さて、こちらのシリーズも今回から個人へとフォーカスしていきます。当シリーズ第2回目は最初からこの方に決めていました。ドラフト2位での失敗指名と言えば皆様の脳裏をかすめるのはまずミリチッチだと思うんですか、今回は彼の出番は無しです。彼を軽く超える残念なドラフト2位指名、ストロマイル・スウィフトでもありません。また第1回目のように過去の歴史を掘り起こすのは今回は止めておこうと思います。今回取り上げるのは今日に至るまでブレーザーズに延々と続くビッグマン故障禍の流れを決定的にしてしまった7-1のビッグセンター、サム・ブウイです。
そもそもブレーザーズのビッグマン負の歴史はチームに初優勝をもたらしたレジェンドセンター、ビル・ウォルトンに始まります。'77年、スター軍団のシクサーズをはね除けてブレーザーズをチーム初優勝に導いた偉大なこの選手は、しかしドラフト以来ブレーザーズに在籍した4シーズンで平均50試合強しか出場出来ずに移籍していきました。そんなウォルトンがいなくなったブレーザーズは新たなビッグマンを求めていたのです。そして'84年、運命のドラフトが開かれました。NBA史上でも屈指のウルトラ大豊作年となったこのドラフトにおいて、ブレーザーズが持っていた指名権はなんと2位。この幸運を、しかしブレーザーズは見事フイにしてしまったのであります。
このドラフトにおける1位ピックはロケッツ指名のセンター、アキーム・オラジュワン。そして2位のブレーザーズもまたセンター指名に行きます。それがブウイでした。問題は3位指名が、ノースカロライナ大出身のあるガード選手だった事です。NCAAファイナルで決勝シュートを沈めた経験を持つそのガードが、NBA史上最高の選手の1人としてリーグに君臨する事を、その時点でブレーザーズには予想出来なかったのです。まあ、指名したブルズだって当時、彼のシグニチャーシューズが世界中で大人気となる事など、予想もしていなかったと思います。かくて、ブウイには永遠に剥がせないレッテルが貼られてしまったのです。「マイケル・ジョーダンより先に指名された男」。この肩書きは、ジョーダンの評価が上がるのと比例してブウイに重くのしかかっていきました。
マイケル・ジョーダンを差し置いて他の選手を指名した・・・この一点だけ見ればブレーザーズは確かに救いようの無い失敗を犯したとしか思えません。しかし、当時のブレーザーズのチーム事情とブウイのドラフト前までのプレーを見た時、必ずしもそうと言い切れない理由が見えて来ます。
1961年3月17日、ペンシルヴァニア州レバノンで生まれたブウイはレバノン高校時代から知られた存在でした。平均28得点18リバウンドを超えるアヴェレージではそれも当然ですね。後に同じくNBA入りを果たすビッグセンター、ラルフ・サンプソンとのビッグマン対決は「バトル・オブ・ザ・ジャイアンツ」と呼ばれたものでした(まあビッグマン対決って大概そう言われてたりしますが)。そのサンプソンとの対決では敗れたもののマクドナルドオールアメリカンにも選出された彼は各大学のリクルート合戦の末、ケンタッキー大へ入学します。
http://www.sports-reference.com/cbb/players/b/bowiesa01.html
http://www.bigbluehistory.net/bb/statistics/Players/Bowie_Sam.html
彼のケンタッキー大でのスタッツは3シーズンに及びました。'79-'80シーズンが12.9得点8.1リバウンド2.1ブロック、'80-'81シーズンが17.4得点9.1リバウンド2.9ブロック、そして'83-'84シーズンが10.5得点9.2リバウンド1.9ブロックです。・・・ええ、私は別に年度をミスタイプしたのではありません。彼のカレッジキャリアには、まるまる2年の空白があるのです。脛骨の相次ぐ故障が彼のNCAAキャリアを中断させたのであり、実はこのあたりに彼の今後の運命を予感させる要素はあったのですね。それでも彼は'80-'81シーズンにはNCAAオールアメリカン3rdチームに、'83-'84シーズンには2ndチームに選出され、彼の背番号31は永久欠番になりました。スポーツイラストレイテッド誌の表紙を飾ったのもケンタッキー大時代のことです。
これは適当に検索して見つけた、ブウイ最後のシーズンでのオーバーン大との対戦です。これまた後にNBAで外れ指名と言われる事になるビッグマンのメルヴィン・ターピン、NBAダンクコンテストで名を挙げるケニー・“スカイ”・ウォーカーを擁するケンタッキー大が、チャールズ・バークリー、チャック・パーソンを擁するオーバーン大に勝つ・・・胸が熱くなるなと。再三アリウープダンクを決めるブウイの姿を見て、それでもなお彼のピックを躊躇うのは確かに難しいです。
更にブレーザーズには今ひとつ、ジョーダンを指名しない理由がありました。彼らは既に遡る事1年前、'83年のドラフトでクライド・ドレクスラーという優れたスウィングマンを指名していました。ヒューストン大ではオラジュワンと組んでスラマ・ジャマの異名を取るダンクチームを結成して一世を風靡したドレクスラーはNBAでも1年目から全試合出場を果たして7.7得点とそこそこの成績を収めていました。そして実際その後彼はこの後ブレーザーズの顔としてチームを牽引していく事となるのです。14位指名としてはこれは大当たりであったと言えるでしょう。
既にドレクスラーを抱えるチームにジョーダンを連れて来てどうする、という考えは至って正統派な考え方ですね。ましてや今以上にビッグマンの存在が絶対視されていた状況では尚更の事です。今でこそ我々はジョーダンの偉大さを良く知っているのでブレーザーズの当時の判断を愚かと笑えますが、かように当時の状況を考え合わせると必ずしも間違った選択肢だったとも言い切れないのですね。
http://www.basketball-reference.com/players/b/bowiesa01.html
ただ、やはり結果だけ申し上げるならブウイを選択した事はブレーザーズにとってミステイクでした。1年目は76試合中62試合に出場し、FG.537で10得点8.6リバウンド2.8アシスト2.7ブロックとまずまずのスタートを切ってオールルーキーチームにも選出されましたが、大学時代同様に故障が彼のキャリアを細らせます。何しろこの度3シーズンの彼の出場試合は38試合、5試合、20試合です。いくらなんでも3シーズンに渡ってこれではブレーザーズも選択ミスを認めるしかありません。ウォルトンに続きセンターの故障禍に苦しんだブレーザーズは結局、彼をドラフト指名権とセットにして、バック・ウィリアムズとの交換でネッツへ送ったのです。
ネッツでブウイは4シーズンを過ごしますが、実はこちらではそこそこの出場を果たします。68試合、62試合、71試合、79試合ですから致命的な故障は無かった訳ですね。そして成績の方も移籍1年目から14.7得点10.1リバウンド1.8ブロックと結構良さげな感じに。その後も12.9得点7.7リバウンド2.4アシスト1.5ブロック、15.0得点8.1リバウンド2.6アシスト1.7ブロックと推移します。もっとも、その間FG成功率はセンターとしては相当低い.416→.434→.445ではありましたが。そして'92-'93シーズン、そのFG成功率こそ.450になったもののブウイのスタッツは9.1得点7.0リバウンド1.6アシスト1.6ブロックと些かダウンしました。ま、既にこの時彼は31才でしたからね。
その後彼はレイカーズで2シーズンを過ごしましたが1年目は再びの故障で25試合の出場に留まり、2年目は67試合に出場も4.6得点4.3リバウンドと最早戦力として多くを望める選手では無くなっていました。かくて'95プレーオフ終了後、ブウイはかつて自分より先にドラフト指名されたオラジュワン、ブレーザーズが自分を指名した理由だったドレクスラーがロケッツで大学以来のコンビを組んで優勝するのを尻目に、そっとユニフォームを脱いだのです。
ブウイというヒトの不運は度重なる故障、そしてジョーダンの存在に代表されます。しかしながら、そもそもブウイというヒトは色々と運がありませんでした。オラジュワン、ユーイング、デヴィッド・ロビンソンとビッグセンター盛況の時代だった事もそうですし、学生時代には'80年の五輪代表に選ばれながら出場出来ませんでした。しかもこれは彼恒例の故障では無く、なんとアメリカをはじめとする西側諸国のボイコットによるものでした。アフガニスタンを巡る東西対立という政治的な理由で、彼はモスクワ五輪でプレーする機会を失ったのです。つくづく運の無いヒトなんだなと思わずにはいられません。
思えばジョーダンのキャリアは彼と全く好対照です。五輪には'84年ロス五輪(モスクワ五輪時の仕返しで東側諸国がボイコットしたので尚更楽勝でした)、そして'92年バルセロナ五輪と2回金メダルを得る機会に恵まれましたし、故障らしい故障はNBA2年目のみ。ほぼ全キャリアをブルズで過ごし、6度の優勝、そして数え切れないキャリアでの業績の数々は皆様良くご存知の通りですね。
また、5度に渡るポストシーズンでブウイがほぼ全スタッツでシーズン以下の成績に留まっているのに対し、ジョーダンがむしろポストシーズンで凄まじいプレーを見せつけたのは今更私が申し上げるまでも無いでしょう。
NBAでのブウイのプレーをYoutubeで検索したところ、よりにもよってこんな動画がヒットする始末です。ブウイという人の不運は未だに続いているのかも知れないな、と思わずにはいられません。
http://his-airness.seesaa.net/article/7025455.html
なお、マイケル・ジョーダン一筋のMy Dear Airnessさんの移転前の過去ログに、ブウイのインタヴューが軽く紹介されていますのでご存知無い方は一読をお勧めします。どうやらブウイ本人の中では心の整理が完全についているようで、何だかほっとしました。
http://www.lostlettermen.com/kentuckys-sam-bowie-now-racing-horses/
現在ブウイは競馬の馬主となっており、どうやらそちらでは順調なようですね。経済的にも恵まれているようで何よりです。NBA選手として成功しても経済的に破綻する選手は少なくありませんからね家族も妻と3人の子供がおり、娘の1人は父親譲りの長身で女子バスケットに挑んでいます。
ブウイとジョーダンの件は、ドラフト指名の際に何を重視すべきか、という永遠の課題を提示した好例と言えます。チームのニーズに合致したタレントを求めるのか、チーム事情に一切関係無く純粋に優れたタレントを取りに行くか。前回ご紹介した1位指名の残念な面々も実はビッグマンが過半数を軽く超える勢いでしたが、ドラフトでの失敗というのはビッグマン獲得を優先してPG〜SFポジションの才能を見落とす、というのが殆どであるように思います。ドラフトの際には是非このポイントを踏まえて自チームの指名を注視する事をお勧めする次第です。
そして最後にブレーザーズですが、ウォルトン、ブウイと続いたブレーザーズのビッグマン故障禍はその後もNBA入り前に故障を背負ってしまったサボニス、そして現在進行形で故障を重ねているグレッグ・オデンへと引き継がれてしまっています。しかもオデン君の直後に指名されたデュラントが大活躍し、またもブレーザーズに指名の失敗が囁かれている点までもブウイ&ジョーダンの関係とと合致する始末です。オデン君が将来当シリーズで取り上げられる日が来ない事、そしてブレーザーズのこの困った伝統がそろそろ打ち止めとなる事を願って止みません。
※参考文献
Wikipedia
ブウイキャリアまとめ
バスケットボールリファレンス.comよりキャリアスタッツ
NEWERA CAP(ニューエラ)HARDWOOD CLASSICS PORTLAND TRAIL BLAZERS BLACK/GRAY※【あす楽対応】
NEWERA CAP(ニューエラ)PORTLAND TRAIL BLAZERS RED/BLACK※【あす楽対応】
そもそもブレーザーズのビッグマン負の歴史はチームに初優勝をもたらしたレジェンドセンター、ビル・ウォルトンに始まります。'77年、スター軍団のシクサーズをはね除けてブレーザーズをチーム初優勝に導いた偉大なこの選手は、しかしドラフト以来ブレーザーズに在籍した4シーズンで平均50試合強しか出場出来ずに移籍していきました。そんなウォルトンがいなくなったブレーザーズは新たなビッグマンを求めていたのです。そして'84年、運命のドラフトが開かれました。NBA史上でも屈指のウルトラ大豊作年となったこのドラフトにおいて、ブレーザーズが持っていた指名権はなんと2位。この幸運を、しかしブレーザーズは見事フイにしてしまったのであります。
このドラフトにおける1位ピックはロケッツ指名のセンター、アキーム・オラジュワン。そして2位のブレーザーズもまたセンター指名に行きます。それがブウイでした。問題は3位指名が、ノースカロライナ大出身のあるガード選手だった事です。NCAAファイナルで決勝シュートを沈めた経験を持つそのガードが、NBA史上最高の選手の1人としてリーグに君臨する事を、その時点でブレーザーズには予想出来なかったのです。まあ、指名したブルズだって当時、彼のシグニチャーシューズが世界中で大人気となる事など、予想もしていなかったと思います。かくて、ブウイには永遠に剥がせないレッテルが貼られてしまったのです。「マイケル・ジョーダンより先に指名された男」。この肩書きは、ジョーダンの評価が上がるのと比例してブウイに重くのしかかっていきました。
マイケル・ジョーダンを差し置いて他の選手を指名した・・・この一点だけ見ればブレーザーズは確かに救いようの無い失敗を犯したとしか思えません。しかし、当時のブレーザーズのチーム事情とブウイのドラフト前までのプレーを見た時、必ずしもそうと言い切れない理由が見えて来ます。
1961年3月17日、ペンシルヴァニア州レバノンで生まれたブウイはレバノン高校時代から知られた存在でした。平均28得点18リバウンドを超えるアヴェレージではそれも当然ですね。後に同じくNBA入りを果たすビッグセンター、ラルフ・サンプソンとのビッグマン対決は「バトル・オブ・ザ・ジャイアンツ」と呼ばれたものでした(まあビッグマン対決って大概そう言われてたりしますが)。そのサンプソンとの対決では敗れたもののマクドナルドオールアメリカンにも選出された彼は各大学のリクルート合戦の末、ケンタッキー大へ入学します。
http://www.sports-reference.com/cbb/players/b/bowiesa01.html
http://www.bigbluehistory.net/bb/statistics/Players/Bowie_Sam.html
彼のケンタッキー大でのスタッツは3シーズンに及びました。'79-'80シーズンが12.9得点8.1リバウンド2.1ブロック、'80-'81シーズンが17.4得点9.1リバウンド2.9ブロック、そして'83-'84シーズンが10.5得点9.2リバウンド1.9ブロックです。・・・ええ、私は別に年度をミスタイプしたのではありません。彼のカレッジキャリアには、まるまる2年の空白があるのです。脛骨の相次ぐ故障が彼のNCAAキャリアを中断させたのであり、実はこのあたりに彼の今後の運命を予感させる要素はあったのですね。それでも彼は'80-'81シーズンにはNCAAオールアメリカン3rdチームに、'83-'84シーズンには2ndチームに選出され、彼の背番号31は永久欠番になりました。スポーツイラストレイテッド誌の表紙を飾ったのもケンタッキー大時代のことです。
これは適当に検索して見つけた、ブウイ最後のシーズンでのオーバーン大との対戦です。これまた後にNBAで外れ指名と言われる事になるビッグマンのメルヴィン・ターピン、NBAダンクコンテストで名を挙げるケニー・“スカイ”・ウォーカーを擁するケンタッキー大が、チャールズ・バークリー、チャック・パーソンを擁するオーバーン大に勝つ・・・胸が熱くなるなと。再三アリウープダンクを決めるブウイの姿を見て、それでもなお彼のピックを躊躇うのは確かに難しいです。
更にブレーザーズには今ひとつ、ジョーダンを指名しない理由がありました。彼らは既に遡る事1年前、'83年のドラフトでクライド・ドレクスラーという優れたスウィングマンを指名していました。ヒューストン大ではオラジュワンと組んでスラマ・ジャマの異名を取るダンクチームを結成して一世を風靡したドレクスラーはNBAでも1年目から全試合出場を果たして7.7得点とそこそこの成績を収めていました。そして実際その後彼はこの後ブレーザーズの顔としてチームを牽引していく事となるのです。14位指名としてはこれは大当たりであったと言えるでしょう。
既にドレクスラーを抱えるチームにジョーダンを連れて来てどうする、という考えは至って正統派な考え方ですね。ましてや今以上にビッグマンの存在が絶対視されていた状況では尚更の事です。今でこそ我々はジョーダンの偉大さを良く知っているのでブレーザーズの当時の判断を愚かと笑えますが、かように当時の状況を考え合わせると必ずしも間違った選択肢だったとも言い切れないのですね。
http://www.basketball-reference.com/players/b/bowiesa01.html
ただ、やはり結果だけ申し上げるならブウイを選択した事はブレーザーズにとってミステイクでした。1年目は76試合中62試合に出場し、FG.537で10得点8.6リバウンド2.8アシスト2.7ブロックとまずまずのスタートを切ってオールルーキーチームにも選出されましたが、大学時代同様に故障が彼のキャリアを細らせます。何しろこの度3シーズンの彼の出場試合は38試合、5試合、20試合です。いくらなんでも3シーズンに渡ってこれではブレーザーズも選択ミスを認めるしかありません。ウォルトンに続きセンターの故障禍に苦しんだブレーザーズは結局、彼をドラフト指名権とセットにして、バック・ウィリアムズとの交換でネッツへ送ったのです。
ネッツでブウイは4シーズンを過ごしますが、実はこちらではそこそこの出場を果たします。68試合、62試合、71試合、79試合ですから致命的な故障は無かった訳ですね。そして成績の方も移籍1年目から14.7得点10.1リバウンド1.8ブロックと結構良さげな感じに。その後も12.9得点7.7リバウンド2.4アシスト1.5ブロック、15.0得点8.1リバウンド2.6アシスト1.7ブロックと推移します。もっとも、その間FG成功率はセンターとしては相当低い.416→.434→.445ではありましたが。そして'92-'93シーズン、そのFG成功率こそ.450になったもののブウイのスタッツは9.1得点7.0リバウンド1.6アシスト1.6ブロックと些かダウンしました。ま、既にこの時彼は31才でしたからね。
その後彼はレイカーズで2シーズンを過ごしましたが1年目は再びの故障で25試合の出場に留まり、2年目は67試合に出場も4.6得点4.3リバウンドと最早戦力として多くを望める選手では無くなっていました。かくて'95プレーオフ終了後、ブウイはかつて自分より先にドラフト指名されたオラジュワン、ブレーザーズが自分を指名した理由だったドレクスラーがロケッツで大学以来のコンビを組んで優勝するのを尻目に、そっとユニフォームを脱いだのです。
ブウイというヒトの不運は度重なる故障、そしてジョーダンの存在に代表されます。しかしながら、そもそもブウイというヒトは色々と運がありませんでした。オラジュワン、ユーイング、デヴィッド・ロビンソンとビッグセンター盛況の時代だった事もそうですし、学生時代には'80年の五輪代表に選ばれながら出場出来ませんでした。しかもこれは彼恒例の故障では無く、なんとアメリカをはじめとする西側諸国のボイコットによるものでした。アフガニスタンを巡る東西対立という政治的な理由で、彼はモスクワ五輪でプレーする機会を失ったのです。つくづく運の無いヒトなんだなと思わずにはいられません。
思えばジョーダンのキャリアは彼と全く好対照です。五輪には'84年ロス五輪(モスクワ五輪時の仕返しで東側諸国がボイコットしたので尚更楽勝でした)、そして'92年バルセロナ五輪と2回金メダルを得る機会に恵まれましたし、故障らしい故障はNBA2年目のみ。ほぼ全キャリアをブルズで過ごし、6度の優勝、そして数え切れないキャリアでの業績の数々は皆様良くご存知の通りですね。
また、5度に渡るポストシーズンでブウイがほぼ全スタッツでシーズン以下の成績に留まっているのに対し、ジョーダンがむしろポストシーズンで凄まじいプレーを見せつけたのは今更私が申し上げるまでも無いでしょう。
NBAでのブウイのプレーをYoutubeで検索したところ、よりにもよってこんな動画がヒットする始末です。ブウイという人の不運は未だに続いているのかも知れないな、と思わずにはいられません。
http://his-airness.seesaa.net/article/7025455.html
なお、マイケル・ジョーダン一筋のMy Dear Airnessさんの移転前の過去ログに、ブウイのインタヴューが軽く紹介されていますのでご存知無い方は一読をお勧めします。どうやらブウイ本人の中では心の整理が完全についているようで、何だかほっとしました。
http://www.lostlettermen.com/kentuckys-sam-bowie-now-racing-horses/
現在ブウイは競馬の馬主となっており、どうやらそちらでは順調なようですね。経済的にも恵まれているようで何よりです。NBA選手として成功しても経済的に破綻する選手は少なくありませんからね家族も妻と3人の子供がおり、娘の1人は父親譲りの長身で女子バスケットに挑んでいます。
ブウイとジョーダンの件は、ドラフト指名の際に何を重視すべきか、という永遠の課題を提示した好例と言えます。チームのニーズに合致したタレントを求めるのか、チーム事情に一切関係無く純粋に優れたタレントを取りに行くか。前回ご紹介した1位指名の残念な面々も実はビッグマンが過半数を軽く超える勢いでしたが、ドラフトでの失敗というのはビッグマン獲得を優先してPG〜SFポジションの才能を見落とす、というのが殆どであるように思います。ドラフトの際には是非このポイントを踏まえて自チームの指名を注視する事をお勧めする次第です。
そして最後にブレーザーズですが、ウォルトン、ブウイと続いたブレーザーズのビッグマン故障禍はその後もNBA入り前に故障を背負ってしまったサボニス、そして現在進行形で故障を重ねているグレッグ・オデンへと引き継がれてしまっています。しかもオデン君の直後に指名されたデュラントが大活躍し、またもブレーザーズに指名の失敗が囁かれている点までもブウイ&ジョーダンの関係とと合致する始末です。オデン君が将来当シリーズで取り上げられる日が来ない事、そしてブレーザーズのこの困った伝統がそろそろ打ち止めとなる事を願って止みません。
※参考文献
Wikipedia
ブウイキャリアまとめ
バスケットボールリファレンス.comよりキャリアスタッツ
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