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ビル・シャーマン(1926.05.25〜2013.10.25)




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タイロン・"アリモー"・エヴァンス A.K.A. ザ・ブラック・ウィドウ(?〜2013.2.26?)

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オーランド・ウーリッジ(1959.12.16〜2012.5.31)

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人生それなりに過ごしていれば、訃報というのは突然飛び込んで来るものだというのは経験で覚えて来るものです。新藤兼人監督尾崎紀世彦さんであれば、失礼ながら心の準備は出来ていました。新藤監督は御年齢100才でしたし、尾崎さんにしても失踪報道の後に入院しているという報道が続いていましたからね。





http://www.shreveporttimes.com/article/20120601/NEWS01/120601001/Former-NBA-player-dies-parents-Mansfield-home

http://espn.go.com/chicago/nba/story/_/id/7996539/former-notre-dame-fighting-irish-chicago-bulls-player-orlando-woolridge-dead-52

しかし、本当に突然訃報というものは飛び込んで来るものです。特に今回は'80年代のNBAファンなら、そして漫画「NBA STORY」を読んだ事のある人間ならば「え、もう?」と驚かずにはいられない方でありました。ただ、よくよく調べてみると、確かに訃報には早過ぎる年齢ではありましたが、実際にはそうでもありませんでした。彼、オーランド・ウーリッジはこの1年心臓の状況が悪く、既に2回も発作を起こしていたのです。そして現地5/31、両親の家で生涯を閉じたのであります。

オーランド・ヴァーダナ・ウーリッジは1959年12月16日、ルイジアナ州バーニス生まれです。彼が始めて組織的なバスケットボールを学んだのはなんとノートルダム大が始めての事だったのですが、'78年には早くもビル・レインビアと共にNCAAトーナメントでファイナル4へ進出。更には'80年・'81年と2年連続でNCAAへ母校が上がってくる原動力となりました。その'81年にはラルフ・サンプソンを擁するヴァージニア大の連勝記録を28でストップするクラッチショットを沈めてさえいるのです。かくしてウーリッジは4年生にしてオールアメリカン2ndチーム選出の栄誉に与りました。



この動画を見てみると、ジョン・パクソンもウーリッジのチームメイトだったのが分かりますね。クラインという名前も目に入りましたが、さてはジョー・クラインでしょうか?ともあれ、4年生時にはFG成功率.650、14.4得点6.0リバウンドという実績を出したウーリッジは'81年のNBAドラフトにエントリーしました。

http://nbadraft.net/nba_draft_history/1989.html#1981

そしてウーリッジはそのオフェンス力を評価され、6位でブルズの指名を受けたのです。ブルズで2年目には早くもFG成功率.580、16.5得点という成績を挙げます。更にウーリッジは平均得点を19.3得点、22.9得点とアップしていきました。問題はその22.9得点を挙げたウーリッジの4年目に、彼以上の点取り屋が、いや史上最高の点取り屋がやって来た事でした。

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※画像引用元

漫画「NBA Story」を読んだ事のある方であれば、ここからのくだりは良くご存知でしょう。映画「ゴーストバスターズ」に因んだ「ネットバスターズ」のキャッチコピーも空しく両雄は並び立たず、スコアリングマシーンコンビは僅か2シーズンしかブルズで共存出来ませんでした。



ま、ウーリッジのスタッツを大学時代から見ていれば分かりますが、彼はアシストが非常に少ないフィニッシャーです。要はフィニッシャーが2人いてもしょうがなかった訳ですね。それこそレブロンとウェイドのように互いにパスもまわせれば話は違ったのでしょうが・・・。アイヴァーソンとスタックハウスみたいなもんでしょうか?



ともあれその2シーズンの間に、ウーリッジはNBA初のダンクコンテストにも登場しています。ジュリアス・アーヴィングをはじめとするダンカーたちが早くも揃った1回目、'84年にはなんとレッグスルーダンクを決めているのです。そう、あまり知られてませんがダンクコンテストでのレッグスルー、元祖は彼なんですよ。しかもこれ、地味に体の回りでボールを1回転させてからのレッグスルーなんですね。そして翌'95年にもチームメイトのジョーダンと共にコンテストに登場しています。

しかし、ウーリッジのブルズでの日々は終わりました。より若く爆発力も上回るジョーダンをブルズは取って、'86年10月2日にウーリッジをFA移籍でネッツへ放出したのです。見返りにブルズは'88年2巡目指名権、'89年の1・2巡目指名権を獲得しました。その時にウーリッジがジョーダンにアーニー・バンクス症候群について話したかどうかは定かではありませんが、その後ブルズはジョーダンに取ってより相応しいSFの相棒、スコッティ・ピペンを得て黄金時代を築き上げていくのです。



一方のウーリッジはネッツ加入後2シーズン目に薬物乱用で出場停止処分を受けました。そしてその停止処分空けに、ショータイム時代のレイカーズにFA移籍で加入します。なるほど、マジック・ジョンソンという稀代のアシストメーカーがいるこのチームにウーリッジはうってつけの人材でした。ジョーダンの大学時代の先輩、ジェームズ・ウォージーがいるこのチームでの2年間、ウーリッジが先発する事は2試合しかありませんでしたが、概ね期待されたとおりの成績は残せたのではないかと思います。ただウーリッジ個人にとっては残念な事に、'89年はレイカーズはファイナルでピストンズに敗れてしまいました。'90年もカンファレンスセミファイナルでサンズの前に屈したのを最後に、ウーリッジはレイカーズをトレードで離れ、ナゲッツへと去ったのです。



その後もウーリッジは転戦を続けます。'90-'91シーズンにはナゲッツでキャリアハイの25.1得点をマークして得点力健在を見せ付けました。



'91-'92シーズンにはファイナルで敗れた相手、ピストンズへトレード移籍。既にピストンズもバッドボーイズによる連覇は終わっていましたがここでも先発選手として活躍を続けました。が、翌'92-'93シーズン半ばにバックスへトレードされます。すっかりジャーニーマン化してきましたね。



そして'93-'94シーズン、FA移籍したシクサーズで12.7得点のアヴェレージを残した後にウーリッジはNBAを離れたのです。



ウーリッジが向かった先はユーロ、イタリアでした。'94-'95シーズンにはマイク・ダントニ率いるベネトン・トレヴィソでユーロ杯を制し、翌'95-'96シーズンにはバクラー・ボローニャでイタリアン・スーパーカップを制したのです。このイタリアでの2シーズンを持って、今度こそウーリッジは現役を離れたのでありました。

その後ウーリッジはコーチ業に転職します。'98・'99年と続けてWNBAのロサンゼルス・スパークスを率いたのが最も有名ですが、'08〜'09年の間にはABAのアリゾナ・ライノスの唯一のシーズンでHCとなった事もありました。

http://espn.go.com/nba/story/_/id/7631465/former-chicago-bull-orlando-woolridge-arrested-released-bond

ただ、今年の2月にはアルミの鋼材を盗んで逮捕されていたなんてニュースもありました。今年の2月という事は既に心臓発作の症状に苦しんでいたはずですから、もしかすると治療費の捻出に苦労していたのかも、と思います。心臓疾患のため仕事も出来なかったそうですからね・・・。そんなウーリッジが生前母親に語ったお言葉が泣かせます。

“Mom, I thought I'd live at least 'til 55.”

「母さん、僕は少なくとも55才までは生きられると思っていたよ」・・・っかつてアリーナを沸かせたトップアスリートの生涯としては、些か寂しいものだったのではないかと思ってしまいます。

「NBA Story」だけ読んでいるとどうしてもジョーダンにとっての意地悪な先輩みたいなイメージがありますが、彼を知る者は必ずしもそうは言いません。むしろウーリッジを良い人であった、と語るのです。ただ、ノートルダム大で、またブルズでチームメイトだったジョン・パクソンはこう語ります。

"Obviously, he was very, very talented. He had strength and athleticism as a player. When we played together at Notre Dame, with his athleticism, as a point guard I always felt I could throw the ball anywhere near the rim and he was able to catch it and do something with it."

とても才能があった、力と運動能力があってリムの近くにボールを投げれば彼がキャッチ出来て何かやってくれるといつも感じていた、ってな事を言ってますね。更にパクソンは続けます。

"It's just a sad story because at his core, Orlando was a good guy who liked to laugh and have fun, but everyone knows the demons he battled throughout his life. We're all human beings, all have weaknesses but he still had a very, very good career. He was a very talented guy."

笑い楽しむ事が好きな良い人間だったが、誰もが彼が人生の間戦い続けていたデーモンを知っている、人間だから誰しも欠点はあるが、それでも彼はとても良いキャリアを送った・・・、ですか。「デーモン」とは何だったんでしょうかね、気にかかるところです。ジョーダンとはやはりプレースタイルだけでは無い問題があったのかも知れません。

ともあれ、我々もよくその名を知る往年の名選手がまた1人、世を去りました。ジャック・トワイマン氏も亡くなったばかりだというのに残念ですね。私も「NBA Story」でも読み返してみるとしましょうか。合掌。

P.S.

http://espn.go.com/chicago/nba/story/_/id/7999217/majority-orlando-woolridge-life-was-full-joy-brought-others


いつものようにKenchさんtweetで知りました、ESPNメリッサ・アイザクソンによるウーリッジ追悼記事です。

P.S.2

http://www.chicitysports.com/2012/06/01/the-big-o-orlando-woolridge-dies/

こちらもどなたかのtweetで知りました。

※本文引用以外の参考文献
Wikipedia
スポーツレファレンス.comよりカレッジ時代スタッツ
バスケットボール・レファレンス.comよりキャリアスタッツ



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ドウェイン・シンサス(1968.10.14〜2012.4.15)

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http://espn.go.com/nba/story/_/id/7817857/

多忙につき少し取り上げるのが遅くなりましたが、久々に訃報です。'90sNBAファンなら微妙に聞き覚えがあるだろうビッグマン、ドウェイン・シンサスが43才という若さで逝去しました。

名前からしてユーロの方かと思われそうですが、彼の国籍はアメリカです。フロリダ州ブランドンにて生まれたドウェイン・ケネス・シンサスは高校もそのままブランドン高校へ通いました。恐ろしい事に、この時点で既に7フッターだったシンサスは当然ながらセンターとして高校バスケ界を席巻、フロリダ州のMr.バスケットボールアワードのファイナリスト、毎度御馴染みマクドナルドのハイスクールオールアメリカン選出などの栄誉に浴します。地元志向なシンサスはそのままフロリダ大へと進学しました。

フロリダ大でシンサスは屋台骨となって奮闘します。得点、リバウンド、そしてビッグマンとしては驚くべき事にFT成功率の3部門でチームトップを取った事さえあるのです。また彼の1シーズンあたりのブロック数はフロリダ大チーム記録のトップ3を未だに独占しており、合計ブロック数も歴代1位。得点でも歴代6位にランクインしてますね(以上全て'12年4月現在)。今でこそNCAA界屈指の名門校としてNBAにもマイク・ミラー、ホーフォード、ヨアキム・ノアなどのNBA選手を輩出しているフロリダ大ですが、このシンサスが加入して初めてNCAAトーナメントに登場したのです。しかもシンサスがまだ1年生だった'87年にいきなりトーナメント初見参でスウィート16入りですから大したものです。結局シンサス在学中の4年間の間にフロリダ大はNCAAトーナメントに3回連続出場、またサザンカンファレンス(SEC)でのレギュラーシーズンチャンピオンも獲得。シンサス個人もオールSECチームに選出されました。

http://blogs.orlandosentinel.com/en_fuego/2012/04/dwayne-schintzius-death-farewell-to-a-free-spirited-gator.html

ただ、シンサスはHCと衝突したり、対戦相手の選手やファン、マスコットと揉めたり、ナイトクラブの駐車場でテニスラケットを振り回して同じフロリダ大の学生に怪我をさせて4試合の出場停止を喰らったりもしていました。もっとも、その出場停止処分空けの試合で相手チームの観客からテニスボールがコートに投げ込まれ、なんとこれがテクニカルファウルとなってFTをフロリダ大が得て、それを当のシンサスが決めてOTに持ち込み、最終的に勝ってしまったなんてエピソードもあります。・・・どこかに無いですかね、この試合の動画。

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シンサスのトレードマークといえば何と言ってもこの髪型。日本でもレスラーやヤンキーの兄ちゃんなどのヘアースタイルで御馴染みのこのヘアースタイルからシンサスには「ロブスター」というニックネームがつきました。そんなキャラ立ちしていたシンサスですが、そのヘアースタイルを止めるか否かを巡ってシンサスと上手くやれなかったHCは結局解任され、後任のHCとも上手く行かずでシンサスはチームを離れてしまいました。フロリダ大がシンサス4年生時にNCAAトーナメントに出場していない理由、お分かりでしょうか?FG成功率.552の19.1得点9.5リバウンド2.5ブロックと化け物じみたスタッツを並べていただけに残念ですね。

http://nbadraft.net/nba_draft_history/1990.html

そんなシンサスも'90年、NBAドラフトを迎えます。7-2に達していた巨体とブロックショットのスキルを考えれば本来ならビッグマン慢性不足のNBAから期待されても良さそうなものですが、精神的な未熟さを見られたか、指名順位はカレッジ時代の成果からは低い1巡目24位でした。しかも既にデヴィッド・ロビンソンを要するスパーズの指名です。控えセンター要員にってイメージでしょうか。そして残念な事に、結果としてはそれでも高過ぎる順位指名だったのです。

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シンサスは都合8シーズンのNBAキャリアにおいて、スパーズ、キングス、ネッツ、ペイサーズ、クリッパーズ、そしてセルティクスと実に6チームを渡り歩くジャーニーマンとなりました。そしてその8シーズン全て、フル出場どころか最大43試合にしか出場出来なかったのです。キャリア平均で4割そこそこしか行かないFG成功率からは高得点を期待出来る訳も無かったのです。その原因は、あるいは新人時代に負った背中の故障だったかも知れません。

http://www.basketball-reference.com/players/s/schindw01.html

36分スタッツ換算でさえも、シンサスのNBAでのスタッツは1年目の14.3得点10.9リバウンド2.6ブロックが一番マシでしたねというレヴェル。しかし7-2のセンターがFG成功率で.450も行かないのではそりゃあジャーニーマンにもなるってもんです。センターにしては得意だったはずのFTまで自信を無くしたかのように落としてしまっていましたね。



こんな彼でしたが'96年には映画「エディー 勝利の天使」にてニックスのロシア人選手、イワン・ラドヴァドヴィッチ役で出演しています。アメリカ人なのにロシア人の役ってのがなんだか可笑しいですな。他にもマーク・ジャクソン、ロドマン、ジョン・サリー、リック・フォックス、マリク・シーリー、オスタータグ、ゲイリー・ペイトン等々なかなか懐かしい面々が出演しまくってるので、'90sNBAファンは是非探して見てみて下さい。てか主演ウーピー・ゴールドバーグなんだし1,000円とかで再発してくれりゃあいいのにこれ。アナウンサーはちゃんとマーブ・アルバートだし、試合開始前に本人の目の前でウォルト・フレイジャーの永久欠番ジャージーが焼け落ちるところとかかなり笑えますよ。

http://sports.yahoo.com/nba/blog/ball_dont_lie/post/dwayne-schintzius-got-traded-because-of-his-awesome-hair?urn=nba,wp6940


なお、彼は最初に入団したスパーズを1年で放り出されてますが、スパーズのGMだったボブ・バスはシンサスの髪型が気に入らなかったので、彼に髪をカットしろと言ったなんてエピソードもあります。結局切ったようですが、それでもシンサスはスパーズからトレードされてしまった訳ですね。あんな髪型をしていなかったら、あるいはシンサスの運命も変わって・・・ないかな、あんまり因みに私の手元にある完全NBA選手名鑑'98(ザンダー・ホランダー著/ザ・マサダ刊)にはシンサスは「シンツィウス」と表記されており、右の足首を捻挫して故障者リスト入りした旨の記述の後に「ただの捻挫で欠場ではファンも納得するまい。彼の名の由来は『背が高いが故の裕福』という意味らしい」とボロクソに書かれてますね。



シンサスは結局、'98-'99シーズンにセルティクスでプレーしたのを最後に引退。その後再起をかけて'01-'02シーズンにNBADLでプレーしています。彼が現役最後にプレーしたのはUSBLというマイナーリーグで、'03年の事でした。その後の彼が何故かウェブサイトのCMをやっている謎の映像がYouTubeにありましたのでご覧下さい。



・・・よく分かりませんがなにやってるんでしょうかね結構明るいおっさんなのが伝わってきます。1:20あたりぐらいからの軽やかな身のこなしは必見ですね。うむ、流石NBAでやってただけの事はありますな。

http://www2.tbo.com/sports/prep-sports/2010/jul/13/sp-schintzius-is-grateful-to-be-alive-ar-48053/


そんなシンサスでしたが、'09年の11月に白血病が発覚。その治療の過程で、皮肉にもシンサスの髪は抜けてしまいます。'10年1月には骨髄移植手術を受け、手術は成功したと思われましたが化学療法の過程でシンサスは苦しみました。そして2度目の骨髄移植手術が必要と判明するも時既に遅く、短い生涯を終えてしまったのです。

http://www2.tbo.com/sports/gators/2012/apr/15/13/bay-area-native-uf-star-schintzius-dead-at-43-ar-392821/


せめてもの幸いは、あんな後味の悪い形で飛び出したに近いフロリダ大の試合に、シンサスが'11年に現役時代振りに顔を出したことです。彼は来場を紹介され、トリビュート映像も流されました。シンサスが手を振ると雷のようなオヴェーションで会場が包まれたといいます。

生前シンサスはこう言っていました。

"I never knew there were so many people who cared about me."

"I went through some rough times and because of my size, I was never somebody who could hide. But you know what? You've got to enjoy every day you're on this planet."


この地球上にいる毎日を楽しまなきゃ・・・早世してしまったシンサスからの言葉だからこそ、一層胸に響きますね。大震災にフクシマにと日本の我々も大変な時を迎えていますが、これを読んでいる皆さんは2chのコピペ風に言うならば、シンサスが生きられなかった今日を生きています。シンサスの魂は残念ながら地上を離れてしまいましたが、我々は我々の毎日を大事に生きていきましょう。合掌。

※本文引用以外の参考文献
Wikipedia
スポーツレファレンス.comよりカレッジ時代スタッツ
スポーツイラストレイテッド誌HPよりバックナンバー記事再録「Much Ado About A 'do」
THE CLASSICALより「Consider the Lobster: Dwayne Schintzius and Me」
BRIGHT HOUSE SPORTS NETWORK HPより「BHSN: Local basketball star, Dwayne Schintzius dies」



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ウォルト・ハザードA.K.A.マフディー・アブドゥル=ラーマン(1942.4.15〜2011.11.18)

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http://espn.go.com/los-angeles/ncb/story/_/id/7252549/walt-hazzard-point-guard-ucla-first-title-team-dies-69
http://www.uclabruins.com/sports/m-baskbl/spec-rel/111811aaa.html

元UCLAのスター選手で、NBAではレイカーズなどでプレーしたウォルト・ハザードが亡くなりました。

・・・で、誰でしょう?

うーむ、先日のエド・マコーリーは存じ上げていたんですが、この方については正直全く知りませんでした。つー事で、浅学非才な己を恥じつつ、勉強がてら調べてみましょう。

ウォルター・ラファエル・ハザードJr.は太平洋戦争でまだ日本が攻勢に出ていた1942年4月15日、ペンシルヴァニア州フィラデルフィアに生まれました。地元フィラデルフィアのオーヴァーブルック高校にて3年の間にチームに89勝3敗、2回のフィラデルフィアでの王座をもたらしたハザードは1960年のフィラデルフィア・プレーヤー・オブ・ザ・イヤーに選出されます。しかもハザードは陸上部と野球部のキャプテンを兼任し、走り高飛びでこれまた市でのタイトルを獲得。更には生徒会長までをも務め上げたのです。スーパーマン過ぎるだろJK。

ハザードはサンタモニカ大へ一旦進学して1シーズンを過ごすと転校します。そこで向かった先こそが、彼の名声を決定付けたUCLAだったのです。既に伝説の名将となるジョン・ウッデンがこの大学のHCに就任していました。

身長6-2のハザードは加入したばかりの'61-'62シーズンから13.2得点をマークし、UCLAはチーム史上初のファイナル4入りを果たします。後に殿堂入り選手となるゲイル・グッドリッチが加わってバックコートコンビを形成した'62-'63シーズンこそ16.3得点でチームをリードしながらスウィート16で終わったものの、'63-'64シーズンにUCLAは飛躍しました。ハザードが18.6得点を挙げてチームを牽引する中でUCLAはシーズン30勝無敗、そしてトーナメント初制覇を達成。NCAA屈指の名門校UCLAと名将ジョン・ウッデンの栄光の歴史は、ハザードとグッドリッチにより初の輝きを得たと言えます。そしてこの優勝とファイナル4最優秀選手、AP選出のオールアメリカン1stチーム入り(因みに前年も2ndチーム入り)といった数々の実績を引っ提げ、ハザードはNBAへと駒を進めたのです。

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またNBA入りの前に、ハザードはアメリカ代表としてオリンピックにも出場を果たしています。その時のオリンピック会場は東京でした。決勝戦は8連勝同士での米ソ対決を73-59で制したアメリカに凱歌が上がったのです。・・・結構余裕の無い戦いしてますね、この頃から。

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http://nbadraft.net/nba_draft_history/1969.html#1964

さて、ドラフトです。1964年ドラフトにおいて、ハザードはテリトリアルピックを適用したレイカーズにより1巡目5位指名を受け、入団を果たします。はて、ハザードってフィラデルフィア出身だったと思うんですがテリトリアルピックはUCLAだからロサンゼルスなん?と思ってWikipedia読んでみたら、なるほどテリトリアルピックって出身地よりカレッジの問題なんですね。勉強になりました。

しかしながら、レイカーズでのハザードはあんまりぱっとしませんでした。入団して3シーズン、それなりに出場時間はありましたが2桁得点はUCLAのコンビだったグッドリッチがこれまたテリトリアルピックで加わった2年目のみ(なお、グッドリッチの代を最後にテリトリアルピックは廃止となりました)。3年目には再び1桁得点に戻ってしまったハザードにレイカーズも諦めがついたのか、'67年オフのエクスパンションドラフトでレイカーズはハザードのピックをガードしなかったのです。かくて、ハザードはエクスパンション・ドラフトにて新球団への移籍を果たします。向かった先は、シアトル・スーパーソニックス(現オクラホマシティ・サンダー)でした。

このくだりに関してはNBAちゃんぷる〜のソニックスヒストリーにも詳しいところです。新球団のソニックスで一挙に出場時間を得たハザードは平均24.0得点4.2リバウンド6.2アシストをマークし、なんと球団史上初のオールスター選出を果たしてしまうのです。チーム成績自体は言うまでも無くエクスパンションチームのお約束で23勝に留まりますが、少なくともハザード個人にとってはやっとNBAでの成功を得たのです。

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その当時の映像が奇跡的にYoutubeにアップされていました。ロックアウトでNBA欠乏症な貴方に贈ります。これ、完全に初見ですがかなり貴重な映像じゃないでしょうか。おお、ウォリアーズのHCはビル・シャーマンかよ!



で、これまた新設球団にありがちな事ですが、ソニックスは2年目にエクスパンションドラフトで得た成果を元手に再びトレードに動きます。即ち、オールスターに選出されて株が上がったハザードをトレードの材料としたのです。トレード内容は以下の如しでした。

ホークス←ハザード
ソニックス←レニー・ウィルキンス


このトレード、ソニックスにとっては大当たりでした。どう大当たりになっていくのかはこれまたNBAちゃんぷる〜さんのソニックスストーリーをお読み下さいね。で、ホークスは失敗した訳です。先日取り上げたマコーリーの時もそうでしたが、ホークスはこういうキーとなるトレードで得てして負け犬役を演じる事が多いですね・・・

ウィルキンスがソニックスで成功したのに対し、ハザードはホークスでやや失速してしまったのです。ホークスでの3シーズン、ハザードは毎シーズン30分以上の出場時間を得ながら11.2得点5.9アシスト→15.3得点6.8アシスト→16.5得点6.3アシストとそこそこの成績ではありましたが、オールスター級とは言い難いところに落ち着いてしまったのです。この後はバッファロー・ブレーヴス(現ロサンゼルス・クリッパーズ)へトレードされた後、2シーズン目半ばで解雇の後にウォリアーズとFA契約。更に'73年に古巣ソニックスへとトレードされ、そのシーズンを最後にキャリアを終える事となったのでした。10シーズンのキャリアで6度に渡ってアシスト部門でTOP10入りを果たしたのですから、NBA選手としても決して悪い成績では無かったと思います。

なお、彼はNBAのキャリア中にイスラム教へ改宗、名前をハザードからマフディー・アブドゥル=ラーマンへと改名しました。が、その改名の世間受けが宜しくなく、NBAキャリアに響くと感じたハザードは結局、イスラム教徒であり続けたものの、プロとしてはハザードの名前を使い続けたのです。

NBAキャリア終了後、彼はコーチングを学びます。いろんなリーグでコーチの経験を重ねた後、ハザードは'80年にはコンプトン大学のHCに就任。2シーズンの間に彼は53勝9敗とカリフォルニア州の短大チャンピオンという成果を残します。その後はオレンジ郡のチャップマン大学へ移り、ここでも2年で43勝16敗、2年ともNCAAのディヴィジョンIIプレーオフへ出場、うち1度は西地域の決勝戦まで駒を進めたのです。

かくて実績を重ねたハザードは'84年、母校UCLAに凱旋。チーム史上9代目のHCに就任したのです。その頃に作られたであろうバスケットボールのインストラクション映像がありましたので、お時間ある方はご覧になってみて下さい。UCLA繋がりでビル・ウォルトンも出てくるこのヴィデオ、合計80分ありますからかなり長いですよ〜。



結論から言ってしまえば、ハザード時代にUCLAがウッデン時代の栄光を取り戻す事は叶いませんでした。4シーズンの間にNITのチャンピオン1回、NCAAトーナメントのベスト32、それが彼の成果です。ま、NITトーナメントは一応UCLA史上初の制覇ではあったのですが。

この後はハザードはレイカーズのスカウト、スペシャルコンサルタントとして働きながら若い黒人学生の支援を行ったり、中学生の為のNPOを立ち上げるなど若者達の為に働き続けたのです。まったくあっちのアスリートはこういう事をきっちりおやりになるところが素晴らしいですな。

'84年にはハザードはUCLAのアスリート殿堂入りを果たしました。'96年には背番号42がUCLAの永久欠番となります。また'04年にはUCLAの所属するパック10の殿堂入りをも果たしたのです。

ハザードの妻は'64年、NCAAタイトルを勝ち取ったシーズンにUCLAのソングガールだった方でした。ハザードは彼女と4人の息子に恵まれた家庭を築き上げたのです。そんな家族からの、今回の訃報を受けてのメッセージは以下の通りです。

"Walt Hazzard aka Mahdi Abdul Rahman passed away this afternoon at the Ronald Reagan UCLA Medical Center surrounded by family and friends. Hazzard had been recuperating for a long period due to complications following heart surgery."

・・・いやー、きっと私が知らないだけでいろいろ成果のあるヒトなんだろうと思いましたがやっぱり一角の人物でしたね。まだまだNBAには私の知らない偉人達が溢れ返ってますな。私の知識量など所詮まだまだヒヨッ子である事を再確認しつつ、今は故人のご冥福をお祈りさせて頂きます。合掌。

P.S.

以下、小林師範より直々に頂きました追加情報です。

ハザード選手は東京オリンピックでの来日をきっかけに日本とも縁深くなった方だそうで、ピート・ニューウェルさんと共に日本の若手選手をアメリカのキャンプに呼んでくれたり、ビッグマンにトレーニングする手助けをしてくれたりしました。東洋の巨人、岡山恭崇さんがポートランド大学に留学できたのもハザードさんの人脈があって実現したのだとか。

彼のそこそこにイスラム感がある暮らし方(酒は飲まないがタバコは吸う)はアメリカに馴染む改宗徒としてはいい線行っていた様に思います、とも師範は仰ってました。

※本文引用以外の参考文献
Wikipedia
ニューヨークタイムス紙より訃報
バスケットボールリファレンス.comよりキャリアスタッツ



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“イージー・”エド・マコーリー(1928.3.22〜2011.11.8)

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http://espn.go.com/boston/nba/story/_/id/7210886/hall-famer-easy-ed-macauley-dies-83

さて、最近更新ネタが多かったためすっかり遅くなってしまいましたが、へヴィー級チャンピオンだったジョー・フレイジャー元横綱隆の里の訃報と時を同じくして、NBAのレジェンドが静かにこの世を去っていたのです。フレイジャーが67才、隆の里が59才の早世だったのに対し、実に83才まで生き続けたその選手の名前はエド・マコーリー。D誌10月号のNBA歴代ベストプレイヤーでも83位に選出されていたリーグ揺籃期のスターセンターです。

チャールズ・エドワード・マコーリーはミッキーマウスが生まれ昭和天皇が即位した1928年の3月22日、ミシシッピ州のセントルイスに生まれました。田園調布に家が建つ、と。



平成の若者を置き去りにするボケはさておき、マコーリーは地元セントルイスユニバーシティ高校(大学付属高校でしょうかね)を卒業するとそのまま1945年(太平洋戦争の終わった年ですね)セントルイス大学へ進学、アーリーエントリーなど存在しない大学生活を過ごします。そしてその4年の間、ずっと2桁得点のアヴェレージを保ったのです。

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大瀧詠一やヨネスケ、ジャパネットたかた社長といった有名人が誕生した事で知られる1948年にはNITトーナメントにでチームを優勝へ導いております。また1949年にはAP選出のプレイヤー・オブ・ザ・イヤーにも選出されたのです。

http://www.nbadraft.net/nba_draft_history/1959.html#1949


そんなマコーリーはBAAとNBLが合併して誕生したばかりのNBAになって初めての新人選手となりました。但し、この1949年のドラフトは些か特殊でした。今と異なり、この時代のドラフトにはテリトリアルピックというものが存在したのです。簡単に言えば、これは地元出身のスター選手を地元球団に入団させる為に考案されたもので、1巡目指名権を放棄する代償として地元出身選手を指名する事が出来たんですね。この制度を利用してマコーリーを指名したのがBAAから合流したセントルイス・ボンバーズという球団だったのです。

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マコーリーは新人年から16.1得点をマークする上々のデビューを飾ります。203cmという今日では考えられない背の低さで、しかしながら優れた脚力を武器として、写真のようにジョージ・マイカンのような伝説的なセンターとも戦ったのです。ところがボンバーズは26勝42敗でこのシーズンを終えると、他5チームと共に解散となってしまったのです。これらの解散チームに所属していた選手達はディスパーサル(分散、とでも訳するべきでしょうか)ドラフトにてボストン・セルティクスのピックを受けたのです。

セルティクスに加入したマコーリーの成績は向上します。20.4得点9.1リバウンド3.7アシストというオールラウンドセンター振りも去る事ながら、4割切っていたFG成功率を一気に.466まで引き上げたのは見事でした。そしてこのシーズン、NBA初のオールスターゲームが開催されます。この記念すべきゲームにマコーリーも出場、なんと20得点6リバウンドの活躍でMVPに選出されます。そう、彼こそが初代NBAオールスターMVPなんですよ。今回の逝去に伴い、ファイナルMVPが「ビル ・ラッセル・NBAファイナルMVP」と改名されたように、次のオールスターからオールスターMVPが「エド・マコーリー・NBAオールスターMVP」と改名される可能性は極めて高いのでは無いかと思う次第です。なお、マコーリーはこれから'57年まで7年連続オールスター出場を果たす事となります。



なお余談ですが、24秒クロックが導入されたのが'54-'55シーズンからでして、このシーズンのセルティクスはNBA史上初めて1試合平均100点以上を記録したチームとなっています。マコーリーは名PGクージーの助けもあって、マイカン相手にキャリアハイの46点を挙げる活躍も見せました。

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ただ、セルティクスはこの頃、マコーリーが20点9リバウンド未満ぐらいのスタッツを重ね続けていたものの、優勝にはずっと手が届きませんでした。マコーリー加入時点でHCは名将レッド・アワーバックでしたし、「ハードウッドの魔術師」ことボブ・クージーも既に在籍していました。'51-'52シーズンからはビル・シャーマン、'53-'54シーズンからはクリフ・ヘイガンといったビッグネームも加わったものの、チームはディヴィジョンファイナル進出がやっとという状況だったのです。

そんな状況が遂に劇的に打開される時がやって来たのはエルヴィス・プレスリーが「ハートブレイク・ホテル」をヒットさせ、やっと国際連合に加盟した日本で週刊新潮が創刊された1956年の事でした。セルティクスは劇的なトレードによる強化に成功したのであります。しかしながら、このトレードはマコーリーにとって誠に複雑なものでした。なぜなら彼自身がこのトレードの当事者だったからです。1956年4月30日、この日行われたトレードはかくの如しでした。

セルティクス←2位指名権(ビル・ラッセル)
セントルイス(現アトランタ)・ホークス←マコーリー、クリフ・ヘイガン


セルティクスは未来の殿堂入り選手2人、しかもうち1人はホークスの地元セントルイス出身のセンターたるマコーリーを差し出してまでラッセルを獲得したのです。実際、ラッセルがどこまでやれるか未知数だったこの時点ではホークスの取引は悪く無いように思われました。マコーリー自身も息子の体調が良くなかった事などもあって、地元に帰れるこのトレードを歓迎した事は事実です。

しかし、間もなくマコーリーは自らの立ち位置が、「NBA史上最も偉大なセンターとトレードされた選手」となってしまった事を悟るのです。ラッセルが加入したセルティクスは44勝28敗でプレーオフに入るとシラキュース・ナショナルズ(現フィラデルフィア・76ers)を3戦全勝で降し、ファイナルも4勝3敗の激戦の末に勝ち、遂にNBAチャンピオンに輝きます。その対戦相手は、皮肉にもマコーリーのいるホークスだったのです。もっとも、シーズンを34勝38敗で負け越していたホークスとしては上々の結果ではありましたが。



ホークスは翌'57-'58シーズンには41勝31敗と成績を伸ばします。ホークスにもこれまたレジェンドとなるスター選手、ボブ・ペティットがいたのです。彼らはプレーオフに入ると、まず初戦のウエスタンディヴィジョンファイナルでフォートウェイン(現デトロイト)・ピストンズを倒し、ファイナルでセルティクスと再戦を果たします。しかし、今度はホークスが借りを返す番でした。第6戦でペティットが50点を上げ、4勝2敗でホークスはセルティクスに競り勝ち、ホークスにとってもマコーリーにとっても初のチャンピオンになったのです。



ホークスは更に'58-'59シーズンにも49勝23敗と更に成績を伸ばすものの、プレーオフでは初戦のディヴィジョンファイナルでミネアポリス(現ロサンゼルス)・レイカーズに敗退。実はこのシーズン、ホークスのオーナーだったベン・ケーマーは昨季優勝を勝ち取った後の殿堂入りHC、アレックス・ハンナム/a>を解雇してこれまた後に殿堂入りHCとなるアンディ・フィリップを雇うも10試合で解雇、マコーリーにHC職に就く事を求めたのです。このためマコーリーは現役最後のこのシーズンを若干30才にして、僅か14試合の出場で引退し、HCに転職する事となりました。上記の49勝という成績は、そんなドタバタの中での成果だったのですね。

それどころか翌'59-'60シーズンにはマコーリー指揮下のホークスは46勝29敗と更に成績を伸ばします。そして今度はディヴィジョンファイナルでレイカーズを倒し、決勝で三度セルティクスとあいまみえたのです。またも激戦を繰り広げた両者でしたが、最後はセルティクスが勝ちました。当時2連覇を果たしたセルティクスはこの後も勝ちまくり、NBA史上最長の8連覇、更に準優勝1回に後にあと2回優勝を重ねル事となります。ラッセルは都合11個もの優勝リングを手にしたのです。



一方のマコーリーはこれだけの結果を残しながら、前任のHC2人同様このファイナル進出をもってホークスを去りました。しかも酷い話で、ディヴィジョンファイナルでレイカーズ相手に第5戦で敗れた時点で新HCたるポール・シーモアを雇っていたというのですね。その後2連勝してホークスはファイナルへ勝ち進み、その段になって初めてベン・ケーマーオーナーはその事をマコーリーに告げたのだそうで、そりゃマコーリーもやっとれんわってなもんです。かくてマコーリーはバスケットボールから完全に足を洗ったのであります。

マコーリーは1960年にはバスケットボールの殿堂入りを果たしております。彼の32才での殿堂入りは未だ最年少記録となっております。セルティクスでは彼の背番号22は永久欠番となっておりますし、長年過ごしてきたセントルイス市のウォーク・オブ・フェイム(殿堂の歩道、とでも訳するべきでしょうかね)にはマイルス・デイヴィスやチャック・デイリー、アイク&ティナ・ターナー、ネリーといった面々と一緒に名を連ねているのです。

マコーリーがこの世を去った自宅もまた、セントルイスにありました。マコーリーは結局、セルティクス時代も含めてずっとセントルイスに居を構え、生涯を過ごしたのです。なるほど、セントルイスでリスペクトを受けるのは当然と言えましょう。

その名前はラッセルとトレードされた選手として残り続ける事は確実ですが、マコーリー自身もまた偉大な選手の1人でありました。マイカンやラッセルといった偉大なセンターの影に隠れがちですが、若干203cmという背丈で彼らビッグセンターとも戦った大きな小型センターの事を、どうか覚えておいて下さる事を願います。合掌。



※本文引用以外の参考文献
ウィキペディア
Wikipedia
ST. LOUIS WALK OF FAME
セントルイストゥデイ.comより訃報記事
RIVERFRONT TIMES.comより追悼記事
SLAM誌HPより90号掲載インタヴュー再掲分
sports-reference.comより大学時代スタッツ
バスケットボールリファレンス.comよりキャリアスタッツ
バスケットボールリファレンス.comよりHCとしての成績
NBA.co.jpより訃報記事



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アーメン・“ザ・ハンマー”・ギリアム(1964.5.28〜2011.7.5)

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☆最近のハイライト

ルディ・フェルナンデス、レアル・マドリードからスペインリーグ史上最大の6年&年俸435万ドルの契約オファー「だが断る」(今回は)
ペイサーズ、遂にヴォーゲルが正式就任
ビーズリー、久々に大麻でやらかす

http://sports.espn.go.com/nba/news/story?id=6743008

NCAAのUNLV、そしてNBAでも活躍した往年の名フォワード、アーメン・ギリアムがピッツバーグのヘルスクラブにてピックアップゲーム中に倒れ、帰らぬ人となりました。享年47才、死因は現時点では不明です。'87年にUNLVを37勝2敗、そしてNCAAトーナメントで大学史上2度目のファイナル4に導いたギリアムはNBAでは'87年にサンズに2位指名されたのを皮切りに13シーズンでサンズ、ホーネッツ、シクサーズ、ネッツ、バックス、ジャズの6チームを渡り歩き、13.7得点6.9リバウンドというスタッツを残しました。その途中、名前をアーモンからアーメンに改名したというエピソードも伝わっています。

実は、彼はマジックの選手になりかけた事があります。10年以上前の'99オフ、あの“ハート&ハッスル”時代、マジックのキャンプに彼は名を連ねていたのです。しかし、最終的に彼はマジックのロスターに残る事は無く、ジャズでのプレーを最後にNBAからも去ったのであります。まあ当時のマジックに於いて、果たして引退寸前だった彼がどれほどのプレーを出来たのかとは思いますが、もしもそうなっていたら?とは当時も思ったりしたものでした。

ギリアムは現役引退後は'02-'05年にNCAAディヴィジョン3のペンステイト大アルトゥーナ、'05年にABAのピッツバーグ・エクスプロージョンをコーチ。また、母校UNLVでは彼の背番号35は永久欠番となっています。彼の最良の日々が大学時代にあったのは明らかではありますが、それでもなお彼はNBA選手としても一定の成功を得た選手だったと言えます。紙一重のところでマジックとは縁がありませんでしたが、早過ぎる逝去に合掌。



※参考文献
Wikipedia
バスケットボールリファレンス.comよりキャリアスタッツ



ザ・ヒッツザ・ヒッツ
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ロバート・"トラクター"・トレイラー(1977.2.1〜2011.5.11)

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http://sports.espn.go.com/nba/news/story?id=6527372

既に報じられていますが、元NBA選手だったロバート・トレイラーが34才の若さで急逝しました。先にお亡くなりになったエスカレードと言い、やはりといっては何ですがこういう体格の方は心臓発作などの形で急逝される事が少なくないようですね・・・

彼のプレーヤーとしてのキャリアはNBAより前、高校〜大学時代にハイライトがあったと言えます。何しろ彼はKG、ポール・ピアース、カーター、ロン・マーサーと同じ'95年のマクドナルド・オール・アメリカンに選出されていますからね。なお、この時KGとピアースは同じチームでプレーしていたというネタもあったりしますが。

NCAAではミシガン大へ進学、モーリス・テイラーやメイシオ・バストンとフロントコートを形成。この時点で彼の体格は身長6-8に対して体重300ポンド以上という完成形になっていました。そんなNCAAデビューイヤーに、彼はなかなかインパクト満点なダンクをぶちかましていました。



そう、リム破壊ダンクです。NCAAではなかなか見た記憶が少ないですな。ともあれこのシーズンは9.0得点5.9リバウンドをマークします。そして翌'96-'97シーズン、ミシガン大はNIT(所謂NCAAトーナメントとは別です)を制覇してトレイラー自身もトーナメントのMVPに選出され、シーズン成績も13.1得点7.7リバウンドと向上。更に翌シーズンには16.2得点10.1リバウンドという成績でチームをリードし、ビッグ10トーナメントを制してこちらでもMVPを受賞するとNCAAトーナメントでは第3シードで参戦。但しこちらは2回戦で敗退しました。

http://sports.espn.go.com/nba/news/story?id=3040936

ところが、ミシガン大のNCAA規定違反(要するにトレイラーやウェバーなど複数の選手が高校時代から金銭的援助を受けていた)が'07年になって露呈したため、彼のミシガン大時代の成績は全て抹消、上記の2つのMVPも剥奪。おまけに高校時代の'94-'95シーズンの成績までも抹消となったのです。こういった経緯のためか、ミシガン大のHPには今回のトレイラー逝去のニュースが見当たりません。流石にコメントは上記ESPNの記事などを見る限り出しているようですが。

また、同じミシガンのライヴァル、ミシガン州立大のACを当時務めていたトム・クリーン(現インディアナ大HC)はtwitterで彼への弔意を示しています。このつぶやきから暫くトレイラーの話を続けていますが、ESPNで要約した分を以下に示します。

"At Michigan State we battled against him and he might have been the most time-consuming and mind-challenging matchup we ever faced and we as coaches weren't even playing. He had great feet and hands and a very soft touch...You really had to have a plan to stop him."

ともあれ、彼は'98年のドラフトにエントリーします。1位から順にオロワカンディ、ビビー、ラフレンツ、ジェイミソン、カーターと指名が続いた後に、彼はマヴスにより6位での指名を受けました。この後の指名もジェイソン・ウィリアムズ、ヒューズと続いたこの豊作年ドラフトにあって、トレイラーはドラフト会場にてトレードされます。9位で指名された、ドイツからやってきた7フッターの若人との交換でバックス入りとなった事が、皮肉にもNBAにおいて彼のイメージを決定付けてしまいました。

ユーロ圏からのドラフトエントリー、しかもドイツからという事で多少の知名度はあったものの、ドラフトではダークホース程度のイメージだった彼、ダーク・ノヴィツキーを取ったマヴス。そして一旦彼を指名しながら放出したバックス。ノヴィツキーが徐々に真価を発揮するようになる毎にマヴスはその英断を称えられる事となりました。それはトレイラー、そして彼を獲得したバックスの評価を下げる事をも意味していたのです。



http://www.basketball-reference.com/players/t/traylro01.html

率直に申し上げれば、彼のNBAでのキャリアはドラフト6位指名という期待にそぐわないものでした。1年目こそ短縮日程の全50試合中49試合出場、43試合先発を果たしたものの5.3得点3.7リバウンド止まり。その後は先発の機会も徐々に失われていきました。NBAでの平均得点およびリバウンドが2桁に及んだシーズンは一度として無く、バックス→キャヴス→ホーネッツ(シャーロット時代1年、ニューオリンズ時代2年)→キャヴスと些かジャーニーマンな彼のNBAは7シーズンで終わりを告げたのです。因みに最後のキャヴス時代はレブロンのキャヴス時代2年目ですね。



しかし、NBAを去った後も彼はプロバスケット選手としてのキャリアを継続します。トルコ、イタリアセリエA、メキシコ、そしてプエルトリコ。'10年にはプエルトリコリーグでのディフェンシヴ・プレイヤー・オブ・ザ・イヤーを受賞したのです。そのプエルトリコでのアパートで、彼は今回倒れたのです。奥さんと通話中に発作を起こしたようで、第一通報者も奥さんだったようですね。

http://sports.espn.go.com/espn/commentary/news/story?id=6533306
http://www.slamonline.com/online/nba/2011/05/131207/

今回この記事を書くために、私にとって決して知識量の多くないトレイラーという選手について色々と調べてみましたが、彼の人柄を誉める記事が多かった印象が強いですね。特にこのESPNとSLAM誌の記事にはライターのトレイラーに対する愛情のようなものが感じられた気がします。NBAを7年で去った上位指名選手への扱いとしては上々じゃないでしょうか。実際、最後に在籍したプエルトリコのチーム、Vaqueros de Bayam���n(スペイン語。英語に直すとBayamon Cowboys)でも彼の逝去を惜しむ声は多いです。人柄、って奴でしょうか。

NBA時代はどうしてもノヴィツキーとのセットで語られていた事もあって、彼はドラフトの失敗例として語られる以外でNBAに名前を残す事は残念ながら無いでしょう。上記の金銭的援助以外にもトラブルがあったのも事実です。しかし、選手としての実績は無くとも、彼は十分に愛される素晴らしい人間だったという事が分かっただけ、私はこのエントリーを書いて良かったなと思います。

♪それぞれひとつのライフ、それぞれが選んだスタイル、とはRIP SLYMEの「One」でしたか。NBA選手として大成しなかったとしても、トレイラーは多くのものを得ていたんだな、としみじみした次第です。合掌。

※参考文献

Wikipedia
BASKETBALL-REFERENCE.comより個人スタッツ
BASKETBALL-REFERENCE.comよりトレイラー追悼記事

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トロイ・“エスカレード”・ジャクソン(1976.1.11〜2011.2.20)

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・・・昨日、SLAM誌のHPのオールスターを見ていた時偶然気付いたニュースがありました。さりげなくリンクされていた記事内容は、些か衝撃的かつ残念なものだったのです。

http://jerseychaser.com/tag/troy-escalade-jackson/

それは先日のAND1 STREET 2 ELITEでも来日、のっしのっしと歩きながらコートに立っていた巨漢、エスカレードことトロイ・ジャクソンの訃報でした。まだ35才の彼は、原因不明ながら睡眠中にお亡くなりになってしまったと報じられています。

http://www.sportingnews.com/nba/story/2011-02-21/streetballer-troy-jackson-brother-of-mark-jackson-dies-at-35
http://www.nypost.com/p/sports/more_sports/mark_jackson_brother_dies_at_mUNDL8nyp5MpkfscBumneL

彼はNBAでも長らく名PGとして活躍したマーク・ジャクソンの弟でもあります。既にもう1人の兄弟をもHIVで亡くしていた彼の心中察するに余りあります。

"He traveled all around the world and touched so many lives."He will be greatly missed. Thanks for all your thoughts and prayers. God is still good."


http://twitter.com/THE_REAL_SHAQ/status/39461926467670016

彼の他にも、エスカレードの逝去を惜しむ声はNBAから挙がっています。例えばシャックはこうツウィートしていました。

My heart goes out to Mark Jackson and his family who lost his brother last night, Escalade. We lost a great person love u escalade. I'm sad

巨漢同士、何かしら通じ合うものがあったのでしょうか。他にも未確認ですが、NBA現役・引退選手からも追悼のツウィートがあるようです。兄がマーク・ジャクソンだったのも理由ではありましょうが、NBA選手の間でもその人柄が愛されていたのではないかと思われます。

http://www.sicovers.com/Product.aspx?pid=589

プロフェッサー、メインエヴェント、ファーマシスト、ハーフマン・ハーフアメージングと共にスポーツ・イラストレイテッド誌の表紙を飾った事もある彼(私、多分この号持ってます)の逝去は本当に残念です。まさか昨年の来日が彼を日本で見られる最後のチャンスだったとは・・・

AND1での活動が有名な彼ですが、ハーレム・グローブトロッターズでも活動していました。ストリートバスケット界の文字通り巨人の逝去を今は只惜しむばかりであります。合掌。



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Pヴァイン・レコード(2011-01-06)
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ロレンゼン・ライト(1975.11.4〜2010.7.28)

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http://sports.espn.go.com/nba/news/story?id=5418167

そのヒトは、決して派手なスターではありませんでしたが、地道に頑張るバスケット選手でした。

メンフィス大学にてAP選出のオールアメリカンサードチームに選出されたビッグマンは'96年ドラフトにて7位指名でクリッパーズ入りの後3シーズンを過ごします。その後ホークスで2シーズン、グリズリーズで5シーズン、再びホークスで1シーズン+α、'07-'08シーズン中のトレードでキングス、そして'08-'09シーズンにキャヴスでプレーしたのを最後にNBAからは遠ざかっていました。

同じメンフィス大出身の先輩ペニー・ハーダウェイやエリオット・ペリー、大学は違いますがトッド・ディと共同でチャリティー活動を行ったりもしていたライトでしたが、この7/18を最後に消息を絶っていました。家族が捜索願を出したのが7/22。そして7/28になって、メンフィスのダウンタウンから南へ15マイル下った森林地帯にて発見された身元不明の亡骸が彼であると分かったのです。彼の逝去にペニーは涙し、「ただ悲しいよ。我々は良き人、良き兄弟を失ったんだ」と語りました。人の最期にあたって悪く言われる事などそうそうあるものじゃありませんが、彼もまたその逝去を惜しまれる人格者だったよえです。

NBAでの通算成績は8.0得点6.4リバウンド。コアなNBAファンでも彼について多くを語るのは容易く無いはずですが、控えPF・Cとしては気になる存在であり続けたと思います。NBA史に大きな足跡を残した訳ではありませんでしたが、堅実なキャリアを送ったと言えるビッグマンの早過ぎる生涯の終幕に、合掌。

R.I.P.Lorenzen


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この文を書きたる者
ペニー
六伍壱 ◆MAGICcvM2E
昔の名前はセントトーマスこと 「NBA MAGICAL INSIDE」 (現在更新停止)管理人、 2chマジックスレ は最近はご無沙汰。シャック&ペニー時代からマジックを追っかける'90s世代NBAファンです。耳寄り情報・ご要望・リクエスト・リンク希望・ツッコミetcはmagicalinside651@gmail.comまでドゾー。twitterにもおりますので「六伍壱」で検索してみて下さい。
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