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暴力はいけないですよねーボーリョクは。・・・あ、すいませんうっかり画像間違えました。

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一時的な感情に身を任せる事はあまり人生において良い結果をもたらしません。電車でちょっとぶつかったぐらいでケンカしたり、ムカつく上司だからってブチ切れて「うるさいんじゃこのハゲ」とか口走ってしまったりした結果、職を失ったり網走(仮)へ左遷させられたりする訳ですよ。皆さーん、大人の余裕を持ちましょう。子供のキミもそこんとこ注意ねー。ストレス発散はゲームとかスポーツとかでやっといて下さい。

今回はしかし、そのスポーツの世界で2度ばかりブチ切れてしまい、人生山あり谷ありを地で行ったスーパーアスリートを取り上げたいと思います。永久追放の危機からかろうじて甦り、ロックアウト明けのNBAに一筋の光明をもたらした反逆のスピードスター、ラトレル・スプリーウェルです。

ラトレル・フォンテーン・スプリーウェルは1970年9月8日、ミルウォーキー州ウィスコンシンに、3兄弟仲の次男として生を受けました。スプリーウェルが生まれてすぐ、一家はミシガン州フリントへと引っ越します。そしてスプリーウェルが高校生の時に両親は離婚、スプリーウェルは母と共にミルウォーキーへ戻ったのです。この離婚がスプリーウェルにとってNBA選手への道を行く最初の転機となりました。

スプリーウェルをバスケットボールへ誘ったのはスプリーウェルの転校先、ワシントン高校でバスケットボール部のコーチをしていたジェームズ・ゴードンでした。彼はたまたまスプリーウェルを見かけて声を掛けたのです。この時点まで、スプリーウェルはバスケットボールをチームでキッチリ組織的にプレーした事はありませんでした。しかしながらゴードンの見立ては正しく、スプリーウェルはワシントン高校で平均28得点を叩き出したのです。

とはいえバスケ経験の少なさ故にスプリーウェルをリクルートする大学は多くなく、結局スプリーウェルはスリー・リヴァース短大へと進学します。ここで2年プレーする間に研鑽を重ねたスプリーウェルは2年連続FG成功率50%超、そして16.5得点→26.6得点と成績を向上。更にディフェンス能力に磨きをかけ、2年目には2.3スティールをもマークしたのです。



この実績を認められて、スプリーウェルはアラバマ大学への転校を果たします。ロバート・オーリー、ジェイソン・キャフィー、ジェームズ・ロビンソンといった未来のNBA選手達とチームメイトとなったスプリーウェルは3年生時には8.9得点だったアヴェレージは4年生時に17.8得点まで上がり、同時に1.8スティールも記録。カレッジの世界でも実力を証明したスプリーウェルは、そのバスケ経験の少なさからは考えられないスピードで実力を伸ばし、遂にNBAに手が届くところまで来たのです。



http://nbadraft.net/nba_draft_history/1992.html

シャック、モーニング、レイトナーがTOP3指名を受けた'92ドラフトにおいて、スプリーウェルはアラバマ大のチームメイト、オーリー(11位指名)よりも下、24位でウォリアーズの指名を受けます。しかしながら、この順位でもなおスプリーウェルの指名はサプライズとされました。この段階で指名されていなかった選手にはP.J.ブラウンやショーン・ルックス、マット・ガイガーといった後にそこそこの実績を残したビッグマンが残っており、ウォリアーズは当然彼らをピックに行くものと思われていたからです。解説のヒュービー・ブラウンも実際ピック寸前にブラウンとルックスの名前を挙げてますね。

この動画にはっきりと出てますが、スプリーウェルの強みは無尽蔵のスタミナとディフェンス能力、弱点はシュートの安定性とローテーションチェンジ(これが出てくるあたりは経験の少なさですね)と看做されていました。やはり、彼のバスケ経験の少なさはドラフト時点の評価でも響いていた訳です。結果、同じSGポジションの選手でもジム・ジャクソン(4位)、トッド・デイ(8位)、ブライアント・スティス(13位)、マリク・シーリー(14位)、アンソニー・ピーラー(15位)、ダグ・クリスティ(17位)、ヒューバート・デイヴィス(20位)、ジョン・バリー(21位)といった選手達の後塵を拝する格好となりました。しかも、この1巡目下位指名でもなお、スプリーウェルを選んだドン・ネルソンの選択には疑問を呈する声が多かったのが現実でした。

しかし、いざ蓋を開けてみればスプリーウェルは故障者相次ぐウォリアーズにおいて1年目から77試合中69試合で先発を務め、いきなりキャリアハイとなる.464のFG成功率をマーク。爆発的な運動能力を発揮して15.4得点3.5リバウンド3.8アシスト1.6スティールと驚くほどのオールラウンド振りを開花、3ポイントまでも.369の確率で沈めてみせたのです。RUN-TMCから既にリッチモンドが去って1シーズン経過したこのタイミングで、ウォリアーズはリッチモンドに代わり得る逸材を得たのであります。かくてスプリーウェルはこの年のオールルーキー2ndチーム入りを果たしました。ドン・ネルソンの正しさが証明されたのです。

NBAに入ってスプリーという愛称を得たスプリーウェルは更に飛躍を遂げます。ドラフト1位選手のクリス・ウェバーが加わった2年目'93-'94シーズンには82試合全てに出場して平均43.1分もの出場時間を得て平均得点を20点台に乗せる21.0得点でチームのトップに立ちました。そして4.9リバウンド4.7アシスト2.2スティールとオールラウンド振りを更にアップし、2年目にして早くもオールスター選出を果たしたのです。なお、スプリーはウォリアーズでこのあと'95・'97年と都合3回のオールスター出場を果たします。また、オールディフェンシヴ2ndチームにも選ばれたのです。そしてウォリアーズも50勝を挙げ、プレーオフ進出を果たします。1stラウンドでサンズに3連敗という結果ではありましたが、チャールズ・バークリー相手にトラッシュトークをぶちかますスプリーの闘争心の高さはちょっと尋常じゃ無いですね。



しかしながら、肝心のウェバーとドン・ネルソンHCの折り合いが悪くなった為にウェバーはウォリアーズを僅か1年で飛び出してしまいました。結果ウォリアーズの成績は一気にダウンし、ネルソン自身も翌シーズン半ばにウォリアーズを去る事となってしまったのです。なお、スプリーとウェバーはその1年の間に親友となり、この後も対戦後には一緒に出かける程の仲となるのです。

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ウェバーが去った後、低迷するウォリアーズでスプリーはティム・ハーダウェイ、マリンと共に奮闘し続けます。'95-'96年には再びドラフト1位指名でジョー・スミスを獲得しますが、名将リック・エイデルマンをもってしても勝ち越す事は出来ませんでした。ただ、スプリー自身は上記のようにオールスター出場、そしてコンヴァースとのシューズ契約とCM出演を果たします。



'96-'97年にはティム・ハーダウェイがヒートへ、先発センターとして計算出来る存在になっていたロニー・サイカリーがマジックへと移籍し、更にスプリーに負担がのしかかりました。このシーズン、スプリーはキャリアハイの24.2得点6.3アシスト、そして4.6リバウンドをマークしています。それでもチームは30勝しか出来ず、エイデルマンもまたHC職を去る事となります。彼に代わってウォリアーズの新HCとなったのが、ピーター.J.カーリシモだったのです。

カーリシモはNCAAのセットン・ホール大で「コーチ・オブ・ザ・センチュリー」とまで言われたコーチであり、'88年には初めてセットン・ホール大をNCAAトーナメントへ導きました。そして翌'89年にはNCAAトーナメント決勝戦でミシガン大とオーヴァータイムまで縺れる激闘を演じていたのです。これらの実績を評価され、カーリシモは'90年の世界選手権代表ではコーチKことマイク・シャシェフスキーHCのアシスタントとして、そして'92年のドリームチームではマイク・シャシェフスキーと共にチャック・デイリーHCのアシスタントとして参加していたのです。

そしてNBAでは'94年に、リック・エイデルマンに代わってブレーザーズのHCに抜擢。チームを3季連続プレーオフに導いたものの1stラウンドを突破出来ず、ブレーザーズを去る事となりました。そして間を空けず、またしてもエイデルマンの後任としてウォリアーズのHC職に就いた訳です。しかしながらブレーザーズ時代に既にカーリシモには、選手とのコミュニケーション能力について疑問が持たれていました。カーリシモはNCAAで学生を叱り飛ばすのと同じように、NBAでも選手達にキツく当たっていたのです。カーリシモの暴言がNBA選手達の不興を買い、ブレーザーズを去る原因の一つとなっていた事をウォリアーズが把握していたのか、疑問の残るところです。

'97-'98シーズン、ウォリアーズはクリス・マリンまでもが去り、チームは更に弱体化していました。チームは1勝13敗、しかもその1勝もこの年20勝止まりだったマヴス相手に延長でようやくの白星という惨状で、序盤戦から豪快に沈没していたのです。こんな状態でチームの雰囲気が良いはずは無く、カーリシモも選手達もカリカリ来るのは当然です。そしてスプリーはカーリシモが選手を大人扱いしていないという不満が積もっていました。それが練習場で、遂に爆発してしまったのです。



'97年12月1日、チーム練習中にその事件は起きました。もっとてきぱきパスをしろというカーリシモに対してスプリーは言い返し、カーリシモに近付くなと警告しました。しかし、カーリシモも引きませんでした。彼はむしろスプリーに近付いていったのです。カーリシモは暴言癖が過ぎて「出て行け」と何度も言い放っていたようです。この時、バークリー相手でも食ってかかるスプリーの闘争心が裏目に出てしまいました。

スプリーは「ぶっ殺すぞ」と脅しながらカーリシモを地面に押し倒し、カーリシモの喉を10〜15秒締め付けたのです。他の選手がスプリーをようやく引き離したものの、20分ほどするとスプリーは再びコートに戻り、今度はカーリシモに殴りかかりました。パンチはカーリシモをかすめ、再びスプリーは他の選手によって引き離されました。

実はスプリーにとっては、これは初めての暴力沙汰ではありませんでした。スプリーは'93年には自分より50ポンドもウェイトがあるバイロン・ヒューストンにパンチを見舞っていましたし、'95年にはチームメイトだったジェローム・カーシーと揉め、練習に戻った時には銃(の入ってそうな箱)をちらつかせて脅した、と言われています。

しかしながら、今度ばかりは悪質さが際立っていました。HCの首を絞め、しかもわざわざもう一度殴りに戻っているのです。ウォリアーズはスプリーを10日間無給の出場停止処分とし、翌日にはスプリーの残り3年2370万ドルの契約を無効とします。更にNBAからは1年の出場停止処分が命じられたのです。

また、この事件の結果スプリーはコンヴァースとの契約を失います。こんな事件を起こしてしまって、今更ウォリアーズに戻る事も絶望的。おまけにこの出場停止処分中に無謀な運転で2人が怪我をする事故の原因を作り、3ヶ月の自宅謹慎を命じられるという羽目にまで陥ったのです。3度のオールスター出場を誇ったスター選手から全てを失ったスプリーの前途はこの時、完全に閉ざされたかに思われたのでした。

(以下、後編へ続く)





ゴールデンステート、ウォリアーズキャップ、NBA.バスケットボールキャップ
ゴールデンステート、ウォリアーズキャップ、NBA.バスケットボールキャップ