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http://espn.go.com/boston/nba/story/_/id/7210886/hall-famer-easy-ed-macauley-dies-83

さて、最近更新ネタが多かったためすっかり遅くなってしまいましたが、へヴィー級チャンピオンだったジョー・フレイジャー元横綱隆の里の訃報と時を同じくして、NBAのレジェンドが静かにこの世を去っていたのです。フレイジャーが67才、隆の里が59才の早世だったのに対し、実に83才まで生き続けたその選手の名前はエド・マコーリー。D誌10月号のNBA歴代ベストプレイヤーでも83位に選出されていたリーグ揺籃期のスターセンターです。

チャールズ・エドワード・マコーリーはミッキーマウスが生まれ昭和天皇が即位した1928年の3月22日、ミシシッピ州のセントルイスに生まれました。田園調布に家が建つ、と。



平成の若者を置き去りにするボケはさておき、マコーリーは地元セントルイスユニバーシティ高校(大学付属高校でしょうかね)を卒業するとそのまま1945年(太平洋戦争の終わった年ですね)セントルイス大学へ進学、アーリーエントリーなど存在しない大学生活を過ごします。そしてその4年の間、ずっと2桁得点のアヴェレージを保ったのです。

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大瀧詠一やヨネスケ、ジャパネットたかた社長といった有名人が誕生した事で知られる1948年にはNITトーナメントにでチームを優勝へ導いております。また1949年にはAP選出のプレイヤー・オブ・ザ・イヤーにも選出されたのです。

http://www.nbadraft.net/nba_draft_history/1959.html#1949


そんなマコーリーはBAAとNBLが合併して誕生したばかりのNBAになって初めての新人選手となりました。但し、この1949年のドラフトは些か特殊でした。今と異なり、この時代のドラフトにはテリトリアルピックというものが存在したのです。簡単に言えば、これは地元出身のスター選手を地元球団に入団させる為に考案されたもので、1巡目指名権を放棄する代償として地元出身選手を指名する事が出来たんですね。この制度を利用してマコーリーを指名したのがBAAから合流したセントルイス・ボンバーズという球団だったのです。

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マコーリーは新人年から16.1得点をマークする上々のデビューを飾ります。203cmという今日では考えられない背の低さで、しかしながら優れた脚力を武器として、写真のようにジョージ・マイカンのような伝説的なセンターとも戦ったのです。ところがボンバーズは26勝42敗でこのシーズンを終えると、他5チームと共に解散となってしまったのです。これらの解散チームに所属していた選手達はディスパーサル(分散、とでも訳するべきでしょうか)ドラフトにてボストン・セルティクスのピックを受けたのです。

セルティクスに加入したマコーリーの成績は向上します。20.4得点9.1リバウンド3.7アシストというオールラウンドセンター振りも去る事ながら、4割切っていたFG成功率を一気に.466まで引き上げたのは見事でした。そしてこのシーズン、NBA初のオールスターゲームが開催されます。この記念すべきゲームにマコーリーも出場、なんと20得点6リバウンドの活躍でMVPに選出されます。そう、彼こそが初代NBAオールスターMVPなんですよ。今回の逝去に伴い、ファイナルMVPが「ビル ・ラッセル・NBAファイナルMVP」と改名されたように、次のオールスターからオールスターMVPが「エド・マコーリー・NBAオールスターMVP」と改名される可能性は極めて高いのでは無いかと思う次第です。なお、マコーリーはこれから'57年まで7年連続オールスター出場を果たす事となります。



なお余談ですが、24秒クロックが導入されたのが'54-'55シーズンからでして、このシーズンのセルティクスはNBA史上初めて1試合平均100点以上を記録したチームとなっています。マコーリーは名PGクージーの助けもあって、マイカン相手にキャリアハイの46点を挙げる活躍も見せました。

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ただ、セルティクスはこの頃、マコーリーが20点9リバウンド未満ぐらいのスタッツを重ね続けていたものの、優勝にはずっと手が届きませんでした。マコーリー加入時点でHCは名将レッド・アワーバックでしたし、「ハードウッドの魔術師」ことボブ・クージーも既に在籍していました。'51-'52シーズンからはビル・シャーマン、'53-'54シーズンからはクリフ・ヘイガンといったビッグネームも加わったものの、チームはディヴィジョンファイナル進出がやっとという状況だったのです。

そんな状況が遂に劇的に打開される時がやって来たのはエルヴィス・プレスリーが「ハートブレイク・ホテル」をヒットさせ、やっと国際連合に加盟した日本で週刊新潮が創刊された1956年の事でした。セルティクスは劇的なトレードによる強化に成功したのであります。しかしながら、このトレードはマコーリーにとって誠に複雑なものでした。なぜなら彼自身がこのトレードの当事者だったからです。1956年4月30日、この日行われたトレードはかくの如しでした。

セルティクス←2位指名権(ビル・ラッセル)
セントルイス(現アトランタ)・ホークス←マコーリー、クリフ・ヘイガン


セルティクスは未来の殿堂入り選手2人、しかもうち1人はホークスの地元セントルイス出身のセンターたるマコーリーを差し出してまでラッセルを獲得したのです。実際、ラッセルがどこまでやれるか未知数だったこの時点ではホークスの取引は悪く無いように思われました。マコーリー自身も息子の体調が良くなかった事などもあって、地元に帰れるこのトレードを歓迎した事は事実です。

しかし、間もなくマコーリーは自らの立ち位置が、「NBA史上最も偉大なセンターとトレードされた選手」となってしまった事を悟るのです。ラッセルが加入したセルティクスは44勝28敗でプレーオフに入るとシラキュース・ナショナルズ(現フィラデルフィア・76ers)を3戦全勝で降し、ファイナルも4勝3敗の激戦の末に勝ち、遂にNBAチャンピオンに輝きます。その対戦相手は、皮肉にもマコーリーのいるホークスだったのです。もっとも、シーズンを34勝38敗で負け越していたホークスとしては上々の結果ではありましたが。



ホークスは翌'57-'58シーズンには41勝31敗と成績を伸ばします。ホークスにもこれまたレジェンドとなるスター選手、ボブ・ペティットがいたのです。彼らはプレーオフに入ると、まず初戦のウエスタンディヴィジョンファイナルでフォートウェイン(現デトロイト)・ピストンズを倒し、ファイナルでセルティクスと再戦を果たします。しかし、今度はホークスが借りを返す番でした。第6戦でペティットが50点を上げ、4勝2敗でホークスはセルティクスに競り勝ち、ホークスにとってもマコーリーにとっても初のチャンピオンになったのです。



ホークスは更に'58-'59シーズンにも49勝23敗と更に成績を伸ばすものの、プレーオフでは初戦のディヴィジョンファイナルでミネアポリス(現ロサンゼルス)・レイカーズに敗退。実はこのシーズン、ホークスのオーナーだったベン・ケーマーは昨季優勝を勝ち取った後の殿堂入りHC、アレックス・ハンナム/a>を解雇してこれまた後に殿堂入りHCとなるアンディ・フィリップを雇うも10試合で解雇、マコーリーにHC職に就く事を求めたのです。このためマコーリーは現役最後のこのシーズンを若干30才にして、僅か14試合の出場で引退し、HCに転職する事となりました。上記の49勝という成績は、そんなドタバタの中での成果だったのですね。

それどころか翌'59-'60シーズンにはマコーリー指揮下のホークスは46勝29敗と更に成績を伸ばします。そして今度はディヴィジョンファイナルでレイカーズを倒し、決勝で三度セルティクスとあいまみえたのです。またも激戦を繰り広げた両者でしたが、最後はセルティクスが勝ちました。当時2連覇を果たしたセルティクスはこの後も勝ちまくり、NBA史上最長の8連覇、更に準優勝1回に後にあと2回優勝を重ねル事となります。ラッセルは都合11個もの優勝リングを手にしたのです。



一方のマコーリーはこれだけの結果を残しながら、前任のHC2人同様このファイナル進出をもってホークスを去りました。しかも酷い話で、ディヴィジョンファイナルでレイカーズ相手に第5戦で敗れた時点で新HCたるポール・シーモアを雇っていたというのですね。その後2連勝してホークスはファイナルへ勝ち進み、その段になって初めてベン・ケーマーオーナーはその事をマコーリーに告げたのだそうで、そりゃマコーリーもやっとれんわってなもんです。かくてマコーリーはバスケットボールから完全に足を洗ったのであります。

マコーリーは1960年にはバスケットボールの殿堂入りを果たしております。彼の32才での殿堂入りは未だ最年少記録となっております。セルティクスでは彼の背番号22は永久欠番となっておりますし、長年過ごしてきたセントルイス市のウォーク・オブ・フェイム(殿堂の歩道、とでも訳するべきでしょうかね)にはマイルス・デイヴィスやチャック・デイリー、アイク&ティナ・ターナー、ネリーといった面々と一緒に名を連ねているのです。

マコーリーがこの世を去った自宅もまた、セントルイスにありました。マコーリーは結局、セルティクス時代も含めてずっとセントルイスに居を構え、生涯を過ごしたのです。なるほど、セントルイスでリスペクトを受けるのは当然と言えましょう。

その名前はラッセルとトレードされた選手として残り続ける事は確実ですが、マコーリー自身もまた偉大な選手の1人でありました。マイカンやラッセルといった偉大なセンターの影に隠れがちですが、若干203cmという背丈で彼らビッグセンターとも戦った大きな小型センターの事を、どうか覚えておいて下さる事を願います。合掌。



※本文引用以外の参考文献
ウィキペディア
Wikipedia
ST. LOUIS WALK OF FAME
セントルイストゥデイ.comより訃報記事
RIVERFRONT TIMES.comより追悼記事
SLAM誌HPより90号掲載インタヴュー再掲分
sports-reference.comより大学時代スタッツ
バスケットボールリファレンス.comよりキャリアスタッツ
バスケットボールリファレンス.comよりHCとしての成績
NBA.co.jpより訃報記事



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