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菅野選手、結局日ハム入りを拒否しましたね。ダルビッシュ先輩がいなくなるのは残念でしたが、逆に考えれば彼のいなくなった分、日ハムに入団していれば菅野選手にも登板のチャンスはあったはずです。1年浪人しても巨人が1位指名してくれるとは限らない中、菅野選手の今後がどうなるやらですな。

さて、日本プロ野球では江川卓氏を筆頭にドラフト指名を拒否して浪人したり大学や社会人へ逃げて再度ドラフトにエントリーしたりする例は巨人絡みを中心に割と多いですが、アメリカではあまり例が多くありません。MLBはまた事情が違うようですが、ではNBAではどうでしょうか。

以前当シリーズで指摘した通り、NBA創成期などに入団拒否選手が相当数いたのは確かです。が、彼らの殆どは他に入りたい球団があるから拒否したのではなく、そもそも今と違って高収入が約束されていないプロバスケの道でやっていく気が無かっただけの事でした。日本のプロ野球みたいな入団拒否のケースは、私が知る限りでは記憶にあまり多くありません。まあ後でトレードやらFAやらで移籍出来るからってのもあるんでしょうね。私がNBAで把握している入団拒否ケースは2つありますが、それも特定の球団に入りたいという日本プロ野球的な理由ではなく、指名された球団に入るのが嫌だという理由でした。

その一例がこれまた既に取り上げた、スティーヴ・フランシスのケースだったんですね。そして今一人が彼に先立つドラフト拒否男、今回取り上げるダニー・フェリーです。カレッジプレーヤーの頂点に立ちながらNBAでは今いちだったなんて選手は枚挙に暇が無いですが、フェリーは珍しいパターンで失敗したケースと言えるでしょうね。

ダニエル・ジョン・ウィラード・フェリーは1966年10月17日、メリーランド州ハイアッツヴィルの出身です。彼の父ボブはセントルイス大、そしてNBAセントルイス(現アトランタ)・ホークスなどで現役で活躍したのみならず、引退後もバルティモア・ブレッツ(現ワシントン・ウィザーズ)でAC、更にはGMとして手腕を発揮、なんと2度に渡ってNBAエグゼクティヴ・オブ・ザ・イヤーを受賞しています。そんな父の存在がダニーのバスケットボールへの関わりに影響が無い訳がありませんね。

ダニーは高校でも指導者に恵まれました。彼のデマッサカトリック高校時代のコーチ、モーガン・ウットゥンは2000年にはバスケットボールの殿堂入りを果たしたほどの方だったのです。何せホームページまでお持ちですからね、ウットゥン。かくてフェリーは高校在学中に2回のオールアメリカン選出、パレード誌選出のプレーヤー・オブ・ザ・イヤーの栄冠を得ます。NCAAの名門チームから引っ張りだこの彼はノースカロライナ大、メリーランド大と比較検討の結果、デューク大への進学を決めたのです。

http://news.google.com/newspapers?id=j3gqAAAAIBAJ&sjid=wFIEAAAAIBAJ&pg=4451,243499&dq=danny+ferry&hl=en

当時の新聞にもこのようにフェリーのデューク大入学決定は取り上げられました。そして今度は名将コーチKの指導の元、アーリーエントリー禁止だったデューク大でフェリーは4年の大学生活の間にイーストリージョナルでのMVP受賞2回、オールアメリカン1st・2ndチーム各1回選出、そしてネイスミスおよびオスカー・ロバートソントロフィー、そしてUPIのカレッジ・プレイヤー・オブ・ザ・イヤー選出といった足跡を残したのです。何しろフェリーは未だに、デューク大の1試合での最高記録となる58得点という記録を持っているのですよ。



彼は2012年1月現在、総得点5位、リバウンド5位、アシストで7位というデューク大の歴代記録を持っています。この3部門で全てベスト10入りしている選手はフェリーだけであり、デューク大の選手達もアーリーエントリーが許されるようになった事を考えてもこのフェリーの記録が大きく変動する事はあまり無いと思われます。またアトランティックコーストカンファレンス(ACC)で2000得点1000リバウンド500アシストを達成したのも彼が初めてです。・・・ってこのあたりWikipediaの記述まんまなんですが、これだけ書き並べてても何か凄いですよね。そりゃあ彼の背番号35が永久欠番になるのも当然です。

彼が在学した4年間、デューク大はNCAAトーナメントでは実に'86・'88・'89年の3度に渡ってファイナルフォー進出を果たします。しかも'86年はコーチK体制下で初のファイナル進出、'87年だってスウィート16です。フェリー在籍時のブルーデヴィルズはデューク大学が黄金時代を築き上げる先駆けとなったと言えるでしょう。

かように、学生時代のフェリーのキャリアはなかなかに順風満帆でした。これだけの足跡を残した6-10の白人長身フォワードがラリー・バード2世としてNBAでの活躍を期待されるのは至ってナチュラルな流れです。ただ、問題はそのNBA入りの際の話、即ちドラフトでした。

http://nbadraft.net/nba_draft_history/1989.html

Danny Ferry (1989 NBA Draft 2nd Pick - L.A. Clippers)

フェリーは1巡目2位という、事前の予想通りの高順位での指名を受けたのです。問題は彼を指名した球団でした。ロサンゼルス・クリッパーズ。'70-'71シーズンにバッファロー・ブレーブスとしてNBA加入を果たしたこの球団は'78-'79シーズンからサンディエゴ・クリッパーズ、そして'84-'85シーズンからロサンゼルス・クリッパーズとなって今に至るのですが、ブレーブス時代にカンファレンスセミファイナルまで2度進出したのと、その間に1度1stラウンドで敗退した以外の全てのシーズンでプレーオフ出場を逃していました。特にクリッパーズと改名してからの成績は本当に酷く、'81-'82シーズンには17勝。その後は25勝、30勝、31勝、32勝、12勝、17勝、21勝という暗澹たる成績を重ねていたのです。今日のポール&グリフィン体制からは考えられないでしょうが、文字通りのドアマットチームだったんですね。我々'90sからのNBAファンにとっても正直、クリッパーズと言えば長年のドアマットチームと言うイメージがありましたが、この頃はそれ以上だったと言えます。

Danny Ferry (1989 NBA Draft 2nd Pick - L.A. Clippers)

フェリーが指名を受けたのは、そういう球団だったのです。ね、物凄く浮かない顔してるのが分かるでしょ?いかに大都会ロサンゼルスとは言えど、ここまでどん底の球団に入る事をフェリーは嫌がったのですね。そして当時としては、いや近年でも極めて稀な実力行使にフェリーは打って出たのです。即ち、NBAでプレーせず、なんとイタリアへと渡ったのであります。そしてこの時、フェリーのエージェントを務めていたのは他ならぬデヴィッド・フォーク。マイケル・ジョーダンのエージェントとして名を馳せた彼はこんなところでも出番があったんですね。

http://sportsradiointerviews.com/2011/07/13/david-falk-nba-lockout-updates-cba-negotiations-david-stern-michael-jordan/

イタリアリーグのイル・メッサージェロ(現ロットマティカ・ウィルトゥース・ローマ)に入団した彼は彼の地で23得点6リバウンドのアヴェレージを記録、チームをプレーオフへと導きます。なお、フォークの談によるとこの時フェリーは400万ドルのサラリーを得ていたようです。これはこのチームのオーナーがイタリアで三本指に入る大富豪だったからこそ出来た、当時としては破格の待遇でありました。フェリーとオーナーが望むなら、彼らは引き続きイタリアでプレーを続ける事も可能だったでしょう。そしてこの強攻策に、クリッパーズのGMに就任した往年の名選手、エルジン・ベイラーも遂に折れ、フェリーを移籍させるトレードを実現します。要するに江川方式です。そのトレードの内容については既に取り上げましたね。

クリッパーズ←ハーパー、'90年1巡目指名権(後にロイ・ヴォートを指名)、'91年2巡目指名権、'92年1巡目指名権(後にエルモア・スペンサーを指名)
キャヴス←ダニー・フェリー、レジー・ウィリアムズ


そう、少し前に取り上げたロン・ハーパーのクリッパーズ行きを決めたのがこのトレードであります。ここにフェリーの「クリッパーズだけは嫌だ嫌だ嫌だ」作戦は見事成功し、フェリーはイタリアでのプレーを1シーズンで切り上げ、晴れて'90-'91シーズンからキャヴスでNBAキャリアを始める事となったのです。

当時キャヴスはマーク・プライスやドアティといったタレントを擁してイースト期待のライジングチームとなっていました。アマチュアバスケットの世界で数々のキャリアを築き上げたフェリーには、更にキャヴスを1つ上のレヴェルへ牽引する事が期待されたのです。そんな期待を込めてか、フェリーはなんとキャヴスと10年契約を結びます。総額は3700万ドルとも4000万ドルとも言われたこの契約、ルーキースケールの規定がまだ存在しなかったからこその賜物でした。

が、現実は残酷でした。遂にフェリーが1年を待ってデビューしたNBAの水はあまりに苦かったのです。そもそもフェリーが加わった時のキャヴスはインサイドにはジョン・“ホットロッド”・ウィリアムズがセンター、ブラッド・ドアティがPFで先発し、それをラリー・ナンスがバックアップするという形でした。インサイドの充実したこのチームにおいて、フェリーの出番は決して多くは無かったのです。しかし、彼らを押しのけて先発の座に座れるだけのインパクトがフェリーに無かったのもまた事実です。クリッパーズ行きを拒んでいなければ出場機会にも恵まれ、そこそこ出番を得てもっと経験を積めた可能性もあったと思うのですが・・・。




結局81試合に出たものの先発は1度だけだったフェリーのスタッツは出場時間20.5分、FG成功率.428で8.6得点3.5リバウンド1.8アシストという平凡極まりないものでしかありませんでした。そしてフェリーはキャヴスで過ごした10シーズンの殆どを、ベンチスタートで迎えたのです。後に3ポイント成功率は上がってNBAでも通用する武器になったものの、それだけでした。そしてその10シーズンの間、キャヴスがフェリーをトレードしようとする試みは全て徒労に終わったのです。



フェリーが先発に定着したシーズンが1シーズンだけありました。6年目の'95-'96シーズン、29才にして82試合中79試合に先発したフェリーはFG成功率.459、3ポイント成功率.394で13.3得点3.9リバウンド2.3アシストをマーク。先発PFとしてはちょっと控え目ながらもマイク・フラテロのスローテンポオフェンスチームとなっていたキャヴスにおいてチーム4位の得点源となったのです。しかし、翌'96-'97シーズンにはFG成功率は.429、平均得点は10.6得点へとダウン、先発試合も48試合に減ります。結局フェリーの出場時間が平均30分を越えたのはこの2シーズンだけだったのです。

2000年8月10日、10年契約を終えたフェリーはFA移籍でスパーズと契約。ここでも多少先発の機会を得た時期もありましたが、基本的にはベンチから登場するシューター役としてのキャリアを送りました。ただ、スパーズに入れた事は彼にとって幸運でした。ダンカンとデヴィッド・ロビンソンのツインタワー体制だったスパーズはフェリーが在籍した3シーズンのうち最初の2シーズンは3PEATを驀進するレイカーズの前に敗れ去ったものの、3年目の'02-'03シーズンには遂にそのレイカーズをも下し、待望のファイナルへ。そしてファイナルでもネッツを下し、デヴィッド・ロビンソンの引退の花道を見事飾ることに成功。フェリーもまたその恩恵に与り、優勝リングを勝ち取ったのであります。既に齢36才、出場平均時間も9.4分と1ケタ台にまで落ち込んでいた彼は平均得点も僅か1.9得点と、最早ロールプレーヤーとしても戦力外に近いところにいましたが、ともあれNBA選手が誰しも求めるものを得たのです。

この後、フェリーは'03年7月24日に三角トレードで移籍となります。

ペイサーズ←フェリー、スコット・ポラード
スパーズ←ロン・マーサー、ヒド・タコルー
キングス←ブラッド・ミラー


そしてトレードされた先のペイサーズにて、フェリーは9月30日をもって解雇。この後、彼が再びプレーヤーとしてコートに立つ事はもう無かったのです。キャリア平均7.0得点2.8リバウンド1.3アシストというスタッツは正直、ラリー・バードと比較されたカレッジの寵児としてはあまりに寂しい結果でした。彼がNBAに残した足跡はキャヴス歴代2位に当たる723試合出場ぐらいのものです。

なお、フェリー自身はこの後スパーズに戻ってフロントに加わりました。ここでバスケットボールオペレーション部門のディレクターとしてマネージメントの業務に携わって経験を積んだ後、フェリーは'05年6月27日にこれまた古巣のキャヴスと5年1000万ドル近い契約で、キャヴス史上8人目のGMに就任したのです。既にレブロンをエースと抱く体制が出来上がっていたキャヴスはこれまたスパーズ出身のマイク・ブラウンが6月2日にHCになっていました。キャヴスはスパーズの血をフロントと現場に同時に取り入れた事になります。

ここからのフェリーの仕事は皆さんの記憶に新しいと思います。フェリーはレブロンとの再契約のためにウィザーズからFAでラリー・ヒューズを引き抜きます。この補強そのものは結果的にはキャヴスに大きなプラスにはなりませんでしたが、ともあれレブロンはキャヴスとの契約を延長したのです。その後もフェリーはレブロン体制で優勝を目指すべく、そしてレブロンをずっとこのフランチャイズンに残留させ続けるべく補強を続けたのです。

結果としてキャヴスは'06-'07シーズンにはファイナル進出を果たしました。ファイナルで彼らをスウィープで薙ぎ倒した相手がフェリーとマイク・ブラウンの古巣スパーズだったのは出来過ぎでしたが。フェリーはその後もベン・ウォーレス、モー・ウィリアムズ、アンソニー・パーカー、ジャマリオ・ムーン、レオン・ポウ、シャキール・オニールといった選手を獲得。またドラフトでもダニエル・ギブソンやJ.J.ヒクソンを指名するなどの成果を残します。

http://www.nba.com/cavaliers/news/ferry_grant_100604.html


そしてレブロンが「The Decision」と共にキャヴスを去る決断を公表する2010年7月8日に遡る1ヶ月と4日前、6月4日にフェリーは契約期間1ヶ月を残してキャヴスのフロントを去りました。特に最後の2シーズンは2連続となるリーグ最高勝率をマークした事実を考えても、フェリーの補強は決して悪いものでは無かったとは思います。実際彼はキャヴスを去った後、再びスパーズに戻ってバスケットボールオペレーション部門のヴァイスプレジデントに就任したのですから。なお、プライヴェートではフェリーは妻と5人の子供に恵まれております。

NBA選手としてのフェリーのキャリアは非常に期待を下回るものでした。それがドラフト指名を拒否した結果なのか、そもそもフェリー自身がNBAでもエースとしてやっていけるだけの能力が無かったのかは今となっては分かりません。しかし、少なくともあのドラフト拒否がフェリーに全く悔いの無いものだったとは思えません。そのまま素直にクリッパーズに行っていたら彼のキャリアはどう違っていたのかと思わずにはいられませんし、そんな選択をかつて行った彼が結局レブロンには去られてしまう事となった運命の皮肉を感じずにいられないこの頃です。

※本文引用以外の参考文献
Wikipedia
SI.comより「NBA Draft Busts」
bleacherreport.comより「The Top 25 College Stars Who Were Busts in the NBA」
pocketfives.comより「WORST 10 PLAYERS TO EVER BE LABELED "THE NEXT LARRY BIRD"(FUNNY)」
BASKETBAWFULより「Worst NBA Champions: Danny Ferry」
バスケットボールリファレンス.comよりキャリアスタッツ



ADIDAS CLEVELAND CAVALIERS SNAPBACK CAP / アディダス クリーブランド キャバリアーズ スナップバック キャップ【ライトブルー×オレンジ】
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