ブログネタ
NBA に参加中!
健康第一、じゃないですか。健康なうちはその有難さに気が付きませんが、そうでなくなって初めてその有難味に気付かされるってのは本当に良くある話です。これから福島原発事故によって我々も色んな局面で、思いもよらぬ形でそれを味あわされるのではないかと私は結構心配してます。皆、食べるものとか住むところとか色々気をつけるんだぞー。

http://iwaiff.com/201110/jp/friends/friends_after_311_movie_koide.html



さて、今回は流石にそこまで社会派な話ではありません。交通事故でのダメージで約束されていたはずのNBAキャリアを棒に振ってしまったNCAA界の至宝PGを今回は取り上げます。デューク大学で一時代を築き上げた幻の名司令塔、ボビー・ハーリーです。

ハーリーは1971年6月28日、ニュージャージー州ジャージーシティーの生まれです。彼の父ボブ・ハーリーSr.は地元セント・アンソニー高校のHCを勤めていました。



そんなセント・アンソニー高校に進学したハーリーは親子鷹宜しく、学校のスターとなります。'85年から'89年までの在学中、彼は母校を4年連続ニュージャージー州のトーナメントで優勝させたのみならず、4年生時には20得点8アシスト3スティールのアヴェレージ、32勝0敗のチーム成績、そしてアメリカ全体でのランキングNo.1をもたらしたのです。結局、彼の高校在学中の通算成績は115勝5敗という圧倒的なものとなったのであります。お約束のマクドナルドオールアメリカンにも勿論選出されて順風満帆な彼のバスケットボールキャリアは、大学進学により更に追い風に恵まれます。彼が進学した先は名門デューク大学だったのです。



ハーリーがデューク大学に身を置いた'89-'90シーズンからの4年間こそは、デューク大にとって最良の時代でありました。名将コーチKことマイク・シャシェフスキーの元、デューク大学は圧倒的な強さを発揮します。そしてクリスチャン・レイトナー、グラント・ヒルといったスター選手達をコート上で指揮していた司令塔こそがハーリーだったのです。彼は1年生時からいきなり7.6アシストを叩き出しすと、それ以降は徐々に平均得点をアップ。FG成功率も2年生以降は3ポイント成功率共々4割台に乗せたのです。

ハーリーの加入直前シーズンでも既にデューク大は28勝8敗、NCAAトーナメント準決勝まで勝ち進んでいましたが、ハーリー加入後は更に成績が向上。29勝9敗→32勝7敗→34勝2敗→24勝8敗と推移したのです。ハーリーの2年生時にヒルが加わり、4年生になった時にはレイトナーが卒業していました。要するに2・3年時が最強なんですね。実際、その2シーズンでデューク大は優勝しています。1年生時はラリー・ジョンソン率いるUNLVに決勝で敗れましたが・・・。3年生時には優勝のみならずファイナル4のMVPを獲得。また4年生時にはトーナメントこそ2回戦でジェイソン・キッドとラモンド・マレーを擁するカリフォルニア大に屈しましたが、ハーリー個人は17.0得点8.2アシストをマーク、オールアメリカン1stチ−ム選出という成果を得たのです。

カレッジ時代のハーリーのプレーを見ると、彼のコートヴィジョンの広さ、正確なシュート能力、そして6-0とやや低い身長や見掛けからはちょっとイメージ出来ないぐらいの闘志でした。・・・PGにとって理想的な資質ですね、それって。また、彼は決して自らに満足しませんでした。「彼は自らにとても批判的だ」とはグラント・ヒルの談です。

実際彼のノールックパスやアウトレットパスの妙技を見ていると、NBAでもすぐ通用しそうに見えます。当時アーリーエントリーを許さなかったデューク大に進学していなければ、彼はかなりの高確率で大学卒業を待たずNBAへ向かった事でしょう。アーリーエントリーしなかった事でハーリーはNCAAでの通算アシスト記録歴代1位となる1,076アシストを残します。デューク大での1試合アシスト記録16も彼が保持しています。ハーリーはカレッジ史上最高のPGの1人となり、彼の背番号11はデューク大の永久欠番となったのです。とどめに彼は'94年2月公開となったシャックとペニー出演で知られる映画「ブルー・チップス」にも本人役でカメオ出演を果たしています。彼のバスケット人生は完璧でした。ここまでは。

http://nbadraft.net/nba_draft_history/1993.html

'93ドラフト。マジック奇跡の2年連続ドラフト1位が話題を呼んだこの時のドラフトで、ハーリーは1巡目7位でキングスの指名を受けました。5位指名権を持っていたウルヴスがハーリーを指名していればレイトナーとのデューク大コンビがミネソタの地で再結成されるところでしたが、ウルヴスはこの時アイザイア・ライダーを指名したのです。一方当時のキングスはミッチ・リッチモンドをエースとし、しかしながら彼以外の戦力はやや薄いドアマットモードでした。ヴィン・ベイカーのようなビッグマンもまだドラフト候補に残っていましたが、キングスは敢えてバックコートを固める道を選んだのです。



ハーリーはITZ (In The Zone) という会社と契約、TVCM出演を早くも勝ち取ります。そしてキングスでハーリーは加入1年目からいきなり先発PGの座を勝ち取りました。実際、ハーリーはデビュー戦となるナゲッツ戦で7得点7アシスト2スティールを挙げて勝利に貢献します。その後もデビュー8戦目にして早くも2桁アシストをマークするなど、そこそこな出足に見えたハーリーのルーキーイヤーは、しかし僅か19試合で終わってしまったのであります。

http://www.nytimes.com/1994/12/30/sports/driver-guilty-in-hurley-case.html

'93年12月12日。ホームでのクリッパーズ戦に19分00秒出場して0得点7アシストだったハーリーは自らトラックを運転して帰宅の途に着きました。そこで彼はペンキ屋、ダニエル・ウィーランドの運転するステーションワゴンの前で曲がりました。この時、問題は2つありました。1つはウィーランドのステーションワゴンはヘッドライトを点灯していなかった事。そして今1つは、ハーリーがシートベルトをしていなかった事だったのです。

ハーリーのトラックはウィーランドのステーションワゴンに激しくぶつけられ、ハーリーはトラックから投げ出され、肺へのダメージ、肋骨・腓骨の骨折、背骨の圧迫骨折などの重傷を負ってしまったのです。5分後に現場に車で通りがかったマイク・ペプロウスキーの助けもあって、ハーリーは幸い命を落とす事こそ無かったものの、シーズン残りを全てリハビリに当てる事となってしまったのです。彼の代役で先発PGに戻ったのがスパッド・ウェッブだったという訳ですね。

それでも、ハーリーは翌'94-'95シーズンにはコートに戻ってきました。彼は深刻なダメージから何とか立ち直り、バスケットボールが出来る体を取り戻したのです。急に止んだ彼への追い風は、再び吹き始めたかに思われました。



こちらの動画の9位に、復帰したての'94年、ハーリーの見事なアリウープパスが見られます。これを見る限り、ハーリーのプレーは元通りであるように見えますね。



また、ハーリーは自らの事故経験を元に、シートベルト着用を訴えるCMにも出演したのです。こういうCMに敢えて出演ってのはいかにもアメリカらしいですね。しかし、ハーリーの体は回復しても、彼自身のプレーは最早デューク大時代の栄光を取り戻す事はありませんでした。FG成功率は0.370を越える事も無く、NCAAであれだけ決めた3ポイントも通用せず、そして出場機会も失われていきます。それでも出番さえ与えられれば14得点17アシストをマークしてみせた日もあったのですが、3年目、4年目とハーリーの出番は減っていきました。

しかしながら、出場時間あたりでハーリーのキングス時代のアシスト数を計算してみると、実はそんなにペースダウンしている訳でも無いのです。ハーリーがキングス時代の5シーズン、全試合に36分出場したとすると彼のアシストは8.3→7.4→7.3→8.3→6.9と推移した事になります。あれ、そんなに酷くなくね?付け加えるなら、FT成功率だって毎シーズンほぼ7割を越えていた訳ですよ。スタッツを見る限りでは、彼の問題はFG成功率にしか無い様に見えます。

しかし、やはり交通事故のダメージは長期的に彼のプレーの質に響いたのでしょう。ハーリーはキングスでの5年目、'98年の2月18日にマイケル・スミスとのセットで、オーティス・ソープ及びクリス・ロビンソンとの交換でヴァンクーヴァー(現メンフィス)・グリズリーズへとトレードされます。若干の出場時間の向上こそあったものの彼を取り巻く状況にはさして変わりはありませんでした。そしてロックアウトで短縮された'98-'99シーズンの開始前、ハーリーはグリズリーズのロスターからカットされます。ここに、ハーリーのプロ選手としてのキャリアは終わりを告げたのです。栄華を極めたデューク大時代を思えば、あまりに呆気無い終わり方でした。

NCAAでトップクラスだったPGと言えどもNBAで必ずしも通用した訳ではありません。仮に健康なままだったとしてもハーリーがNBAで通用した保証は無論ありません。しかし、少なくとも本人にとっては悔いが無いと言ったら嘘になるでしょう。せめてシートベルトだけでもしていれば、こんな事にはならなかったのでは無いかと思うと、やはり残念でなりません。プロアスリートたる者、帰宅時と言えども気を抜いてはいけなかったんですね。

http://www.usatoday.com/sports/horses/2006-08-04-haskell-hurley_x.htm

良く知られている通り、引退後のハーリーはサラブレッドの馬主となります。彼のソング・アンド・ア・プレイヤー号はファウンテン・オブ・ユース・ステークを勝ちました。現在はデヴィル・イレヴン・ステイブル号の馬主です。もうお分かりでしょうが、この馬名はハーリーの母校デューク大のチーム名ブルー・デヴィルズ、そして彼の当時の背番号11に因んだものですね。これら以外にも優勝した馬を持つなど、馬主としてのハーリーはなかなか順調なようです。もっとも、ソング・アンド・ア・プレイヤー号購入時の借金を返せず銀行に訴えられたりもしているようですが。

http://www.usatoday.com/sports/basketball/nba/sixers/2003-09-25-hurley-sixers_x.htm

その一方で、ハーリーはバスケットボールの世界にも戻ってきました。まず'03年にはシクサーズのスカウトとして雇われ、コーチングへの情熱を語っていました。



そして'10年、その願いは遂に叶えられます。'10年4月、ワーグナー大はハーリーをACとして雇用したのです。これには訳がありました。ハーリーの弟、ダンがHCに就任して、兄を呼んだのでした。親子鷹に続き兄弟船とはなかなか泣かせますなぁ。

http://espn.go.com/mens-college-basketball/story/_/id/6949060/mike-krzyzewski-bobby-hurley-enter-duke-sports-hall-fame

またハーリーは恩師コーチKと共に、デューク大の殿堂入りを丁度果たしたところです。まあ上記のNCAAでの晴好を考えればこれは至って順当なセレクトですよね。



幸せな家庭にも恵まれ、ハーリーの生活自体は思ったよりも幸せであるように見受けられます。あの交通事故のためNBAでこそ輝けませんでしたが、ハーリーの人生はまだまだこれからです。自身が望んだコーチの世界で、ハーリーが成功するニュースが届くのを楽しみに待ちたいと思います。



※本文引用以外の参考文献
Wikipedia
スポーツイラストレイテッド誌より'92年11月23日号記事再録「Greetings From Jersey City」
ニューヨークポスト紙より「Bobby Hurley’s long journey back to basketball」
ThePostGameより「Bobby Hurley's Greatest Moment? Wasn't At Duke」
breederscup.comよりデヴィル・イレヴン・ステイブル号データ
スポーツリファレンス.comよりNCAA時代キャリアスタッツ
バスケットボールリファレンス.comよりキャリアスタッツ



コーチKのバスケットボール勝利哲学コーチKのバスケットボール勝利哲学
著者:マイク シャシェフスキー
イーストプレス(2011-03)
販売元:Amazon.co.jp
クチコミを見る


シートベルトは誰のため?―21世紀の交通安全を考えようシートベルトは誰のため?―21世紀の交通安全を考えよう
著者:岡野 文章
文芸社(2002-08)
販売元:Amazon.co.jp
クチコミを見る