傾けてみると、果たして「ダンクだけ」「ディフェンスがダメ」といった過去の彼への評価が正しかったのかちょっと悩みます。無論これは彼の主張なので、実際のところはやはり彼自身に問題があった可能性も決して少なくありませんが、故障こそが彼のキャリアに暗い影を落とした主因である、という見かたは一考に価するなとも思いますしね。

ただ、間違い無く言える事はやはり「ベイビー・ジョーダン」というニックネームの重さでしょう。USC時代のHCであるジョージ・ラヴェリングはこう言っています。

「ハロルドに起こった最悪の出来事は『ベイビー・ジョーダン』のタグだといつも感じていた」

本当はスポットライトに当たるのも居心地が悪かった彼は、本当は主役ではなく例えばピペンのような脇役ポジションこそが望みだったのかも知れません。しかし、ジョーダンブーム真っ盛りのあの頃、世間は彼にそれを許してくれませんでした。実際のところ、マイナーのダンクのスタイルはジョーダンというよりもドミニク・ウィルキンスのそれに近かった気がするのですが・・・。もしも彼のニックネームが「ベイビー・ジョーダン」でなく「ヒューマン・ハイライトフィルム2nd」だったりしたら彼のバスケ人生はもしかして違っていたのでは、なんて思ったりします。

http://articles.latimes.com/2011/mar/07/sports/la-sp-crowe-20110308

今年(2011年)になってL.A.タイムス紙のインタヴューにも登場した彼は、ここでも概ね同じような内容の事を語ってますね。「寡黙だったので自分を表現するのにバスケットボールを使った」という言葉も上記の文脈で理解出来ますし、「(NCAAの)マーチマッドネスやNBAプレーオフ、オールスターウィークエンドを見るのが辛かった」という言葉も凄く胸に来ます。

嬉しかったのは最初のインタヴューで彼が「旧友やUSCとも連絡を取り、USCの試合を見に行く事さえ考えている」と言っていたことがどうやら実現しつつある事です。彼は実に10年以上のインターヴァルをもって公的な場所、ステイプルズセンターに姿を現しました。それはカレッジ時代に彼の所属していたパシフィック10カンファレンスの殿堂入り発表の場だったのです。そしてマイナーは来季、USC対カンザス大戦の前に行われる自らの背番号23の永久欠番セレモニーnに出席する事を約束しています。母校USCへ、これまた久々の凱旋となる訳です。

また彼は2年前、280ポンドまで膨れ上がった体重を一気に55ポンド減量して現役時代の体重を取り戻したそうでして、これに感銘を受けた彼はパーソナルトレーナーの資格を得るため、USCに戻って身体運動学ないしそれに近い分野の勉強をする事も考えているようです。近い将来、NBA選手を鍛え上げるマイナーの姿が見られる日が来るかも知れませんね。

「ジョーダン二世」という罪深い言葉の最大の被害者、ハロルド・マイナー。ようやく自分の過去に本当に決別出来た彼の今後の人生が、むしろこれから実り多いものとなる事を心から願っております。



※本文引用以外の参考文献
ウィキペディア
Wikipedia
バスケットボールリファレンス.comよりキャリアスタッツ



MITCHELL&NESS MIAMI HEAT SNAPBACK CAP / ミッチェル&ネス マイアミ ヒート スナップバック キャップ【レッド×ブラック】
MITCHELL&NESS MIAMI HEAT SNAPBACK CAP / ミッチェル&ネス マイアミ ヒート スナップバック キャップ【レッド×ブラック】