いや〜、迷いました。実は「新・栄光無き〜」「(´・ ω・`)ショボーン」そして当シリーズはこの4回目においてはそれぞれ物故者を扱うつもりだったんです。でも、良く考えたらそれをやるとバイアスから4人連続故人を偲ぶエントリーが続いてしまうというダウナーな感じになってしまいます。つーかその2回前もペトロヴィッチですし。
つー事で今回は当初の予定を変更し、セルティクスが2回続いたのに対抗して(?)レイカーズで行きましょう。あのショータイムバスケットボール時代を支えたガードにして、引退後はHCとしても実績を重ねつつある御方の登場です。オールドファンから近年のファンまで知名度の高い名選手/名コーチ、バイロン・スコットであります。
スコットは1961年3月28日、ユタ州オグデンに生を受けました。が、育ちはカリフォルニア州イングルウッドであります。そして高校時代にプレーしていたモーニングサイド高校はレイカーズの旧ホーム、ザ・フォーラムの近所だったんです。ある意味、既にレイカーズの申し子のようなものだったのかも知れません。高校時代、彼はマクドナルドオールアメリカンに選出と、早くもその才能の片鱗を見せていました。
http://thesundevils.cstv.com/sports/m-baskbl/mtt/scott_byron00.html
大学ではアリゾナ州立大を選んだスコットはここで3シーズンを過ごします。彼が在学した3年の間に得点アヴェレージは13.6得点→16.6得点→21.6得点と順調に伸び、しかも3年連続FG成功率は5割超。1年生時の2試合を除く全ての試合に先発した結果でした。その間、'81年3月には当時トップランクチームだったオレゴン州立大に61-81と圧勝したり、'83年にはオールアメリカン2ndチームに選出されたりといった成果を挙げています。
スコットは'83年、ドラフト4位でサンディエゴ・クリッパーズ(現ロサンゼルス・クリッパーズ)により指名されます。そして直後にノーム・ニクソンとのトレードでレイカーズへと移籍したのです。ノーム・ニクソンは当時レイカーズの先発PGでしたが、これでマジック・ジョンソンは先発PGへとスライドします。既にマジック・ジョンソンとカリーム・アブドゥル・ジャバーを中心としたレイカーズにおいて、スコットは1年目から74試合中49試合に先発し、チーム6番目のアヴェレージとなる10.6得点を挙げます。そして徐々にスコットは先発SGの座をより確かなものとし、マイケル・クーパーと共にショータイム・バスケットボールのフィニッシャー役となっていったのです。
こちらの動画の背番号4がスコット、21番がクーパーです。マジック・ジョンソンのトリッキーなノールックパスも、ボールをキッチリ受け取りゴールに叩き込む彼らの存在あってこそでした。特にマジックの加入1年目から一緒のクーパーはともかく、後から加わったスコットがアジャストするのは大変だったと思いますが、彼はレイカーズにおいてジャバー、マジック、ウォージーに続く4番目の得点源へと華麗に成長を遂げていきました。
先日もご紹介した「NBA's 100 GREATEST PLAY」のアシストランク1位に入っているこのマジック・ジョンソンのキャリア屈指のアシストもまた、スコットがフィニッシャーです。確かにマジックのパスもブリリアントなんですが、それを躊躇無く受け取り叩き込むスコットの運動能力あってのこのハイライトな訳です。今のスーツ姿からはちょっと想像つかないですかね?無論それだけでなく、基本的なシュート能力にも長けていた彼は3ポイントをも武器として得点を稼いだのです。実際'84-'85シーズンには.433で3ポイント成功率リーグトップの座を獲得しています。
スコットはショータイムバスケット時代のレイカーズを駆け抜け、'85年、そして'87・'88年の2連覇と都合3つのリングを獲得します。そしてジャバー、マジックが去っていった後もレイカーズを支えます。マジック一度目の引退寸前の'91ファイナル(ジョーダン率いるブルズに敗退)でも彼はそこにいましたし、'93プレーオフでバークリー加入効果でファイナルまで進む事となるサンズ相手に1stラウンドでアウェー2連勝を果たし、サンズを土俵際まで追い詰めた時も彼はそこにいました。
しかしこのオフ、FAになったスコットを獲得しようという球団は不思議な事に現れませんでした。レイカーズはチームの再建に入り、若手中心の起用に切り替えていったためスコットには出る幕が無かったのです。やっと彼がNBAに戻ったのはなんと12/6、レジー・ミラーのバックアップSGとしてペイサーズと契約してからでした。この新天地で彼は見事に期待された通りの仕事をこなし、チーム5位の平均得点でペイサーズのベンチに厚みをもたらしたのです。実際ペイサーズは彼の在籍2年間、いずれもカンファレンスファイナルまで勝ち進んでいます。ファイナルへ勝ち進んだニックス、そしてマジックにもしもペイサーズが勝っていたらロケッツと対戦していた訳ですが、果たしてどうなっていた事でしょうね。
この後'95オフにはエクスパンションドラフトでヴァンクーヴァー・グリズリーズ(現メンフィス・グリズリーズ)へ移籍、新設フランチャイズで1年を務めた後に解雇されると、再びレイカーズへと戻ったのです。この'96-'97シーズンは彼のキャリア唯一にして最後の1桁アヴェレージではありましたがヴェテランに相応しいリーダーシップをもたらしたのです。シャック、そして新人コービーを迎えて再び頂点を目指そうという体制を整えたレイカーズにとって、黄金時代を知るスコットの復帰はかなり良い補強でした。特に高校卒業したてのコービーにとっては良いお手本だったはずです。その頃の事をスコットが話しているインタヴューを見つけましたので、英語ヒアリング能力堪能な方は是非お聞きになってみて下さい。
このシーズンを最後に、遂にスコットはNBAを去ります。NBA史上75人目の15,000点達成、37人目の1,000試合出場など数々のマイルストーンに満ちた彼のNBAキャリアに欠けていたのは、スター多数のチーム故に選出されなかったオールスターぐらいのものでしょう。
なお、スコットはこの後ギリシアへ渡り、名門パナシナイコスと契約。何度と無くNBAで修羅場を潜り抜けて来た経験を最大に生かしてクラッチショットを沈めまくった彼は、パナシナイコスにギリシアチャンピオンの座をもたらし、今度こそ現役生活に別れを告げたのです。
そして休む間も無く彼はコーチ家業へと華麗な転身を遂げます。早速'98年からリック・エイデルマン政権になったばかりのキングスでACとして雇われると、ペリメーターのシューティングに磨きをかける事にまず成功します。
そして2000年には早くもネッツでHCに就任。初年度こそ26勝止まりと散々な成績だったものの、トレードでPGがマーブリーからキッドに代わった途端に快進撃を開始、一気に2年連続のファイナル進出という成果を得ます。なお、スコット体制で'01-'02シーズンに達成した52勝はネッツのフランチャイズ記録です。
ネッツでは4年目、'03-'04シーズン半ばに22勝20敗とやや低調なシーズンの最中に解雇されたスコットでしたが、翌'04-'05シーズンには今度はホーネッツのHCに就任。ここでも1年目こそ18勝止まりでしたがPGをバロン・デイヴィスからドラフトで獲得したクリス・ポールへと変更した2年目からチーム成績を徐々に好転させ、'07-'08シーズンにはこれまたホーネッツのフランチャイズ記録となる56勝ををマークし、激戦のウエスタンカンファレンスでカンファレンスセミファイナルまで駒を進め、スパーズと第7戦まで縺れ込む激戦を演じました。この翌シーズンもホーネッツは49勝でプレーオフ出場を果たしています。
スコットはホーネッツでも'09-'10シーズン、チームが3勝6敗と出遅れたところでまたしてもシーズン半ばの解雇となります。が、またしても間を空ける事無くキャヴスHCに就任したのが昨季の事だった訳です。またしても初年度、彼のチームは19勝に終わりました。そして今、またしてもPGをバロン・デイヴィスからカイリー・アーヴィングへと交代しようとしているのです。きっとスコットはネッツ、ホーネッツで得たのと同じような成果を、またしてもキャヴスで得られる事でしょう。レブロン時代に達成されたキャヴスのフランチャイズレコード、66勝を更新するのだけはちょっと大変かも知れませんが
※本文引用以外の参考文献
Wikipedia
NBA.comよりキャリアプロフィール(インターネットアーカイヴ使用)
バスケットボールリファレンス.comよりキャリアスタッツ
バスケットボールリファレンス.comよりヘッドコーチとしてのスタッツ
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出演:ジョージ・マイカン
ワーナー・ホーム・ビデオ(2005-10-07)
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つー事で今回は当初の予定を変更し、セルティクスが2回続いたのに対抗して(?)レイカーズで行きましょう。あのショータイムバスケットボール時代を支えたガードにして、引退後はHCとしても実績を重ねつつある御方の登場です。オールドファンから近年のファンまで知名度の高い名選手/名コーチ、バイロン・スコットであります。
スコットは1961年3月28日、ユタ州オグデンに生を受けました。が、育ちはカリフォルニア州イングルウッドであります。そして高校時代にプレーしていたモーニングサイド高校はレイカーズの旧ホーム、ザ・フォーラムの近所だったんです。ある意味、既にレイカーズの申し子のようなものだったのかも知れません。高校時代、彼はマクドナルドオールアメリカンに選出と、早くもその才能の片鱗を見せていました。
http://thesundevils.cstv.com/sports/m-baskbl/mtt/scott_byron00.html
大学ではアリゾナ州立大を選んだスコットはここで3シーズンを過ごします。彼が在学した3年の間に得点アヴェレージは13.6得点→16.6得点→21.6得点と順調に伸び、しかも3年連続FG成功率は5割超。1年生時の2試合を除く全ての試合に先発した結果でした。その間、'81年3月には当時トップランクチームだったオレゴン州立大に61-81と圧勝したり、'83年にはオールアメリカン2ndチームに選出されたりといった成果を挙げています。
スコットは'83年、ドラフト4位でサンディエゴ・クリッパーズ(現ロサンゼルス・クリッパーズ)により指名されます。そして直後にノーム・ニクソンとのトレードでレイカーズへと移籍したのです。ノーム・ニクソンは当時レイカーズの先発PGでしたが、これでマジック・ジョンソンは先発PGへとスライドします。既にマジック・ジョンソンとカリーム・アブドゥル・ジャバーを中心としたレイカーズにおいて、スコットは1年目から74試合中49試合に先発し、チーム6番目のアヴェレージとなる10.6得点を挙げます。そして徐々にスコットは先発SGの座をより確かなものとし、マイケル・クーパーと共にショータイム・バスケットボールのフィニッシャー役となっていったのです。
こちらの動画の背番号4がスコット、21番がクーパーです。マジック・ジョンソンのトリッキーなノールックパスも、ボールをキッチリ受け取りゴールに叩き込む彼らの存在あってこそでした。特にマジックの加入1年目から一緒のクーパーはともかく、後から加わったスコットがアジャストするのは大変だったと思いますが、彼はレイカーズにおいてジャバー、マジック、ウォージーに続く4番目の得点源へと華麗に成長を遂げていきました。
先日もご紹介した「NBA's 100 GREATEST PLAY」のアシストランク1位に入っているこのマジック・ジョンソンのキャリア屈指のアシストもまた、スコットがフィニッシャーです。確かにマジックのパスもブリリアントなんですが、それを躊躇無く受け取り叩き込むスコットの運動能力あってのこのハイライトな訳です。今のスーツ姿からはちょっと想像つかないですかね?無論それだけでなく、基本的なシュート能力にも長けていた彼は3ポイントをも武器として得点を稼いだのです。実際'84-'85シーズンには.433で3ポイント成功率リーグトップの座を獲得しています。
スコットはショータイムバスケット時代のレイカーズを駆け抜け、'85年、そして'87・'88年の2連覇と都合3つのリングを獲得します。そしてジャバー、マジックが去っていった後もレイカーズを支えます。マジック一度目の引退寸前の'91ファイナル(ジョーダン率いるブルズに敗退)でも彼はそこにいましたし、'93プレーオフでバークリー加入効果でファイナルまで進む事となるサンズ相手に1stラウンドでアウェー2連勝を果たし、サンズを土俵際まで追い詰めた時も彼はそこにいました。
しかしこのオフ、FAになったスコットを獲得しようという球団は不思議な事に現れませんでした。レイカーズはチームの再建に入り、若手中心の起用に切り替えていったためスコットには出る幕が無かったのです。やっと彼がNBAに戻ったのはなんと12/6、レジー・ミラーのバックアップSGとしてペイサーズと契約してからでした。この新天地で彼は見事に期待された通りの仕事をこなし、チーム5位の平均得点でペイサーズのベンチに厚みをもたらしたのです。実際ペイサーズは彼の在籍2年間、いずれもカンファレンスファイナルまで勝ち進んでいます。ファイナルへ勝ち進んだニックス、そしてマジックにもしもペイサーズが勝っていたらロケッツと対戦していた訳ですが、果たしてどうなっていた事でしょうね。
この後'95オフにはエクスパンションドラフトでヴァンクーヴァー・グリズリーズ(現メンフィス・グリズリーズ)へ移籍、新設フランチャイズで1年を務めた後に解雇されると、再びレイカーズへと戻ったのです。この'96-'97シーズンは彼のキャリア唯一にして最後の1桁アヴェレージではありましたがヴェテランに相応しいリーダーシップをもたらしたのです。シャック、そして新人コービーを迎えて再び頂点を目指そうという体制を整えたレイカーズにとって、黄金時代を知るスコットの復帰はかなり良い補強でした。特に高校卒業したてのコービーにとっては良いお手本だったはずです。その頃の事をスコットが話しているインタヴューを見つけましたので、英語ヒアリング能力堪能な方は是非お聞きになってみて下さい。
このシーズンを最後に、遂にスコットはNBAを去ります。NBA史上75人目の15,000点達成、37人目の1,000試合出場など数々のマイルストーンに満ちた彼のNBAキャリアに欠けていたのは、スター多数のチーム故に選出されなかったオールスターぐらいのものでしょう。
なお、スコットはこの後ギリシアへ渡り、名門パナシナイコスと契約。何度と無くNBAで修羅場を潜り抜けて来た経験を最大に生かしてクラッチショットを沈めまくった彼は、パナシナイコスにギリシアチャンピオンの座をもたらし、今度こそ現役生活に別れを告げたのです。
そして休む間も無く彼はコーチ家業へと華麗な転身を遂げます。早速'98年からリック・エイデルマン政権になったばかりのキングスでACとして雇われると、ペリメーターのシューティングに磨きをかける事にまず成功します。
そして2000年には早くもネッツでHCに就任。初年度こそ26勝止まりと散々な成績だったものの、トレードでPGがマーブリーからキッドに代わった途端に快進撃を開始、一気に2年連続のファイナル進出という成果を得ます。なお、スコット体制で'01-'02シーズンに達成した52勝はネッツのフランチャイズ記録です。
ネッツでは4年目、'03-'04シーズン半ばに22勝20敗とやや低調なシーズンの最中に解雇されたスコットでしたが、翌'04-'05シーズンには今度はホーネッツのHCに就任。ここでも1年目こそ18勝止まりでしたがPGをバロン・デイヴィスからドラフトで獲得したクリス・ポールへと変更した2年目からチーム成績を徐々に好転させ、'07-'08シーズンにはこれまたホーネッツのフランチャイズ記録となる56勝ををマークし、激戦のウエスタンカンファレンスでカンファレンスセミファイナルまで駒を進め、スパーズと第7戦まで縺れ込む激戦を演じました。この翌シーズンもホーネッツは49勝でプレーオフ出場を果たしています。
スコットはホーネッツでも'09-'10シーズン、チームが3勝6敗と出遅れたところでまたしてもシーズン半ばの解雇となります。が、またしても間を空ける事無くキャヴスHCに就任したのが昨季の事だった訳です。またしても初年度、彼のチームは19勝に終わりました。そして今、またしてもPGをバロン・デイヴィスからカイリー・アーヴィングへと交代しようとしているのです。きっとスコットはネッツ、ホーネッツで得たのと同じような成果を、またしてもキャヴスで得られる事でしょう。レブロン時代に達成されたキャヴスのフランチャイズレコード、66勝を更新するのだけはちょっと大変かも知れませんが
※本文引用以外の参考文献
Wikipedia
NBA.comよりキャリアプロフィール(インターネットアーカイヴ使用)
バスケットボールリファレンス.comよりキャリアスタッツ
バスケットボールリファレンス.comよりヘッドコーチとしてのスタッツ
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