さて、新しいシーズンの始まる直前に訃報が届きました。殿堂入りを果たしたレジェンドとあっては、当ブログとしては取り上げない訳に行きません。しかも彼は選手とHC、両方で殿堂入りを果たした偉人なのです。しかも選手としてセルティクス、HCとしてレイカーズで大きな足跡を残すという珍しいキャリアを送りました。

その偉大なる先達、ウィリアム・ウォルトン・シャーマン、通称ビル・シャーマンは日本が昭和元年を迎えることになる1926年にテキサス州のアビレーンで生を受けました。ですが、彼が卒業した高校はカリフォルニア州のポーターヴィルだったりしました。既に高校でもその名を知られたアスリートだったシャーマンでしたが、時は正に第二次世界大戦。シャーマンは1944年から1946年までアメリカ海軍に従軍したのです。・・・一歩間違えれば彼はここで命を落とし、その後のキャリアは幻と化してしまうところでした。

サザンカリフォルニア大へ進学したシャーマンはバスケットボールと野球の両方で活躍します。野球において彼は大学での実績を踏まえてブルックリン・ドジャーズのマイナーでプレー、1951年にはドジャーズにコールアップされましたが実際にプレーする事はありませんでした。そしてドジャーズがこの年の9月27日に審判への抗議の結果としてベンチ全員が退場処分を課せられたため、シャーマンはMLB史上唯一の、1試合も出場せずに退場処分を受けた選手という謎の勲章を得たのです。結局1955年以降、彼はバスケットボールに専念する事となります。

バスケットボールでは大学時代、シャーマンはオールアメリカン、パシフィックコーストカンファレンスのMVPに1949・1950年と2年続けて選出されています。そりゃあそうで、彼はこの2シーズンにおいて15.9得点、18.6得点をマークしたのです。そして彼は1950年、NBAドラフト2巡目17位(今とチーム数が違いますからね・・・)で、ワシントン・キャピタルズの指名を受けます。キャピタルズ?ええ、そうです。このチームは元々BAAで1946年からスタートしたチームなんですが、1949-1950シーズンからBAAとNBL合併に伴いNBAに加わりました。シャーマンは早速チームトップの12.2得点を挙げる活躍を見せましたがチームは10勝25敗というチーム成績で、しかもチームはこのシーズンを最後に解散してしまいました。ええ、ですのでこのチームはワシントン・ウィザーズとは何の関係も無いのですよ。

ともあれ、チームが無くなってしまっては仕方ありません。キャピタルズの選手達は他チームへと再度ドラフトされる事となります。そこで彼を指名したのがセルティクス・・・ではありません。1951年1月9日、このドラフトで彼を指名したのはフォートウェイン・ピストンズ(デトロイト・ピストンズ)でした。そして4月26日、ピストンズはチャック・シェアのドラフト指名権とのトレードでシャーマンをセルティクスへと送ったのであります。

これはセルティクスのレッド・アワーバックがピストンズ側に働きかけた結果でした。シェアは6-11のセンターで、後にシーズンダブルダブルをマークする事となります。今日よりも遥かにセンターが重要なこの時代にあっては、ピストンズの判断もあながち間違っているとは言えないでしょう。まあ結果はセルティクスの大勝ちトレードとなった訳ですが・・・。

ともあれ、兵役、そしてこのチーム解散とトレードという紆余曲折を経て、遂にシャーマンは約束の地、セルティクスへとやってきました。僅か6-1、185cmの小兵はNBAでボブ・クージーとバックコートコンビを形成する事となります。そんなシャーマンは1952-1953シーズンにはNBA史上初めて、FG成功率.400を超えたガードの1人となったのです。そう、彼は模範的なシュータータイプの選手でした。

そして、そこへエド・マコーリーとのトレードであの伝説の巨人、ビル・ラッセルが1956年に加わり、ここにセルティクス王朝が遂に誕生します。ここからセルティクスはチーム史上初優勝→準優勝→怒涛の8連覇を達成する事となりました。シャーマンはその連覇の最中、'60-'61シーズンまで現役を続行したので、都合4つのリングを得た事になりますね。

シャーマンは個人としてもFT成功率で7回リーグトップ(しかも5シーズン連続という記録つき)となり、そのうち1958-1959シーズンに記録した93.2%は1976-1977シーズンまで更新されませんでした。また、プレーオフでのFT連続成功記録56は今日でもNBAレコードです。オールスター選出8回、オールスターMVP受賞1回、オールNBAファーストチームには1956〜1959年の連続で選出。2ndチームにも1953・1955・1960年に選出されています。そんなシャーマンもこれまた後に殿堂入りするサム・ジョーンズへと出場時間が移っていき、FT成功率1位を保持したまま1961年に早くも引退。そして彼のセカンドキャリアはコーチングへと移行して行ったのです。

まずアメリカン・バスケットボール・リーグ(ABL)のロサンゼルス・ジェッツで選手兼HCとなります。19試合で平均5.6得点というスタッツを挙げていたシャーマンでしたがチームはシーズン中に解散し、シャーマンのプロ現役生活は新人時代同様に半ばで終わったのです。が、シャーマンはABLに残り、今度はクリーヴランド・パイパーズへ。HCとしてシャーマンはチームを率い、なんと優勝してしまったのです。彼はこの2シーズンで43勝26敗という戦績を残したのです。が、今度はこのABLというリーグ自体が解散してしまいます。つくづく解散に縁の深い人ですな。

シャーマンはカリフォルニア州立大学のHCとなって2シーズンで27勝20敗をマークした後、一度は解説者へと転職します。そして2年後、遂に彼はNBAへ帰り、サンフランシスコ・ウォリアーズ(現ゴールデンステート・ウォリアーズ)のHCとして2シーズンで87勝76敗を記録したのです。が、その後またしても彼はNBAを離れて、今度はABAのロサンゼルス・スターズを率います。1969-1970シーズン、彼は43勝41敗でコーチ・オブ・ザ・イヤーに選出されます(2人同時選出)。翌シーズンには早くもチームがユタへ引っ越しましたが、シャーマンはスターズを優勝へと導きます。

そしてやっと、シャーマンは今度こそNBAに戻って来ました。ロサンゼルス・レイカーズがシャーマンを1971年にHCとして迎え入れたのです。当時のレイカーズはミネアポリスからロサンゼルスへ移転してファイナルへ進出すること実に7度、悉く敗れていました。そしてこの時点でチームにいたのがウィルト・チェンバレン、ジェリー・ウエスト、ゲイル・グッドリッチといった面々だったのです。



レイカーズは彼の指揮の元、一気に飛躍します。シーズン冒頭エルジン・ベイラー引退から一気にチームは纏まり、NBAどころかアメリカのプロスポーツ史上最多記録となる33連勝をマークしたチームはシーズン通算でも69勝を挙げます。この記録が更新されるまでにはマイケル・ジョーダン王朝期のシカゴ・ブルズ第二期を待たねばなりませんでした。記録上、史上最強のレイカーズだったと言って良いでしょう。そしてこのチームはシーズンの勢いのままにプレーオフを4-0、4-2で勝ち上がるとファイナルへ。1970年ファイナルでは勝てなかったニックスを4勝1敗で退け、遂にロサンゼルス・レイカーズとして初の優勝を掴んだのです。ジェリー・ウエストにとっては現役時代唯一の、またチェンバレンにとってはレイカーズ時代唯一のファイナル制覇でありました。また、シャーマン自身にとってもABL、ABA、NBAと3つのリーグをHCとして優勝へ導いたという事になります。なお、NBAと旧ABAの両方で優勝を勝ち取ったHCは彼以外にはアレックス・ハンナム(彼もチェンバレンを擁したシクサーズでNBAを制しました)のみです。

そんなシャーマンが発明したのが「朝のシュートアラウンド」。試合当日の神経質になりがちな気持ちを抑える手段としてシャーマンはこれをABL、ABA、NBAのいずれでも導入しました。レイカーズがNBAを制した1972年ファイナル以降は全チームがシュートアラウンドを採用したのであります。

このシーズンにコーチ・オブ・ザ・イヤーにも選出されたシャーマンはこの後は優勝は無く、1976年にHCを辞してフロントに入ります。この年、彼は選手としてバスケットボールの殿堂入りを果たしました。そしてGMとして1980・1982年、社長として1985・1987・1988年にレイカーズが優勝するお膳立てをしてみせたのです。カリーム・アブドゥル=ジャバーとマジック・ジョンソンを軸にチームを作り上げた成果ですね。

1988年に第一線を離れたシャーマンはレイカーズのスペシャルコンサルタントとして引き続きチームに籍を置きます。2004年にはHCとしてもバスケットボールの殿堂入りを果たし、史上3人目となる選手・HC両部門での殿堂入りとなりました。1971年にはNBA25周年にあたり選定された25人の偉大な選手に、更に1996年にはNBA50周年で再度、今度は50人の偉大な選手に選出されてもいます。選手、HC、フロントのいずれのカテゴリーでも成功を収めたシャーマンはコートの外でも偉大なオールラウンダーだったのです。

さて、このエントリーを締め括るにあたって、貴重なTweetを拝見させて頂いたので、遅まきながらご紹介させて頂こうと思います。








なんと、プロバスケットボールプレイヤーの武井修志選手に、ビル・シャーマンからアドヴァイスを受けたという貴重な体験談があったんです!シャーマンが日本に来てくれていた事すら恥ずかしながら存じ上げませんでしたが、こんな素敵な人柄の方だったんですね。武井さん、素晴らしいエピソードを教えて頂きありがとうございます!ちょっとホロリと来ました。



こちらの動画はYouTubeでたまたま見つけたものなんですが、なるほど華々しいキャリアを築き上げてきた大ヴェテランでありNBA界のレジェンドである彼が、手間を惜しまずサインしまくってますね。お年を考えてもこんなに丁寧にサイン対応するのはご立派な態度です。なかにはコービーのジャージにサインを求める人までいるというのに、ちゃんと応じているんですよ。

武井選手のエピソード、そしてこのサインの様子を見て、私はシャーマンが偉大な選手、HC、フロントである以前に尊敬に値する人物だったんだなと思い至りました。正直、上に列挙した色々の業績以上に私にはこれらの事が心に残ったぐらいです。こういう魅力的な人柄を知っていれば、シャーマンに対する思い、意識ももっと違ったかもなあと今は思っています。

NBAの歴史にシャーマンが記した偉大な足跡は参考文献を当たればどなたでもお分かり頂けますし、なんならGoogleさんで検索すれば他にもソースはある事でしょう。他にもこんな素敵なエピソードがあるかも知れませんね。とりあえずこのエントリーにお付き合い頂いた皆様には、単なるセピア色のレジェンドではなく、人間的な魅力に溢れた素晴らしい人物としてシャーマンを認識して頂けると幸いです。コート外でまで完璧なまでにオールラウンドだった心優しき先達に、遅まきながら合掌。

※参考文献

ウィキペディア
Wikipedia
Yahoo BALL DON'T LIE/Bill Sharman, five-time NBA champion and Basketball Hall of Famer, dies at age 87
NBA.COMよりバイオ
ESPNよりバイオ
バスケットボール・レファレンス.comよりスタッツ



ビル・シャーマン NBAカード Bill Sharman 08/09 UD Premier Stitchings 25/50
ビル・シャーマン NBAカード Bill Sharman 08/09 UD Premier Stitchings 25/50