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「人生いろいろ」とはよく言ったもので、ホント人生には予想外な事が起きます。山あり谷あり、スルスルっと上手く行く時もあれば何だか何をやってもドツボに嵌ってしまったりする事もあるんですよね。人生の花道驀進してたはずが一転して裏街道まっしぐらに行ってしまったり、かと思えばふとした弾みでまたいいルートに戻れたり。人生万事塞翁が馬、でございます。

今回は華々しくデビューを飾るも移籍先で一旦干され、その後の移籍先でも一瞬危なかったところからSGからPGへの転職でキャリアを建て直し、リングを5つ勝ち取るという何気に劇的かつ恵まれた選手生活を送った選手を取り上げましょう。「ハリウッド・ハーパー」ことロン・ハーパーであります。

ロナルド・ハーパーはオハイオ州デイトンにて、1964年1月20日に誕生しました。地元デイトンのカイザー高校時代には早くもオールオハイオ1stチームに選出されたハーパーは、アメリカ全土でもTOP50にリストアップされる高校生でした。コート上で一切トラッシュトークなどをやらない選手だったのです。ただ、寡黙なのはコート上だけの問題ではありませんでした。子供の頃からどもりのため近所の子供達にからかわれ続けてきたハーパーは家族と親友以外とはまともに話す事も無かったのです。高校にいてもハローとグッバイの二言だけしか話さなかったとハーパー自身も述懐しています。

更に読解能力が欠けている事も問題でした。結果、学業成績も振るわなかったハーパーには有名どころの大学からもリクルートの引きの手が無かったのです。地元デイトン大さえ声が掛からなかったハーパーに手を差し伸べてくれたのがマイアミ大学でした。彼らはハーパーを入学させ、言語病理学と聴能学の局長による監督の下、ハーパーの治療にあたったのです。どもりこそ完全には治せませんでしたが、彼らはハーパーに話すペースを教え、読解速度を上げるように勤め、そして何より群衆の前で話す訓練をさせたのです。かくしてハーパーの症状は改善を見ました。

そして、マイアミ大でハーパーのバスケットの才能も輝いたのです。.497→.537→.541→.545と毎年向上するFG成功率、12.9→16.3→24.9→24.4得点と推移する平均得点。ハーパーは更にリバウンドまでも7.0→7.6→10.7→11.7と向上させていったのです。彼のジャンプ能力を生かしたアクロバティックなプレーはジュリアス・アーヴィングに喩えられました。・・・そう、まだこういう選手への比喩にマイケル・ジョーダンの名前は出てこない時代だったんですね。むしろそのジョーダン自身がアーヴィングに喩えられていた時代でした。

マイアミ大自体はハーパーが2〜4年生時代にNCAAトーナメント3年連続1stラウンド敗退で終わったものの、ハーパー個人への評価は高かったのです。そりゃそうですよね、4年生時の成績って24.4得点11.7リバウンド4.3アシスト3.3スティール2.3ブロックですから。そりゃオールアメリカン2ndチームにも選ばれようってもんです。かくて攻守万事に優れたオールラウンドプレーヤーとして大いに期待されながら、カレッジ生活4年をキッチリ満了したハーパーは'86年のNBAドラフトへエントリーします。

http://www.nbadraft.net/nba_draft_history/1989.html#1986



このドラフトでハーパーを1巡目8位で指名したのがキャヴスでした。この年のキャヴスは1位でブラッド・ドアティー、2巡目29位でジョニー・ニューマンを指名。そして2巡目25位でマヴスが指名していたマーク・プライスをトレードで獲得します。更にはグレイグ・イーローやジョン・“ホットロッド”・ウィリアムズも加わったキャヴスはチームの基礎を一気に固めます。

ハーパーのプレースタイルはやはりNBAでも通用しました。1年目から82試合フル出場で22.9得点4.8リバウンド4.8アシスト2.5スティール1.0ブロックですよ?ルーキー・オブ・ザ・マンス2回選出、オールルーキー1stチーム選出は当たり前と言いますか、むしろなんで新人王じゃないの?ってレヴェル。因みにこの'86-'87シーズンの新人王は18.8得点8.3リバウンド3.6アシスト1.1スティールのチャック・パーソン。・・・うーん、チーム成績の差ですかねぇ。パーソンのペイサーズは41勝、ハーパーのキャヴスは31勝でしたから。実際このときの新人王争いは僅差だったようです。



この動画ひとつ見れば、ハーパーが単に運動能力馬鹿で無い事は明らかですね。アーヴィング、マイケル・ジョーダンがそうであったように、ハーパーもまた運動能力を生かしたクリエイティヴなプレーを身上としたのです。先輩達が生み出したスタイルを継承しながらも単なる模倣ではないあたりが素晴らしいですね。なお、あまり知られていませんがハーパーはダンクコンテストにも'87年・'89年の2回出場しています。残念ながら2回とも1回戦敗退ですが・・・。

ハーパー在籍時のキャヴスの躍進と挫折は「栄光無き〜」のマーク・プライスの回で取り上げた通りです。キャヴスは若い力を一気に爆発させ、次代の強豪チームとなるはずでした。しかし、マイケル・ジョーダンとシカゴ・ブルズという高い壁が彼らに立ち塞がってしまったのです。



そして、この「ザ・ショット」の前にキャヴスが散った'89年プレーオフの後、'89-'90シーズンが始まって間もない11月16日にハーパーはトレードされます。

クリッパーズ←ハーパー、'90年1巡目指名権(後にロイ・ヴォートを指名)、'91年2巡目指名権、'92年1巡目指名権(後にエルモア・スペンサーを指名)
キャヴス←ダニー・フェリー、レジー・ウィリアムズ


彼が向かった先は当時、NBA界の牢獄とさえ言われていたクリッパーズだったのです。しかもこのトレードは、'89年にクリッパーズにより1巡目2位指名を受けたダニー・フェリーの入団拒否に端を発するものでした。彼の入団拒否はイタリアで1年プレーするという実力行使を伴ったものであり、クリッパーズも遂にフェリーの獲得を諦めてこのようなトレードに打って出た訳です。ハーパーはとばっちりを受けたようなものでした。何しろ、新人がそこまでして入団を嫌がる球団へ代わりに送り込まれた訳ですからね。

しかもこの'89-'90シーズン、ハーパーはクリッパーズで僅か28試合しか出場していません。別に彼はフェリーのように出場を拒んだ訳では無いのです。ハーパーのような選手にはよくある事ですが、膝の故障が彼を襲ったのでした。かくてハーパーからキャヴス時代のアクロバティックな動きは影を潜めてしまいます。しかし、それでもハーパーはクリッパーズで腐らず頑張りました。彼がクリッパーズ時代にマークした約2.0スティールというアヴェレージは未だにクリッパーズのチーム記録となっていますし、得点はじめ各スタッツでの記録もキャヴス時代とそう変わらないものだったのです。確かハーパー自身は当時の事を色々ぼやいているインタヴューが存在したと思いますが、少なくともコート上では彼はベストを尽くしていたと思いますね。何しろ、彼が在籍している間、クリッパーズは'92・'93年の2回に渡ってプレーオフ進出を果たしているのですから。ハーパーが「ハリウッド」というニックネームを得たのもこの時です。



そしてそんなハーパーに転機が訪れます。が、最初はそれはそれでキッツイ選択肢でした。ハーパーは'94年9月15日、FA移籍で契約した先はかつての宿敵シカゴ・ブルズ。しかも、あの大敵マイケル・ジョーダンは正に引退中。恐ろしい事にハーパーは、ジョーダンの代役というおよそ99%の選手に不可能なミッションを背負わされたのです。今やかつての運動能力をも失っているハーパーにそれは無理な相談でした。

結果、ブルズでの彼の1年目の成績はそれまでのキャリアアヴェレージを大幅に下回る6.9得点に留まり、シーズン途中からは先発の座さえ失います。3/19に当のマイケル・ジョーダンが現役復帰を果たしてしまっては尚更ですね。しかもこのシーズン途中からハーパーは戦線離脱、プレーオフカンファレンスセミファイナルのマジック戦でようやく復帰を果たすも殆ど貢献出来ないままシリーズ敗退。ハーパーの存在意義さえ問われるこの流れから、しかし劇的なキャリアの転換がここで起きたのです。

ブルズは'95オフ、それまで先発PGを勤めていたB.J.アームストロングをエクスパンションドラフトで放出します。ハーパーはB.J.に代わり、フィル・ジャクソンの下でSGからPGへの転職を果たしたのです。元々オールラウンドな彼は背の高いPG好みななフィルの条件を満たしていました。それにトライアングルの元ではピュアPGタイプは必要無かったんですね。ハーパーはPG的役割よりも、ディフェンダーとしてその力を発揮する事となりました。

かくてハーパーのキャリアは思わぬ形で甦りました。ロドマンも加わったこのシーズン、ブルズはかつてプレーオフで激闘を演じて勝ち続けたキャヴスと負け続けたピストンズから先発選手を1人ずつ仕入れてパワーアップした訳です。ハーパー個人のスタッツは往年の高アヴェレージを記録することはもうありませんでしたが、最早その必要はありませんでした。NBA史上最高のSG、マイケル・ジョーダンとの上背あるバックコートを形成し、更にピペン&ロドマンのこれまた強力フォワードコンビを擁する事となったブルズは一気に72勝を挙げる史上最強のチームと化し、そこから怒涛の3連覇を飾る事となるのです。ハーパーはジョーダン、ピペンといったメインキャストを支える名サブプレーヤーとしての役割を十二分に果たし、チームに貢献し続けたのであります。

ラストダンスを踊り終えて再びジョーダン、更にピペン、ロドマン、フィル・ジャクソンとメインキャストがごっそり抜けたブルズでもう1シーズンだけプレーしたハーパーはブルズ帝国の崩壊を目の当たりにした後、ブルズから放出された後に'99年10月13日、FAで最後の移籍を果たします。彼が向かった先は再びハリウッド。フィル・ジャクソンがHC職に復帰したロサンゼルス・レイカーズだったのです。

ここでもハーパーは先発PGとして、ブルズ時代と同じ役割を果たしました。まだトライアングルが導入されて日も浅いレイカーズにおいて彼の存在がどれ程大きかったかは想像に難くありませんね。かくてレイカーズは見事優勝を遂げました。あと1シーズンだけハーパーは同じ役割を果たしましたが流石に寄る年波には勝てず、47試合の出場に留まります。2連覇を飾る事となるプレーオフでも6試合の出場に留まったハーパーは5度目のファイナルの舞台に立ったのを最後に遂にユニフォームを脱いだのです。

ハーパーは翌'02プレーオフでの限定復帰をフィル・ジャクソンに打診されたという説もありますが、これは実現しませんでした。もしも復帰していればハーパーは6つ目のリングを手に入れるチャンスだったのですが、まあ結果論ではあります。それでもなお、ハーパーはロドマン、そしてロバート・オーリーと並んで複数チームでそれぞれ複数のリングを手に入れたNBA史上3人しかいない選手なのです

http://www.nba.com/pistons/news/harper_050926.html

引退後はハーパーはあまり目立った事はやってませんね。'05年にはピストンズでACに就任して2年在籍しましたがそれっきりです。ブルズとレイカーズでフィル・ジャクソン指揮下でプレーしていた為か、インタヴューとかで色々よく尋ねられてる印象はあるんですけどねー。

http://www.ronharper4.com/

因みに本人の公式HPを見ても特に更新されてないなーって感じですね。私自身はやってませんがfacebookも調べてみるとファン作成のページだけが散見されます。とりあえずハーパーに会って嬉しそうなファンの写真がご愛嬌なので見てあげて下さいw

NCAA進学の際にひと苦労し、NBAではジョーダンの壁に屈した後に新米の我儘に振り回されて左遷されながらも頑張り、また移籍した先で一旦ズッコケかけながらそこから立て直して5回の優勝、しかも最後はロサンゼルス。なかなかに浮き沈みが激しく、最後はハッピーエンディングだったハーパーのキャリアそのものが、正に「ハリウッド」というニックネームに相応しかったのかも知れません。



※本文引用以外の参考文献
ウィキペディア
Wikipedia
スポーツイラストレイテッド誌'86年3月3日号記事再掲載分より「Miamian Without A Vice」
スポーツリファレンス.comよりカレッジ時代スタッツ
バスケットボールリファレンス.comよりキャリアスタッツ




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