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かつて、ダンクというプレーは邪道でした。NBA黎明期にあってダンクという行為は卑怯な行為として忌み嫌われ、最初のビッグセンターたるジョージ・マイカン(物故者)もコート上でダンクを行う事は殆ど無かったのです。

が、ダンクを公然と武器にした2人のスターが現れ、その流れは変わり始めます。「ジョーダンの前のジョーダン」、エルジン・ベイラー(現クリッパーズGM)とNBA史上最強のスコアリングマシン、ウィルト・チェンバレン(物故者)。レイカーズでチームメイトにもなったこの2人が、後に続くダンカー達の開祖と言って良いでしょう。ベイラーは鮮やかに空を駆けるスカイマスター、チェンバレンは力で圧倒するパワーダンカーの先駆者だったのです。

ベイラーの系譜を完成させ、芸術とさえ評される域まで届いたのがジュリアス・“Dr.J”・アーヴィングでした。マイケル・ジョーダンもDr.Jに憧れて、気が付けば彼をも凌ぐNBA史上最大級のスターに上り詰めたのです。一方、チェンバレンの系譜はやはりというべきか、ビッグマン達に受け継がれていきます。

そして、この系譜をある意味両方受け継いだ選手がマジックにもかつて2人在籍していました。今回はその1人、マジックというよりもシアトル・スーパーソニックスで圧倒的な輝きを見せたハイパーダンカーについて語ります。ショーン・ケンプ。'90sNBAを語るのに決して外せない名前です。

インディアナ州エルクハート出身のケンプは地元高校で頭角を現すと、ケンタッキー大へ進学・・・のはずがチームメイトのネックレスを質屋に入れたとやらのトラブル(トランプで対決してケンプが勝ったため、とも)のため1試合もプレーする事無くテキサスのトリニティー・ヴァレー短大へ転校するものの、こちらでもプレー出来ずに終わります。こうして、ケンプは大学というステージで一切プレーする事無くNBAドラフトへエントリーしたのです。よって、ケンプを高卒ルーキーというのは若干正確さを欠いた表現になりますね。

ともあれ、1989年のドラフトでケンプは1巡目17位という順位でソニックスから指名を受けます。大学での経験が無い事、しかもその原因などを考えれば10位内での指名が難しかった事は想像に難くありませんが、それでもその圧倒的運動能力は大きな魅力でした。1年目こそ13.8分の出場に甘んじたものの、2年目には出場時間を倍増。5割超のFG成功率でメキメキスタッツを上げ、先発選手として活躍し始めます。ペイトンの最強の相棒となったペイトンが加入したのも正にこの'90-'91シーズンであり、これ以降ペイトンからのアリウープパスをケンプがド派手に叩き込むのがソニックスの恒例行事となったのです。



ハーフコートからのアリウープパスさえ珍しくないほどに気の合った2人は相手チームにダンクを雨あられと叩き込みます。そう、「レインマン」の一つの意味は当時ヒットしていた映画のタイトルから由来する「Rain Man」です。これはシアトルが雨がちな気候であることにかかっていますね。そして今ひとつ、「Reign Man」、「支配者」という意味でもあったのです。確かにあの頃、無人野を行くが如くリングへ向かい飛翔するケンプを止める事は極めて困難でした。

ケンプのダンクスタイルはとにかく圧倒的な運動能力に裏打ちされた見た目にも大きくアピールするものばかりで、私自身も彼以降でこれほど華のあるダンクをしていたのはヴィンス・カーターとT-MAC、フランシスぐらいしか思い付きません。PFの選手なのですから力強さはもちろんですが、そのジャンプ力ゆえにビッグマンぽくないのですね。むしろSFあたりのダンクスタイルに近い感じでした。フィニッシュは圧倒的にパワフルでしたが・・・。

こうしてペイトンとの名コンビで飛躍したケンプは3年目以降ダブルダブルのアベレージを残し、チームの屋台骨を支えます。1年目には初戦敗退だったプレーオフにも2・3年目にはカンファレンス・セミファイナルまで進出と順調に伸び行くソニックスでしたが、4年目の'93-'94シーズンには63勝を記録してウエスタンカンファレンス1位でプレーオフに進出しながら1stラウンドでムトンボ率いるナゲッツに史上初の8位でのアップセットを喰らうという悪夢も経験し、更に翌'94-'95プレーオフでもレイカーズに初戦敗退。



が、試練の時を乗り越えて遂に飛躍の時が来ました。ペイトン、ホーキンス、シュレンプ、ケンプ、パーキンスというラインアップで臨んだ'95-'96シーズン、ソニックスはチーム記録を更新する64勝を挙げてジョージ・カールHCにとっても鬼門だったプレーオフをも駆け上がり、遂に'79年以来のファイナルへ進出します。この頃のケンプのFG成功率は.560を越えており、プレーオフに至っては.570。ファイナルの相手はマジックを4タテで軽く片付けたシカゴ・「アンストッパブルズ」だったにも関わらずケンプはむしろ平均得点を上げる活躍を見せます。結果的には敗れたものの、NBA史上最強チームのひとつと言っていい時期のブルズ相手にむしろ2勝した事が素晴らしいです。後から考えてみても、この時がケンプの最盛期だったと考えて良いでしょう。

ソニックス自体はその後も2年連続カンファレンス・セミファイナルへ進出します。しかし、ケンプとソニックス経営陣の間にはいつの間にか溝が深まっていたのです。原因は皮肉にも、フロントが補強のために獲得したセンター、マッキルベインの高額なサラリーでした。確かに僅か2.3得点2.9リバウンドしか実績の無いセンターにケンプ以上の高額長期契約というのは単純に変です。ケンプの怒りも分からなくはありません。結局この溝は埋まる事無く、ケンプは'97年オフに、バックス・キャヴスとの三角トレードでソニックスを離れてしまったのです。親友ペイトンのショックは言うまでもありませんでした。

キャヴスに移ってもケンプは引き続きオールスターに選出されるなど、リーグのスターとして君臨し続けるかに思われましたが、やがて彼のプレーに翳りが見え始めます。体重が増え始めたのです。本人は意図的に体重を増やしていると言い訳していましたが、彼のプレースタイルがその爆発的な運動能力に立脚している以上、体重の増加は彼にとって何のメリットも無いものでしかありませんでした。結果、3年目の'99-'00シーズンにはFG成功率が実に.417まで墜落してしまいます。

キャヴスに3シーズン在籍した後に今度は金満経営夥しい時期のブレーザーズへトレードで移籍しますが、ただでさえ選手層が異常に厚いブレーザーズにおいて、「飛べない豚」となりつつあるケンプは最早主力でさえありませんでした。出場時間は半減、一時は2.1まで達していたブロックは0.5以下、おまけにアルコール中毒にコカイン絡みのトラブル・・・とどめに結婚していない女性達との子供の養育費問題まで抱え、ケンプは公私に問題を抱えるトラブル・メーカーへと堕してしまったのです。結局ブレーザーズでケンプが輝く事は無く、NBAでのスターという名声も実質ここで失ってしまいました。

そして'02年オフ、ブレーザーズはケンプを解雇。落ちたスターに最後の望みをかけたのが、我らがオーランド・マジックだったのです。時は正にT-MAC時代、インサイドの人材不足に悩んでいたマジックの期待は小さくありませんでした。実際ドック・リヴァース指揮下でケンプは79試合中55試合に先発、出場時間もやや増の20.7分となります。が、FG成功率.418というインサイドプレーヤーにあるまじき低確率は改まらず、6.8得点5.7リバウンドというスタッツに。プレーオフでは平均10分程度の出場時間しか与えられなかった上に全く戦力にならず、このシーズンを持ってケンプのNBAキャリアは実質終わりを告げたのです。

その後もケンプは幾度かNBAカムバックを試みます。マヴス、ナゲッツ(ジョージ・カールHCなのでチャンスだったはずですが・・・)共にケンプとの契約を考えたものの、結局NGに。しかもケンプ自身もドラッグ問題などのトラブルが続きました。もはやケンプのNBAはおろか、バスケットボールプレヤーとしてのキャリアすら終わった・・・そう思われても仕方無かったでしょう。



しかし、ケンプは遂に体重を減らして体を絞り、イタリアンリーグでの現役復帰を発表してくれました。サラリー問題の縺れが彼とソニックスから優勝のチャンスを奪ってしまいましたが、ケンプ自身は数々のトラブルを抱えながらも、バスケットボールへの情熱だけは忘れていなかったようです。ユーロでのプレーなので日本で彼の勇姿を見ることは難しいでしょうが、最後の花を咲かせて欲しい、そう思います。



最後に、ケンプがこれまた優勝と縁の無かったダンク・コンテストの映像です。'91年、ファイナルまで勝ち上がったもののディー・ブラウン(彼もマジックでキャリアを終えた選手です)のリーボック「ザ・パンプ」アピールと目隠しダンクの前に屈した際の映像で締めましょう。小細工無しにダンクそのものの迫力で勝負した感のあるケンプと、小技を巧みに織り込んだブラウン。勝敗には異論あるかも知れませんが、スラムダンクコンテストを盛り上げた名勝負でした。

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