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新・栄光無き天才たち

新・栄光無き天才たち 8 ラトレル・スプリーウェル〜ハードウッドの暴走スーパーカー〜(後編)

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一時はNBAに戻る事すら不可能かと思われたスプリーのキャリアは、スプリー自身の異議申し立てによる調停の結果何とか救われました。無期限出場停止処分が68試合の出場停止へと緩められ、無効とされた彼のNBA契約も元通りとなったのです。68試合とはスプリーがこの'97-'98シーズンに既に14試合出場を果たしていたため、残り68試合の出場を停止したものであって、要するにシーズン全休を命じられた訳ですね。この68試合出場停止というのは、コート上での事件を原因とする出場停止処分としてはNBA最長記録となります。スプリーに不名誉な勲章が加わってしまった訳です。それでも、NBAに戻れる訳ですから全然OKでしょう。

ただ、このシーズンが終わってもなお、スプリーがNBAのコートに立つ機会はすぐには訪れませんでした。それはスプリー自身の問題ではなく、ロックアウトが原因だったのです。時は正に労使交渉が決裂し、シーズン消失が噂されていた'98-'99シーズン。イレギュラーな形でスプリーの復帰は更に延長されました。

そして遂にロックアウトが終わり、50試合に短縮された'98-'99シーズンが始まる段になります。しかしながら、あれほどの事件を起こしたスプリーがウォリアーズにそのまま戻れるはずもありません。スプリーには新天地が必要でした。そんなウォリアーズのトレード相手となったのがニックスだったのです。テリー・カミングス、クリス・ミルズ、そして「ニューヨークの魂」と謳われた熱い男、ジョン・スタークスとの1対3トレードで、スプリーはシスコからNYCへの劇的な移籍を果たしたのです。そしてコンヴァースとの契約を失ったスプリーは、新興ブランドAND1のバッシュを履く事となります。

しかしながら、ニックスには既にアラン・ヒューストンという先発SGがいました。しかも出場停止以来の大ブランクもあります。結果、スプリーは彼のキャリアにおいて唯一、このシーズンだけはほぼベンチスタートでの起用となったのです。37試合中先発は僅か4試合、40分近かった出場時間も33.3分にダウン。それでもユーイングに次ぐチーム2位の16.4得点を挙げていたのは立派なものですが。

しかしながら、ニックスのこのシーズン成績は決して良いものではありませんでした。ヒート、ペイサーズ、マジックの3チームが首位を争うイーストにあってニックスはかろうじて勝ち越すのがやっとの成績。やっと27勝23敗で勝ち越し、シャーロット(現ニューオリンズ)・ホーネッツと1ゲーム差という僅差を制してイースト8位でプレーオフに滑り込んだのです。ところが、この8位というのがニックスにはラッキーでした。東の第1シードはニックス不倶戴天の敵、マイアミ・ヒートだったのです。

'96-'97シーズン、ニックスのHCだったパット・ライリーが'95年にニックスHCを辞してヒートHC/GMに就任して以来、ニックスとヒートのライヴァル関係は一気にヒートアップします。ニックスはライリー辞任後、あのドン・ネルソンをHCに据えるもシーズン途中で辞任、代わってライリー時代からのACだったジェフ・ヴァンガンディがHCに昇格していました。そしてニックスとヒートは、'96年からプレーオフで毎年のように、どころか毎年対決を繰り広げたのです。この経緯については「栄光無き〜」のユーイング「新・栄光無き〜」のラリー・ジョンソンの際にも触れた通りですね。

そんな因縁の両チームが、2年連続1stラウンドでぶつかったのです。前年も第7シードだったニックスが第2シードのヒートを3勝2敗(当時の1stラウンドは5試合)で下しており、第1シード対第8シードと言えども全く関係無い戦いであると、ニックスとヒートの両方が正確に理解していました。

第1戦、ニックスはアウェーで95-75という衝撃の圧勝で早くもホームコートアドヴァンテージを強奪します。ヒートも負けじと第2戦を83-73で取ったものの、第3戦でホームへ戻ったニックスが97-73とまたしても圧勝し早くも王手をかけます。このままニックスが地元で一気に決めるかと思われた第4戦は87-72でヒートが踏み止まって逆王手。両者の決戦は、3年連続最終戦に持ち込まれたのです。そして第5戦は最後まで縺れ続ける大熱戦の末、ニックスがヒューストンのブザービーターで制したのです。NBA史上2度目となる、第8シードによる第1シード撃破の瞬間でした。



このシリーズ、続くカンファレンスセミファイナルでホークスをあっさり4タテで降す間もスプリーは引き続きベンチスタートでした。そしてカンファレンスファイナルの対戦相手はこれまたニックスの宿敵だったペイサーズ。ここで、転機が生じます。アキレス腱の故障と戦いながらもここまでコートに立ち続けてきたユーイングが、遂に第3戦より欠場を余儀無くされたのです。

ここまでニックスはチャーリー・ウォード、ヒューストン、ラリー・ジョンソン、カート・トーマスとユーイングを先発に立てていました。LJが劇的な4ポイントプレーを決めた第3戦、ヴァンガンディはユーイングに代わってクリス・ダドリーを先発Cに昇格させ、実際にはベンチから出場のマーカス・キャンビーをより長時間起用してこの第3戦を勝利します。そして第4戦、ニックスは更に先発メンバーを変更。カート・トーマスと交代でスプリーを先発へと昇格させたのです。これ以降、ニックスはシリーズをウォード、ヒューストン、スプリー、LJ、ダドリーという先発ラインアップで戦う事となります。

2勝2敗で臨んだ第5戦、スプリーは一気に約45分もの出場時間を得て29得点5リバウンド3アシストを叩き出します。ベンチからのキャンビーも21得点13リバウンド6ブロックと大爆発したこの試合でニックスは101-94と王手をかけ、第6戦も90-82で勝利。ここに、NBA史上初となる第8シードからのファイナル進出が実現したのでした。スーツ姿のユーイングと、喜びに打ち震えながらボールを投げ上げるスプリー、真っ先にヴァンガンディHCと抱き合うヒューストン、そして喜び合うチームメイト達の上に飛び乗るキャンビー。それは今にして思えば、ニックスの主役が完全に交代した瞬間だったと言えるでしょう。



そしてファイナルの相手はサンアントニオ・スパーズ。ダンカンとデヴィッド・ロビンソンというツインタワーに相対するには、ニックスのインサイドは非常に小粒でした。何しろダドリーは本来ブロックショットしか売りが無い控えセンター、先発PFのLJは6-7という背の低さです。大ヴェテランのハーブ・ウィリアムズに多くは望めず、後はキャンビーとカート・トーマスだけがニックスインサイドの頼みの綱だったのです。いかにここまでミラクルを演じてきたニックスとはいえ、流石にこれは相性が悪過ぎるように思われました。



実際、ファイナル開始早々ニックスはサンアントニオで連敗という苦しいスタートとなります。ニューヨークに戻ってキャンビーを先発Cに起用した第3戦はヒューストン34得点の活躍でようやく取ったものの、第4戦も敗戦してニックスは崖っ淵に追い込まれたのです。スパーズのツインタワーは、文字通りニックスにとって高い壁であり続けました。

そして運命の第5戦、ミラクルを信じるニューヨークの大観衆の声援を背にニックス、そしてスプリーは諦める事無く戦い続けました。誰よりも多くショットを放ち続け、最後まで勝利を信じて戦い続けたのです。



http://www.basketball-reference.com/boxscores/199906250NYK.html

そして77-78となった最後の場面、ゴールへ走りこみながら受け取るはずだったボールはゴール下へ入り過ぎました。スプリーがシュートを放とうにもスパーズのディフェンスが彼を取り囲みます。何とかゴール左へ抜け出し、ツインタワーに阻まれながらかろうじて放ったジャンパーはリムに当たる事さえなく外れ、ここにニックスのミラクルランは終わりを告げたのです。35得点10リバウンド、それがこの試合でのスプリーのスタッツでした。

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ともあれこの劇的なファイナル進出をもって、スプリーは首絞め事件の汚名を濯ぎました。SLAM誌はスプリーを表紙にし、「いかにして彼はNBAを救ったか」という見出しを持ってきたのです。実際ロックアウトとマイケル・ジョーダン引退によるダメージが危惧されたNBAをミラクルニックスが盛り上げた事は否定出来ない事実でありました。



AND1によるこの挑発的なCMも、こうなると大成功です。AND1は「ラトレル・スプリーウェルの誇り高いサポーター―――人気が出る更に前から」といい感じに調子に乗ったキャッチコピーで広告を打ちまくりました。カーターのダンクコンテストで一躍大ブレイクを果たす前のAND1人気の先駆けはここにあったんですね。

ともあれ、ニックスファンの心を完全に掴んだスプリーはヒューストンと共にスタークス&ユーイングに代わるニックスの看板選手となっていきます。翌シーズンからは完全に先発SFに定着、ヒューストンと共にチームの得点源1-2パンチとして活躍しました。ウォリアーズ時代から変わらない速攻からのボースハンドダンクはニックスファンの新たな楽しみとなったのです。

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カンファレンスファイナルまで再び勝ち進んだ2000年には5年の契約延長を果たし、2001年には通算4回目となるオールスター出場。またキャリアハイとなる49得点をマークしたのも2001年です。スプリーはこの頃、完全にリーグ有数のスター選手のステータスを回復したといえます。



ただ、ニックスは2000年のユーイング退団後徐々に成績を降下させていきました。スプリーと中の良いクリス・ウェバー移籍の噂もあったものの実現する事は無く、一方でLJが引退、チーム内の親友キャンビーがマクダイス等との交換でナゲッツへとトレードされるなど、徐々にミラクルニックスは解体されていきました。



そしてスプリー自身もまた、NBA記録となる失敗無しでの3ポイント成功数9本という記録を置き土産として、ニックスを去る時が来ました。2003年7月23日、ホークスとシクサーズを交えた四角トレードの末にスプリーが向かった新所属先は、ミネソタ・ティンバーウルヴスだったのです。NBA最高のPFの1人だったケヴィン・ガーネットを擁しながらも、強豪ひしめくウエストにあってウルヴスは50勝を挙げながら1stラウンドでの敗退を重ね続けていました。'96年から実に7年連続の1stラウンド敗退という蹉跌の日々から脱出する為、ウルヴスは勝負に出たのです。

スプリーの4日後にサム・キャセールもトレードで加わり、ウルヴスはキャセール、スプリーにKGというビッグ3体制を構築。今ひとつ突き抜けられなかった強豪ウルヴスは一気に飛躍を遂げたのです。チーム史上最高となる58勝をマークしたウルヴスは一躍ウエスト1位&KG初のシーズンMVPという成果を携えてプレーオフへ突入します。

1stラウンドではカーメロ、そして親友キャンビーを擁するナゲッツに4勝1敗とし、遂にウルヴスは長年突破出来なかった1stラウンドの壁を突破します。続くカンファレンスセミファイナルの相手はまたも親友ウェバー(KGにとってもウェバーは親しい間柄でした)率いるキングス。流石に長年シャック&コービーの常勝レイカーズを脅かしてきた強豪だけあり、両者の戦いは最終戦まで縺れ込みます。



この大熱戦、実はKGの誕生日でもありました。こんな日に負けられないとばかり、KGは32得点21リバウンド4スティール5ブロックという凄まじいスタッツを叩き出します。それでもなお、試合は最後まで分かりませんでした。キングスの試合終盤3点差を追っての猛攻を必死で凌ぐウルヴス。残り2.5秒からウェバーの放った3ポイントが外れ、ウェバーがガックリとコート上に崩れ落ちると共に、ウルヴスのカンファレンスファイナル進出が決まったのでありました。スプリーにとってこれが3度目の、そして最後のカンファレンスファイナルとなったのです。



残念ながらカンファレンスファイナルではビッグ3の奮闘も空しく、シャック&コービーにペイトンとカール・マローンまでもが加わったレイカーズの前に2勝4敗で敗れ去ります。とはいえこの成果を叩き出したウルヴスは当面安泰かと思われました。ところが、ウルヴスのビッグ3体制は翌シーズンにはあっさり弱ってしまいました。

先にスプリーがニックスとかわした契約は'04-'05シーズンをもって終わろうとしていました。そんなスプリーにウルヴスは3年2100万ドルとそれまでより低い年俸となる契約をオファーしたのですが、スプリーはこれを拒みます。その時スプリーが公の場で吐いたコメントがこれでした。このヒト、またしてもブチ切れちゃったんですね。

"I have a family to feed ... If Glen Taylor wants to see my family fed, he better cough up some money. Otherwise, you're going to see these kids in one of those Sally Struthers commercials soon."


かくて、スプリーは再契約もままならない中でフラストレーションを抱えながらプレー、それが影響したかのようにチームのモチヴェーションもダウン。チーム成績までも一気に44勝にダウンしてプレーオフすら逃してしまうのです。この事について後にKGはウルヴスのオーナー、グレン・テイラーが再契約の金額を惜しんだ為に良いチームが台無しになった、といった趣旨の批判を行っています。

ともあれ、この'04-'05シーズンを最後にスプリーはFAとなります。しかしながら、35才になろうとするスプリーにオファーをするチームは現れなかったのです。ナゲッツ、キャヴス、ロケッツは興味を示したとされるものの実際のオファーには結び付きませんでした。その後も「最低保証額でプレーするぐらいなら引退する。金には困っていない」などとウルヴスのオファーを断った時と正反対の強がりコメントを出したりしながら機会を伺いましたが、そんなスプリーが望むようなオファーをするチームはありませんでした。

'05-'06シーズン始めにはレイカーズとの話があったとも言われてます。また2006年3月にはプレーオフへ向けての補強を目論むマヴスとスパーズからコンタクトがあったものの、スプリーがまともに連絡を取らずに話は無くなりました。2006年といえばマヴスがファイナル進出を果たした年だったんですけどね・・・。もしマヴスに入っていればファイナルで宿敵ヒートとの対戦だっただけに残念です。かくて、スプリーがNBAの舞台に戻る事は最早無かったのです。

その後のスプリーに関する情報はトラブルばかりでした。2006年8月には21才の女性との性行為中に(よりにもよって)首を絞めたとしてミルウォーキー市警に取調べを受ける羽目になります。2007年1月には大学時代からの妻との離婚のため、子供4人の養育費を請求される事となります。

http://sports.espn.go.com/nba/news/story?id=3241444

その支払いが出来ない為に、スプリーが所有していたヨットが売りに出された話は大きく報じられました。ミルウォーキーの邸宅やニューヨークのウェストチェスターに所有していたマンションも抵当に入るなど、何であの時ウルヴスのオファーを断ったのこのヒトと言わざるを得ないようなニュースがその後も続いたのです。これは養育費だけの問題ではなく、そもそもスプリーが車好きでモータースポーツ方面にお金を浪費していた事も原因のひとつだったようですね。そう言えば、AND1の後でスプリーが契約したシューズ、DADAのシグニチャーモデルには車輪が回転するモデルが存在していました。

実のところ、その後スプリーの消息は途絶えています。NBA以外の場での復帰も無ければコーチをするでもなく、何か新たなビジネスを始めたという情報も無いのです。ただ、ウィスコンシン州にて彼が納税滞納額No.1という情報がありますので、生活には苦労しているんじゃないでしょうか。親友ウェバーやキャンビーに頼ったりとかしているのでしょうかね。かなーり心配なので、そろそろSLAM誌あたりのインタヴューを期待したいところです。

今やすっかり音沙汰無くなってしまいましたが、'90〜'00年代NBAにおいて最もエキサイティングな選手の1人として、スプリーの名前は絶対に外す事は出来ません。いつかまた彼が、元気な姿を公の場に見せてくれる事を信じたいと思います。



※本文引用以外の参考文献
ウィキペディア
Wikipedia
Answers.comよりスプリーウェル記事
encyclopedia.com
ESPNクラシックより「Sprewell's Image Remains in a Chokehold」
CBS SPORTS.comより「Report: Sonics set to make Spurs assistant Carlesimo coach」
スポーツ・イラストレイテッド誌HPより「Centre Of The Storm」('97年12月15日号)再録
wineandbowties.comより「ALL CHOKED UP: THE PARABLE OF LATRELL SPREWELL」
サンフランシスコ・クロニクル紙より「Captain Spree should remain a landlubber」
databasebasketball.comよりキャリアスタッツ
バスケットボールリファレンス.comよりキャリアスタッツ

※チーム成績もバスケットボールリファレンス.comを参考にしました。



マクファーレンNBAシリーズ3【ラトレル スプリーウェル】 (ニックス/ホワイト) / Latrell Sprewell
マクファーレンNBAシリーズ3【ラトレル スプリーウェル】 (ニックス/ホワイト) / Latrell Sprewell
マクファーレントイズ NBAフィギュア/コレクターズクラブ限定/ラトレル・スプリーウェル/ミネソタ・ティンバーウルブズ
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新・栄光無き天才たち 8 ラトレル・スプリーウェル〜ハードウッドの暴走スーパーカー〜(前編)

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暴力はいけないですよねーボーリョクは。・・・あ、すいませんうっかり画像間違えました。

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一時的な感情に身を任せる事はあまり人生において良い結果をもたらしません。電車でちょっとぶつかったぐらいでケンカしたり、ムカつく上司だからってブチ切れて「うるさいんじゃこのハゲ」とか口走ってしまったりした結果、職を失ったり網走(仮)へ左遷させられたりする訳ですよ。皆さーん、大人の余裕を持ちましょう。子供のキミもそこんとこ注意ねー。ストレス発散はゲームとかスポーツとかでやっといて下さい。

今回はしかし、そのスポーツの世界で2度ばかりブチ切れてしまい、人生山あり谷ありを地で行ったスーパーアスリートを取り上げたいと思います。永久追放の危機からかろうじて甦り、ロックアウト明けのNBAに一筋の光明をもたらした反逆のスピードスター、ラトレル・スプリーウェルです。

ラトレル・フォンテーン・スプリーウェルは1970年9月8日、ミルウォーキー州ウィスコンシンに、3兄弟仲の次男として生を受けました。スプリーウェルが生まれてすぐ、一家はミシガン州フリントへと引っ越します。そしてスプリーウェルが高校生の時に両親は離婚、スプリーウェルは母と共にミルウォーキーへ戻ったのです。この離婚がスプリーウェルにとってNBA選手への道を行く最初の転機となりました。

スプリーウェルをバスケットボールへ誘ったのはスプリーウェルの転校先、ワシントン高校でバスケットボール部のコーチをしていたジェームズ・ゴードンでした。彼はたまたまスプリーウェルを見かけて声を掛けたのです。この時点まで、スプリーウェルはバスケットボールをチームでキッチリ組織的にプレーした事はありませんでした。しかしながらゴードンの見立ては正しく、スプリーウェルはワシントン高校で平均28得点を叩き出したのです。

とはいえバスケ経験の少なさ故にスプリーウェルをリクルートする大学は多くなく、結局スプリーウェルはスリー・リヴァース短大へと進学します。ここで2年プレーする間に研鑽を重ねたスプリーウェルは2年連続FG成功率50%超、そして16.5得点→26.6得点と成績を向上。更にディフェンス能力に磨きをかけ、2年目には2.3スティールをもマークしたのです。



この実績を認められて、スプリーウェルはアラバマ大学への転校を果たします。ロバート・オーリー、ジェイソン・キャフィー、ジェームズ・ロビンソンといった未来のNBA選手達とチームメイトとなったスプリーウェルは3年生時には8.9得点だったアヴェレージは4年生時に17.8得点まで上がり、同時に1.8スティールも記録。カレッジの世界でも実力を証明したスプリーウェルは、そのバスケ経験の少なさからは考えられないスピードで実力を伸ばし、遂にNBAに手が届くところまで来たのです。



http://nbadraft.net/nba_draft_history/1992.html

シャック、モーニング、レイトナーがTOP3指名を受けた'92ドラフトにおいて、スプリーウェルはアラバマ大のチームメイト、オーリー(11位指名)よりも下、24位でウォリアーズの指名を受けます。しかしながら、この順位でもなおスプリーウェルの指名はサプライズとされました。この段階で指名されていなかった選手にはP.J.ブラウンやショーン・ルックス、マット・ガイガーといった後にそこそこの実績を残したビッグマンが残っており、ウォリアーズは当然彼らをピックに行くものと思われていたからです。解説のヒュービー・ブラウンも実際ピック寸前にブラウンとルックスの名前を挙げてますね。

この動画にはっきりと出てますが、スプリーウェルの強みは無尽蔵のスタミナとディフェンス能力、弱点はシュートの安定性とローテーションチェンジ(これが出てくるあたりは経験の少なさですね)と看做されていました。やはり、彼のバスケ経験の少なさはドラフト時点の評価でも響いていた訳です。結果、同じSGポジションの選手でもジム・ジャクソン(4位)、トッド・デイ(8位)、ブライアント・スティス(13位)、マリク・シーリー(14位)、アンソニー・ピーラー(15位)、ダグ・クリスティ(17位)、ヒューバート・デイヴィス(20位)、ジョン・バリー(21位)といった選手達の後塵を拝する格好となりました。しかも、この1巡目下位指名でもなお、スプリーウェルを選んだドン・ネルソンの選択には疑問を呈する声が多かったのが現実でした。

しかし、いざ蓋を開けてみればスプリーウェルは故障者相次ぐウォリアーズにおいて1年目から77試合中69試合で先発を務め、いきなりキャリアハイとなる.464のFG成功率をマーク。爆発的な運動能力を発揮して15.4得点3.5リバウンド3.8アシスト1.6スティールと驚くほどのオールラウンド振りを開花、3ポイントまでも.369の確率で沈めてみせたのです。RUN-TMCから既にリッチモンドが去って1シーズン経過したこのタイミングで、ウォリアーズはリッチモンドに代わり得る逸材を得たのであります。かくてスプリーウェルはこの年のオールルーキー2ndチーム入りを果たしました。ドン・ネルソンの正しさが証明されたのです。

NBAに入ってスプリーという愛称を得たスプリーウェルは更に飛躍を遂げます。ドラフト1位選手のクリス・ウェバーが加わった2年目'93-'94シーズンには82試合全てに出場して平均43.1分もの出場時間を得て平均得点を20点台に乗せる21.0得点でチームのトップに立ちました。そして4.9リバウンド4.7アシスト2.2スティールとオールラウンド振りを更にアップし、2年目にして早くもオールスター選出を果たしたのです。なお、スプリーはウォリアーズでこのあと'95・'97年と都合3回のオールスター出場を果たします。また、オールディフェンシヴ2ndチームにも選ばれたのです。そしてウォリアーズも50勝を挙げ、プレーオフ進出を果たします。1stラウンドでサンズに3連敗という結果ではありましたが、チャールズ・バークリー相手にトラッシュトークをぶちかますスプリーの闘争心の高さはちょっと尋常じゃ無いですね。



しかしながら、肝心のウェバーとドン・ネルソンHCの折り合いが悪くなった為にウェバーはウォリアーズを僅か1年で飛び出してしまいました。結果ウォリアーズの成績は一気にダウンし、ネルソン自身も翌シーズン半ばにウォリアーズを去る事となってしまったのです。なお、スプリーとウェバーはその1年の間に親友となり、この後も対戦後には一緒に出かける程の仲となるのです。

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ウェバーが去った後、低迷するウォリアーズでスプリーはティム・ハーダウェイ、マリンと共に奮闘し続けます。'95-'96年には再びドラフト1位指名でジョー・スミスを獲得しますが、名将リック・エイデルマンをもってしても勝ち越す事は出来ませんでした。ただ、スプリー自身は上記のようにオールスター出場、そしてコンヴァースとのシューズ契約とCM出演を果たします。



'96-'97年にはティム・ハーダウェイがヒートへ、先発センターとして計算出来る存在になっていたロニー・サイカリーがマジックへと移籍し、更にスプリーに負担がのしかかりました。このシーズン、スプリーはキャリアハイの24.2得点6.3アシスト、そして4.6リバウンドをマークしています。それでもチームは30勝しか出来ず、エイデルマンもまたHC職を去る事となります。彼に代わってウォリアーズの新HCとなったのが、ピーター.J.カーリシモだったのです。

カーリシモはNCAAのセットン・ホール大で「コーチ・オブ・ザ・センチュリー」とまで言われたコーチであり、'88年には初めてセットン・ホール大をNCAAトーナメントへ導きました。そして翌'89年にはNCAAトーナメント決勝戦でミシガン大とオーヴァータイムまで縺れる激闘を演じていたのです。これらの実績を評価され、カーリシモは'90年の世界選手権代表ではコーチKことマイク・シャシェフスキーHCのアシスタントとして、そして'92年のドリームチームではマイク・シャシェフスキーと共にチャック・デイリーHCのアシスタントとして参加していたのです。

そしてNBAでは'94年に、リック・エイデルマンに代わってブレーザーズのHCに抜擢。チームを3季連続プレーオフに導いたものの1stラウンドを突破出来ず、ブレーザーズを去る事となりました。そして間を空けず、またしてもエイデルマンの後任としてウォリアーズのHC職に就いた訳です。しかしながらブレーザーズ時代に既にカーリシモには、選手とのコミュニケーション能力について疑問が持たれていました。カーリシモはNCAAで学生を叱り飛ばすのと同じように、NBAでも選手達にキツく当たっていたのです。カーリシモの暴言がNBA選手達の不興を買い、ブレーザーズを去る原因の一つとなっていた事をウォリアーズが把握していたのか、疑問の残るところです。

'97-'98シーズン、ウォリアーズはクリス・マリンまでもが去り、チームは更に弱体化していました。チームは1勝13敗、しかもその1勝もこの年20勝止まりだったマヴス相手に延長でようやくの白星という惨状で、序盤戦から豪快に沈没していたのです。こんな状態でチームの雰囲気が良いはずは無く、カーリシモも選手達もカリカリ来るのは当然です。そしてスプリーはカーリシモが選手を大人扱いしていないという不満が積もっていました。それが練習場で、遂に爆発してしまったのです。



'97年12月1日、チーム練習中にその事件は起きました。もっとてきぱきパスをしろというカーリシモに対してスプリーは言い返し、カーリシモに近付くなと警告しました。しかし、カーリシモも引きませんでした。彼はむしろスプリーに近付いていったのです。カーリシモは暴言癖が過ぎて「出て行け」と何度も言い放っていたようです。この時、バークリー相手でも食ってかかるスプリーの闘争心が裏目に出てしまいました。

スプリーは「ぶっ殺すぞ」と脅しながらカーリシモを地面に押し倒し、カーリシモの喉を10〜15秒締め付けたのです。他の選手がスプリーをようやく引き離したものの、20分ほどするとスプリーは再びコートに戻り、今度はカーリシモに殴りかかりました。パンチはカーリシモをかすめ、再びスプリーは他の選手によって引き離されました。

実はスプリーにとっては、これは初めての暴力沙汰ではありませんでした。スプリーは'93年には自分より50ポンドもウェイトがあるバイロン・ヒューストンにパンチを見舞っていましたし、'95年にはチームメイトだったジェローム・カーシーと揉め、練習に戻った時には銃(の入ってそうな箱)をちらつかせて脅した、と言われています。

しかしながら、今度ばかりは悪質さが際立っていました。HCの首を絞め、しかもわざわざもう一度殴りに戻っているのです。ウォリアーズはスプリーを10日間無給の出場停止処分とし、翌日にはスプリーの残り3年2370万ドルの契約を無効とします。更にNBAからは1年の出場停止処分が命じられたのです。

また、この事件の結果スプリーはコンヴァースとの契約を失います。こんな事件を起こしてしまって、今更ウォリアーズに戻る事も絶望的。おまけにこの出場停止処分中に無謀な運転で2人が怪我をする事故の原因を作り、3ヶ月の自宅謹慎を命じられるという羽目にまで陥ったのです。3度のオールスター出場を誇ったスター選手から全てを失ったスプリーの前途はこの時、完全に閉ざされたかに思われたのでした。

(以下、後編へ続く)





ゴールデンステート、ウォリアーズキャップ、NBA.バスケットボールキャップ
ゴールデンステート、ウォリアーズキャップ、NBA.バスケットボールキャップ

新・栄光無き天才たち 7 ケヴィン・ジョンソン〜コート上の司令塔から市制の指導者へ〜

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先頭に立って物事を解決しようとするリーダーって素敵やん?と思う訳です。いや、その元芸人についてはさておき。マイク・ハガー宜しく市長自ら誘拐された娘を取り戻しに悪の組織に殴り込みをかけるなんて事は人生なかなか無いと思うんですが、何もしない、ないししてる振りだけで私腹を肥やすだけとか、公共工事の仕事を身内に振って大儲けとか、まあ政治家と言われる方々ってそんなのばっかりでしょ?まあそこで絶望しててもしょうがないんで、私は毎回意地でも選挙行くんですけどね。

そんな中、NBA現役時代には自らゴールへ突っ込む事を恐れずアタックし、ビッグマン相手だろうとボールを叩き込む事を厭わなかったある偉大なPGが、今政治の道に足を踏み入れ、現役時代と変わらぬアグレッシヴさをもって生まれ故郷の為に奔走しています。ある意味理想のリーダーとさえ言えるそんな漢を今回は取り上げましょう。バークリーと共にマイケル・ジョーダン&ブルズに立ち向かった名PG、ケヴィン・ジョンソンです。

ケヴィン・モーリス・ジョンソン(以下KJ)は1966年3月4日、カリフォルニア州サクラメントの出身です。早くに父を水難事故で失った彼は祖父母に育てられました。そんなKJはサクラメント高校で野球とバスケットボール、2つのスポーツで頭角を現します。そして進学した先はカリフォルニア大学バークレー校。KJはここで、バスケットボールを選びます。

http://www.sports-reference.com/cbb/players/j/johnske02.html

KJは4年間を大学で過ごし、徐々に成績をアップさせていきます。4年生となった'86-'87シーズンにはFG成功率.471で17.2得点3.9リバウンド5.0アシストをマークして見せたのです。KJ加入後2年は負け越しシーズンを過ごしていたチームも、KJが3・4年生となった2シーズンは19勝10敗、20勝15敗と勝ち越しチームとなります。またKJは所属するPAC-10カンファレンスで初めてトリプルダブルをマーク。カンファレンスの1stチームにも2年連続で選出されます。アシスト、スティール、そして今は記録更新されましたが得点で大学のスタッツリーダーとなったKJの背番号11は永久欠番となったのです。

一方でKJは在学中に、MLBのオークランド・アスレチックスのドラフト指名を受けます。KJは夏の間にアスレチックス傘下のマイナーリーグチームでプレーしていました。しかし、NBAのスカウトに「気味の未来はバスケットボールにある」とアドヴァイス(ないしは説得)を受け、遂に完全にバスケットボールに専念する道を選びます。かくてKJはNBAドラフトにエントリーしたのです。



http://nbadraft.net/nba_draft_history/1989.html#1987

かくてKJは1987年ドラフト、ケニー・スミスの直後となる7位でドラフト指名を受けます。サクラメント・キングスは地元のスター、KJをスルーしてケニー・スミスを指名した訳ですね。そしてKJを指名した球団はPG指名に定評のあるクリーヴランド・キャヴスでした。

ただ、キャヴスは彼にとってあまり良い行き先だったとは言えなかったでしょう。何故なら当時、キャヴスはマーク・プライスがキャリア2年目を迎えて、キャヴスで花開かんとしていたからです。2年目に入ってNBAの水に慣れてきたプライスと、新人KJの競争はプライスに軍配が上がり、KJは結局、キャヴスで52試合中3試合に先発したのみで、シーズン半ばにトレードされてしまったのです。ラリー・ナンス、マイク・サンダース、将来の指名権との交換で、マーク・ウエスト、タイロン・コービン、'88年ドラフト指名権とKJがセットにされて向かった先こそが、KJ運命の球団、フェニックス・サンズだったのです。

新天地でKJは遂に真の実力を開花させ始めます。4月には遅まきながらのルーキー・オブ・ザ・マンスを受賞したKJのスタッツは7.3得点1.4リバウンド3.7アシストから12.6得点4.3リバウンド8.7アシストと激増します。KJはNBA1年目からのトレード移籍という試練をむしろキャリアの転機とし、一気にスター街道を歩み始めたのです。

'88-'89シーズンにはKJは完全にサンズの先発PGとなり、トム・チェンバース、エディー・ジョンソンと共に平均得点20点オーヴァーでチームを牽引。アシストも一気に12.2まで伸ばし、リーグ屈指のオフェンシヴPGとなってこのシーズンのMIPに選出。そしてこの年、KJとセットで引っ張ってきた指名権を使ってサンズが指名した選手がダン・マーリーでありました。マーリーはまだ実力を出し切れていなかったものの、サンズは前年の28勝から55勝まで飛躍的に成績を伸ばし、ポストシーズンでもカンファレンスファイナルまで勝ち進んだのです。




KJはこのシーズン含め3季連続20得点10アシスト越えをマークし、'91-'92シーズンも19.7得点10.7アシストとほぼ20-10を達成。その間サンズもまたウエストの強豪として50勝越えシーズンを続けていました。しかし、ポストシーズンでは2年連続のカンファレンスファイナル敗退、1stラウンド敗退、そしてカンファレンスセミファイナル敗退ともう一つ突き抜けられない状況が続きます。KJ個人は'90年・'91年と続けてオールスター選出され、オールNBA2ndチームの常連ともなっていましたが、チームのエースだったチェンバースの衰えも明らかでした。KJやホーナセックがチームの得点リーダーという状況が続いていたのです。

そこでサンズは大博打を打ちました。それこそが即ち、優勝出来る球団への移籍を求めていたチャールズ・バークリーのトレード獲得です。ジェフ・ホーナセック、ティム・ペリー、そしてアンドリュー・ラングを放出してのこの大トレードが大成功を収めたこと、そしてサンズの快進撃とファイナルへの道程、そして敗退についてはバークリーの記事後編にて取り上げた通りです。



このファイナル、最後のサンズのオフェンスでボールを持ってブルズゴールへ突き進み、ジャンパーを放とうとしたのがKJでした。しかしKJのシュートは抜き去ったと思っていたホーレス・グラントが必死に伸ばした手によってクリーンブロックされ、試合終了を告げるブザーが鳴り響いたのです。かくて、サンズのチーム史上2度目のファイナルは終わりました。第3戦、トリプルOTで62分出場というファイナルレコードをマークしたKJの頑張りも、優勝には届かなかったのです。

これまたバークリーの回で触れたように、ジョーダン引退中の2シーズンもサンズは優勝を逃します。実はKJはバークリー到来の'92-'93シーズンに49試合しか出場出来ていません。その後も彼は数々の故障に苦しみながらプレーを続けました。しかも、'94年には3度目のオールスターに選ばれた上、オフシーズンにはFIBA世界選手権のアメリカ代表チーム(ドリームチームII)に選出されてかつてのライヴァルたるマーク・プライスと共にチームをリード。アシスト数・平均アシストでチームトップを記録し、金メダル獲得に貢献したのです。



KJはリムへのアタックを止めませんでした。相手がマーク・イートンだろうがホットロッド・ウィリアムズだろうがオラジュワンだろうが、時にペイントへ切り込んで彼らビッグマンの度肝を抜くダンクを叩き込んでチームを鼓舞してみせたのです。徐々にポストシーズンの成果も再び下降線を描き始めて、やがてダン・マーリーやバークリーが去ってもなお、KJはサンズに残り戦い続けました。

それどころか、バークリー移籍後の'96-'97シーズンには20.1得点9.3アシストと2部門でチームをリードしてみせたのです。このシーズン半ば、サンズは更にトレードでマイケル・フィンリーと交換でジェイソン・キッドを獲得。この2人を同時起用する為、KJはSGに回ったのであります。そしてKJはそれまで決して得意とは言い難かった3ポイントを、.441もの高確率で決めてみせました。レックス・チャップマンのエントリーで書いた通り、他にもシーズン半ばのトレード相次いだこのシーズンにおいてKJは一貫してサンズでプレーし続け、チームをプレーオフまで連れて行き、ソニックスとの1stラウンドでの熱戦を演出したのです。

しかし、最早KJの体は限界に近付いていました。KJはこのシーズンを最後に引退する意向を表明していたのです。しかし、愛するチームの為引退を撤回し、もう1シーズンを過ごします。キッド、マクダイス、レックス・チャップマン、そしてクリフ・ロビンソンとすっかり様変わりしたロスターにあって、'93年ファイナル進出メンバー最後の1人としてKJは完全にチームの主役から退き、50試合中12試合に先発するのみでした。それでも9.5得点3.3リバウンド4.9アシストをマークして見せたのです。サンズは56勝をマーク、そして1stラウンドでスパーズに敗退。この'97-'98シーズンを持って、今度こそKJの現役生活は31才の若さで終わりを告げたはずだったのです。そして実際、KJは'99年10月12日、正式に引退します。

ところが2000年3月25日、KJはなんとサンズと再び契約します。5ヶ月強前に発表した引退を撤回した理由はサンズのピンチでした。既にジェイソン・キッドとアンファニー・ハーダウェイのバックコート2000体制に移行していたサンズはしかし、そのキッドがシーズン終盤に故障で離脱を余儀無くされたのです。サンズフロントはキッド不在の穴を埋めるべく旧知のKJに現役復帰を依頼、KJはこれを快諾したのであります。

KJはレギュラーシーズン6試合に出場して6.7得点2.7リバウンド4.0アシストと2シーズン未満のブランクを感じさせない働きを見せ、プレーオフでも9試合に登場。1stラウンドでダンカン不在のスパーズを倒してドラフト同期のデヴィッド・ロビンソン在籍時のスパーズとのプレーオフ通算対戦成績を3勝2敗とすると、カンファレンスセミファイナルでレイカーズに敗退。この敗戦をもって、今度こそKJのNBAキャリアは終わりを告げ、KJは'00年8月8日に再度、そして今度こそ完全に現役を引退したのです。

NBAの歴史において、20得点12アシスト以上のアヴェレージを残した選手はKJ以外にアイザイア・トーマスとマジック・ジョンソンだけです。FG成功率.500超を同時に達成したのはKJとマジックだけですね。また20得点10アシスト以上を3シーズン続けてマークした選手も、KJ以外にはオスカー・ロバートソンとアイザイアしか記録していないのです。20得点10アシスト以上を3シーズン「続けて」でなく、単純に3シーズン記録した選手、としてもオスカー、アイザイア、マジックと並んで4人しか達成していない大記録となります。

更に15得点10アシスト、FG成功率.500以上記録した選手という括りでもマジック、ジョン・ストックトン、スティーヴ・ナッシュ、デロン・ウィリアムズ、クリス・ポールとKJしか達成していません。これを更に20得点10アシスト、FG成功率.500以上とハードルを上げると、もうマジックとポール、KJしか該当しないのです。なお、マジックとKJは2回これを達成しています。ついでに20得点10アシスト、FG成功率.500超に2.0スティールとなるともうKJが史上初の快挙ですね。この記録を他に達成した事があるのはポールだけです。

かくて、FT成功数、試投数、そしてアシスト数でサンズのオールタイムリーダーとなったKJの背番号7はサンズの永久欠番となりました。そしてKJはバスケットボールとは異なる世界へ身を投じます。そもそも彼はケヴィン・ジョンソン・コーポレーションの社長として、現役時代から不動産、スポーツマネージメント、更には学園設立までを手がけていました。そんなKJが向かった先、それはなんと政界でした。2008年3月5日、KJは故郷たるサクラメント市の市長選に立候補する事を宣言したのです。そしてKJは予備選、決選投票共にトップを取り、見事55代目にしてサクラメント市制初となるアフリカン・アメリカンの市長に選ばれたのです。

KJは市長に就任すると、まずは市民の安全を守る為に警察官の人数を増やし、「ギャングサミット」なるものを開催します。また経済対策として資金を投与、またお得意の教育改革にタウンホールミーティング開催、市の財政についての外部監査、ホームレス減少やヴォランティア活動増加、芸術振興等々次々と新規政策を導入していったのです。

我々NBAファンにとってもっとも鮮烈だったのは、やはりサクラメント・キングス移転問題でしょう。アナハイム・キングスとなって移転する事がほぼ確実視され、サクラメントのファン達が最後の試合かと涙に暮れていたところに、KJが突如自ら動き、最終的にキングス移転を見事保留にまで持ち込んだのです。クラッチタイムにシュートを決めてOTに持ち込んだようなものですね。あの電光石火の動きはスピードの種類がちょっと違うとはいえ、現役時代を髣髴とさせるものがありました。いや、むしろあの決断力はNBAでのPGとしての経験で培われたものなのかも知れませんね。ともあれ、そんな元チームメイトの勇姿に、かつて知事選への意欲を見せた事のあるバークリーも何やら嬉しそうです。つーかこんな対談してたんですね、この2人。KJ市長、この調子だともしかしてもっと上を目指せるかも知れません。



KJも完璧な人間ではありません。16才の娘さんとチョメチョメ(死語)して揉めたり、市長選の時には対立候補に色々調べられて埃立てられたりしているのも事実です。それでもなお、彼はNBA史上に残る偉大なPGの1人であり、今や立派な市長なのです。初のブラック大統領たるオバマは最近厳しい状況ですが、KJも第2の人生でどこまで行けるか、ちょっと楽しみに見てみたいと思います。



※本文引用以外の参考文献
ウィキペディア(一部誤情報あり?)
Wikipedia
NBA.comよりキャリアスタッツ
バスケットボールリファレンス.comよりキャリアスタッツ
ケヴィン・ジョンソン公式HP



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新・栄光無き天才たち 6 ハーシー・ホーキンス〜知られざる鉄人スコアリングマシン〜

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イメージが地味な選手っていますよね。ファンの方には正直申し訳ないと思いつつも、例えばジャズに所属する殆どの選手は何故か微妙に地味イメージがつきまといます。実際は凄い実績を挙げているのに、何だかアンダーレートな選手っているでしょ?ちょっと冷静に考えてみて下さい、例えばストックトンって歴代アシスト数&スティール数1位なんですよ!今以上にもっとリスペクトされるべき選手だと思いませんか?彼はイメージで損してる代表格選手だと思うんですよね。あ、でも今回取り上げるのはストックトンじゃありません。今回はどちらかというと「ARTISAN」シリーズっぽいイメージですが、何気に凄かったスコアリングガードをご紹介と行きましょう。実は凄かった丈夫なガード、ハーシー・ホーキンスであります。

ハーシー・R・ホーキンスJr.は1966年9月29日、イリノイ州シカゴ出身です。子供の頃からジュリアス・アーヴィングをアイドルとして育った彼は地元のウェスティング高校からイリノイ州のブラッドリー大学へと進学します。

http://www.sports-reference.com/cbb/players/h/hawkihe01.html

ここで彼は4年の在学中に14.6得点→18.7得点→27.2得点→36.3得点と凄まじい勢いで平均得点をアップさせていきました。しかもFG成功率も4年通じて.539という高確率です。特に4年時、'87-'88シーズンが凄まじく、3ポイント成功率までも.394までアップさせた上に7.8リバウンド3.6アシスト2.6スティールというスタッツを並べてみせたのです。6-3という彼の身長を考えれば特にこのリバウンドは驚異的な数字ですね。彼がカレッジ・プレイヤー・オブ・ザ・イヤーに選ばれたのは至って当然の事だったと言えます。

http://www.usabasketball.com/mens/national/moly_1988.html

また'88年、NBA入りする前にはソウル五輪代表チームに選出されます。この時のロスターはデヴィッド・ロビンソン、ミッチ・リッチモンド、ダン・マーリー、ダニー・マニング、J.R.リード、ステイシー・オーグモン、チャールズ・スミス等々、後にNBA入りを果たす選手で満ち満ちていたにも拘らず、アメリカは準決勝でスーパーセンターのサボニス率いるソヴィエト連邦に敗れ、銅メダルに終わったのです。彼らのこの敗戦がバルセロナ五輪でのドリームチーム誕生に繋がったとはよく言われる話ですね。そんな苦い思い出もありつつ、ホーキンスはプロの世界へ向かったのです。

http://www.nbadraft.net/nba_draft_history/1989.html#1988

'88年ドラフト、ホーキンスはその五輪組たるマニングやチャールズ・スミス、リッチモンドなどに続く6位でクリッパーズに指名されます。が、ドラフト当日にチャールズ・スミス+'89年1巡目指名権と交換でシクサーズへトレードされたのです。アーヴィングのファンだった彼にとっては願ったり叶ったりだったでしょう。

シクサーズは既にそのアーヴィングは引退済で、バークリーがチームの主軸となっていました。'83年に優勝した時のメンバーは最早PGのモーリス・チークスしか残っていませんでしたが、このヴェテランとホーキンスは先発バックコート陣を形成します。即ち、ホーキンスは6-3のタッパながらPGに転職する事無く、SGとしてNBAデビューを果たしたのです。その成績は79試合全てに先発して15.1得点2.8リバウンド3.0アシスト1.5スティール。NCAA時代から定評のあったスティールも去ることながら、1年目から3ポイントを.428の高確率で決めてくる即戦力振りは高く評価され、まずはオールルーキー1stチーム入りを果たしました。



2年目には早くもホーキンスはバークリーに次ぐ2番手スコアラーの地位を確立します。実力者アーメン・ギリアムが加入してもなおそれは変わらず、ホーキンスは.460超のFG成功率と4割前後の3ポイント成功率、20点前後の得点アヴェレージ、1.6以上のスティールをマークし続けたのです。アシストとリバウンドも何気に3〜4あたりを行ってました。その活躍が認められて、'91年にはオールスター出場を果たしています。

また、シクサーズ最後のシーズンとなった5年目、'92-'93シーズンにはバークリー移籍の為チームの1stオプションとなる事を余儀無くされます。バークリーと交換でやってきたジェフ・ホーナセックや新人ウェザースプーンと共に、バークリーショックで轟沈するチームをなんとか支えたホーキンスはそれでもなお、チーム唯一の20得点越えを果たしたのです。



'93年オフの9/3、ホーキンスはディナ・バロス、グレッグ・グレアム、シドニー・グリーン、そして'94年の1巡目指名権との1対4トレードでシャーロット(現ニューオリンズ)・ホーネッツへとトレードされます。実はこのトレード材料のうち、ディナ・バロスと'94年の1巡目指名権は2日前の9/1にケンドール・ギルがホーネッツからソニックス(現サンダー)へトレードされた際にホーネッツにもたらされたものでした。そしてホーキンスは、そのギルに代わってホーネッツの先発SGを2シーズン務め上げます。2シーズン連続82試合全てに先発したホーキンスはシクサーズ時代よりは得点アヴェレージを落としたものの、ボーグス、ラリー・ジョンソン、モーニングとチームを守り立てたのです。もっとも、2シーズン目に出場したプレーオフでは1stラウンドでジョーダン復帰直後のブルズに1勝4敗で負けましたが。



そして'95年オフ、ホーキンスは再びトレードで移籍します。何の因果か、トレード相手はケンドール・ギル。そう、デヴィット・ウィンゲートとセットで向かった先はソニックスでした。そしてここでもホーキンスは先発SGとなります。ショーン・ケンプ、ペイトン、シュレンプに次ぐ4番手の得点源として、彼はここでも3ポイント、そしてスティールで貢献してみせたのです。そして彼の加入1年目、ソニックスはファイナルへと勝ち進みます。ホーキンスは前年1stラウンドの借りを、ファイナルで返すチャンスに恵まれた訳です。もっと言うなら、ホーキンスはシクサーズ時代にもポストシーズンでは2年連続ブルズに敗れています。ホーキンスの出身地チームは今や、彼にとって最大の壁となっていたのです。



ホーキンスにとって残念だったのは、この時のブルズこそ史上最大の高い壁だった事です。シーズン70勝、ポストシーズンもニックスに1勝を許したのみと圧倒的な力で勝ち上がって来た“アンストッパブルズ”に対し、ソニックスが2勝したのはむしろ健闘の部類に入ります。とはいえ、ホーキンス、そしてソニックスがファイナルで敗退した事実には変わりありませんでした。

http://sportspressnw.com/2011/07/dybas-hawkins-fit-gave-the-96-sonics-a-booster-shot/

この時の事をホーキンスは後に語っています。ホーネッツが気に入っていたのでソニックス行きには当初がっかりしていた事なんてのは今だからこそ言える話でしょう。

彼は第6戦の4Q、ブルズベンチの目の前でワイドオープンになり、点差を2点に詰める可能性のある3ポイントを放つも、ミスしてしまったのだと言います。ちょっと今当時の映像関係を見直してみても4Qに5点差までソニックスが詰めた場面ってのはちょっと見当たりませんので記憶違いでは?と思わなくもありませんが、とりあえず本人の談に耳を傾けてみましょう。

"That's the one thing that you do well and that you're paid to do. Just short-armed it. I can see that shot that clearly and thinking . . . I can't curse."

"At that moment, at that time, to have that shot, and to miss it, was like . . .I'll think about that shot sometimes just in the middle of the night. Just laying around, sitting around. Thinking about basketball, my career and that shot comes to mind."

"I thought we were better than the Bulls and we should have won the championship. It's sort of heartbreaking to think about."


決められなかったショットの事を忘れられないホーキンスの心境、スポーツ選手の常とは言えなかなか重いですね。一方であのブルズ相手に勝てると信じていた精神力の強さも素晴らしいです。ただ、彼は今でも当時の試合のヴィデオを座ってじっくり見る事は無いそうです。

結局ホーキンスはソニックスで4シーズンを過ごし、3シーズン連続82試合全先発+短縮シーズンの50試合全出場を果たします。ホーキンスは本当に故障の少ない選手でして、このソニックス在籍期間までの間に彼が欠場した試合は僅かに7試合。特にホーネッツ加入の'93-'94シーズンからソニックス退団までの'98-'99シーズンの間、彼は全試合皆勤賞だったのです。しかし、そんなホーキンスにも'98-'99シーズンには遂に衰えが見え初めていました。得意の3ポイントは4割超から一気に.306にダウンし、FG成功率も.419まで落ち込んでしまったのです。

'99年オフ、ホーキンスはまたも、今度はジェームズ・コットンとセットでトレードされます。ブレント・バリーとの交換で向かった先はなんと因縁の、そして地元球団のブルズでした。既にジョーダンをはじめとする全盛期の選手達は殆ど去っていたどん底ブルズにおいて、しかしホーキンスは既に過去の得点能力は失われていました。3ポイント成功率は.390まで持ち直し、61試合中49試合に先発したものの、そもそも皆勤賞だった彼が61試合しか出られなくなっていたのです。ホーキンスはこのシーズン、左腓腹筋断裂で5週間の欠場を余儀無くされていたのでした。ホーキンスの連続出場記録は527試合で途絶えてしまったのであります。また、ルーキーイヤー以来続いていた2桁得点もこのシーズンで終わります。

ホーキンスのシカゴ凱旋は結局1シーズンで終わり、彼はブルズを解雇されます。そして'00-'01シーズン、ホーキンスは現役最後のシーズンをかつて気に入っていたホーネッツで過ごしたのです。59試合出場で先発は無しですがシーズン通して故障は無く、平均11.5分出場し3ポイント成功率.370で3.1得点。この成績を最後にホーキンスはユニフォームを脱いだのであります。14,470得点、それが彼の通算得点でした。

ホーキンスはその後、アリゾナ州グッドイヤーのエストレラ・フットヒルズ高校でACを1シーズン勤めました。また'09年には3on3大会のフープフェストに顔を見せています。そして現在は、現役時代には在籍していなかったブレーザーズでプレイヤー・デヴェロップメント・ディレクターの仕事に就いているのです。また3人の息子のうちコリー・ホーキンスは高校でのキャリア及びシーズンでの得点記録を保持しているのです。現在アリゾナ州立大に在籍している彼、今のところカレッジでは結果を出せていないようですが頑張って欲しいものですね。

鉄人SG、ハーシー・ホーキンス。バークリーやユーイングのようなスター選手達ばかりでなく、彼もまたジョーダン&ブルズという高い壁に阻まれ続けた名選手の1人なのだということを、是非覚えて頂けると幸いです。

※本文引用以外の参考文献
Wikipedia
NBA.comよりバイオ(Googleキャッシュ)
バスケットボールリファレンス.comよりキャリアスタッツ



NBA プレゲーム パフォーマンス フーディー セブンティシクサーズ(レッド) adidas Philadelphia 76ers Red Pre-Game Performance Hoody Sweatshirt
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新・栄光無き天才たち 5 “サー”・チャールズ・バークリー〜BORN TO BE WILD(後編)〜

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バルセロナ、'92年の夏。ドリームチームにも当然の如く選出されたバークリーは、ここでも異彩を放っていました。アンゴラ戦時の名コメント「I don't know anything about Angola, but Angola's in trouble.」は若干失礼なところも含めて彼らしいです。ドリームチームにおいて最も注目を集めたのがジョーダン、マジック、バードだった事は言うまでもありませんが、バークリーもまたその存在感を大いに見せ付けたのです。

そして'92-'93シーズン。新天地フェニックスでもバークリーはチームのエースとして君臨します。そしてここまで4季連続50勝越えを果たしながらポストシーズンではカンファレンスファイナル敗退2回、カンファレンスセミファイナル敗退1回、1stラウンド敗退1回ともう一つ突き抜けられなかったサンズは一気に球団記録を更新する62勝を叩き出して一躍ウエストの優勝候補No.1に躍り出ました。バークリー個人としてもシーズンMVPを獲得したこのシーズンこそバークリーにとって間違い無くバスケット人生最良の時であり、また優勝への最大のチャンスだったと言えます。

私がNBAを見始めたのもちょうどこの頃でした。NHK-BSでの放送はブルズメインでしたが、試合後に流れるその他のゲームのダイジェストで映ったバークリーのふてぶてしい面構えを見た時、「ああ、この選手がジョーダンに立ちはだかるんだなぁ」と何となく思ったものです。その予感自体は大体当たってましたが、その道程は決して簡単ではありませんでした。



プレーオフ、1stラウンドでレイカーズにホームでの初戦2試合連続黒星でいきなり崖っ淵という思わぬ苦戦を強いられたサンズは、この苦境を3連勝で何とか凌ぎ切ります。



次いでカンファレンスセミファイナルではバークリー渾身のクラッチショットがなんと提督ロビンソン越しに決まり、スパーズを4勝2敗にて撃沈します。6-4のバークリーが7-1のロビンソン相手にクラッチジャンパー・・・ちょっと凄過ぎますね。あ、第6戦フル動画もYoutubeにありましたので、お時間ある方はどうぞ



そしてカンファレンスファイナルではソニックスとの激戦を繰り広げます。第7戦まで縺れたこのシリーズ、最後はやはりバークリーでした。彼の44得点24リバウンドという大爆発でソニックスを圧倒したサンズが、遂に'76年以来となるファイナル進出を果たしたのです。その時サンズのエースとして活躍し、NBA史上最高のファイナルと謳われる「THE GAME」の立役者となった名選手、ポール・ウエストファルが今や、サンズのHCでした。ウエストファル個人としては'74年にセルティクスでチャンピオンリングを獲得していましたが、サンズのウエストファルとしては2度目のチャレンジだった訳です。



そのファイナル、サンズの前に立ち塞がったのはまたしてもバークリーの親友ジョーダンでありました。2連覇中のブルズとの対戦はサンズがホームコートアドヴァンテージを持っていましたが、いきなりサンズはホームで2連敗を喫します。シカゴへ移った第3戦こそ3OTまで縺れた挙句サンズが勝ちましたが、第4戦で早くも王手をかけられます。それでも何とか第5戦で再度勝ってフェニックスへ戻ったものの、最後はあのパクソンの3ポイント、そしてホーレス・グラントのブロックショットでサンズは遂に敗退してしまったのです。

かくてバークリー最大の優勝チャンスは去りました。いや、もしかするとこの後2シーズン、ジョーダン1度目の引退期こそがバークリーにとって最大のチャンスだったかも知れません。しかし、その2シーズンの覇権はオラジュワン率いるロケッツのものでした。サンズは2年連続そのロケッツに、カンファレンスセミファイナルで3勝4敗と惜敗していたのです。後にジョーダン復帰後に「なんで僕がいないうちに優勝しとかなかったんだい」とバークリーはジョーダン自身に突っ込まれますが、実はこの頃既にバークリーの体には、背中の故障をはじめとするガタが来始めていたのです。徐々に彼のプレーからは豪快さが鳴りを潜め、ゴールに背を向けた緩慢なポストプレーでの勝負が増えていきます。彼のFG成功率は最早シクサーズ時代のような高確率には成り得なかったのです。

故障の多さはサンズ全体でも同じ事でした。ダン・マーリー以外のチームの主力選手が次々故障を重ねる中、それでもサンズはウエストの強豪のポジションを保ち続けます。しかし'95-'96シーズン、遂にサンズは41勝まで勝ち星を落としてしまいました。ダン・マーリーも既に移籍してしまい、ファイナル進出時のHCウエストファルもシーズン半ばに去ってしまった中で、それでも得点・リバウンド・スティールでチームトップの成績を挙げてプレーオフへ向かったバークリーでしたが、チームは1stラウンドでスパーズに屈します。恐らく、バークリーはサンズの限界、そして自身が1人でチームを牽引する限界を感じたのでしょう。

http://www.nytimes.com/1996/08/19/sports/barkley-confirms-his-trade-to-rockets.html

彼は今一度、移籍願望を口にしました。優勝を狙えるチームにトレードしてくれなければ引退するとサンズにトレードを要求し、移籍で優勝のチャンスを伺う事となります。そしてサンズは彼の願いを叶えるディールを纏めました。キャセール、ロバート・オーリー、マーク・ブライアント、チャッキー・ブラウンとのトレードでバークリーが向かった先は、ヒューストン・ロケッツだったのです。オラジュワン、ドレクスラーとのBIG3がここに結成されたのであります。ロケッツは再び、有望な優勝候補へと変貌を遂げました。この'96オフ、アトランタ五輪にも出場して金メダルを再度獲得したバークリーに、またしてもリング獲得のチャンスが巡ってきたかと思われたのです。

しかしながら、バークリーの移籍は少しばかり遅過ぎました。ドレクスラーは既に34才、オラジュワンとバークリーも33才。このBIG3結成は既にキャリア晩年に入っており、ドレクスラーとバークリーは故障による欠場が増えます。そしてドレクスラーとバークリーを獲得するトレードでロケッツの選手層は薄くなってしまっていました。それでも流石にヴェテラン軍団、57勝でポストシーズンに突入します。1stラウンドでは若いウルヴスをスウィープで撃破、カンファレンスセミファイナルでもソニックスを4勝3敗で下した彼らの前に立ち塞がったのは、彼らと同じヴェテラン軍団でした。



2勝3敗、ジャズが王手をかけた第6戦。ホームで勝って第7戦まで持ち込もうとしていたロケッツにとどめを刺したのは、バークレーの目の前で放たれたジョン・ストックトンのブザービーター3ポイントでした。冷静沈着なストックトンが見たことも無いようなハイテンションでファイナル初進出の喜びを爆発させるのを、バークリーはどんな思いで見ていたのでしょうか。

翌'97-'98シーズン、更に年を取ったロケッツは今度はオラジュワンが僅か47試合の出場に留まります。バークリーも68試合中41試合と稼動が更に苦しくなったロケッツはこのシーズン、僅か41勝に終わってしまいます。そしてポストシーズンでは1stラウンドでジャズに当たり、リヴェンジも叶わずに敗退。このシーズンをもって、ドレクスラーはユニフォームを脱いだのです。バークリーもこの頃になると毎年のように引退を口にしながらリングの為にキャリア続行という状況が続いていました。

しかし、どっこいロケッツもバークリーも諦めません。彼らの勧誘で、「ラスト・ダンス」という名の3PEATを終えて再建モードに入ったブルズからピペンの引き抜きに成功したのです。これで新BIG3で勝てる!と思われたロケッツは短縮シーズンとなった(←これまたおっさん軍団には有利ですね)'98-'99シーズンを31勝19敗で終えてプレーオフへ向かいます。対戦相手はレイカーズでした。



が、ロケッツはそのレイカーズの前に1勝3敗で敗退します。このシーズン終了後、バークリーとピペンの確執が露呈され、ピペンはブレーザーズへと去ってしまいました。そして迎えた'99-'00シーズン、チームの主力は大物新人フランシスとモーブリーのコンビへと移ります。いや、移らざるを得ませんでした。既にオラジュワンは37才に至っており、44試合しか出場出来ませんでした。そしてバークリーには、最早時間が残されていなかったのです。

12月8日のアウェー、シクサーズ戦でバークリーは左大腿四頭筋腱破裂で試合半ばにして退場を余儀無くされます。年齢に加えてこの故障とあって、これでバークリーのキャリアは終わったと誰しも思いましたし、実際一度は引退と報じられます。NBAキャリアをスタートさせたフィラデルフィアでこうなったのも何かの縁だ、と一度は引退を受け入れたバークリーでしたが、やはりそのような無念を残した形での引退は不本意だったのでしょう。結局もう一度だけ彼は出場を果たしました。約4ヵ月後、シーズン最終戦となる4月19日のホームゲーム、相手はグリズリーズ。共にプレーオフ不出場が確定していた消化試合ではありましたがバークリーは今一度コートに立ったのです。僅か6分の出場でFG1/3、2得点1リバウンド1アシスト1ブロック。それがバークリーにとって、今度こそ正真正銘のラストゲームとなったのです。

悲願の優勝こそ達成出来なかったものの、バークリーは通算得点20,000点、通算リバウンド数10,000、通算アシスト数4,000をマークしたNBA史上5人しかいない選手の1人です。サンズでの永久欠番や2006年のバスケットボール殿堂入りは当然と言えます。ラフプレーも厭わないハードなプレースタイルや容赦無いトラッシュトーク、ギャンブル癖(1,000万ドル以上赤字との由)をはじめとする数々のトラブルもあって決してベイビーフェイスにはなれませんでしたが、NBA史に残る選手である事には疑いもありません。



彼はTV業界にも非常に向いている人材です。このゴジラと対戦するCMも有名でしたが、日本でもエースコックのカップラーメン豚キムチのCMに出演してましたね。ああ、マイケル・ジョーダンと一緒に「筋肉番付」の9フープスに挑戦してた事もありました。今でもアメリカの放送を見ていればウェイドやドワイトと一緒に彼が携帯のCMに出演する姿を見られますし、そもそもNBA放送時の解説者としても最早定番の存在になりつつあります。毒舌もありますしきわどい事も言いますが、彼の絶妙なコメントは実にTV向きなのです。まあ、彼の毒舌コメント集はウィキペディアに一例があるのでご覧になって下さい。個人的には「タイタニック」のくだりが一番ヒドいと思います。

なお、彼には政治家への願望もあります。地元アラバマ州の知事選に立候補する噂はありましたし、本人も満更では無いように見えます。個人的には彼みたいに余計な事を口走ってしまいそうなタイプは政治家向きでは無い気もしますが、元相方のケヴィン・ジョンソンがサクラメント市長になったのを見て、案外内心穏やかでは無いかも知れませんね。シャックあたりに解説者のポジションを譲り、彼が政界に身を投じる可能性も無くは無いと思います。

リングこそその手に無くとも、NBAのベストプレーヤーの1人だったと言っても間違いではなかったバークリー。彼が当世のNBA選手達に一言言えるだけの確かな実績があるのをお分かり頂けましたでしょうか?

※本文引用以外の参考文献
Wikipedia
バスケットボールリファレンス.comよりキャリアスタッツ







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新・栄光無き天才たち 5 “サー”・チャールズ・バークリー〜BORN TO BE WILD(前編)〜

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さて、当シリーズもいよいよトップスターのお目見えと行きましょう。'80〜'90年代NBAきっての看板選手だった彼、チャールズ・バークリーも近年ではすっかり口うるさ型の解説者・コメンテーターとなりました。レブロンとかレブロンとかレブロンとかに特に手厳しいそのコメントを聞いていると、大沢親分と新庄の事を思い出すのは私だけでしょうか(笑)。とはいえ、そろそろ若い世代にはあのタコ坊主誰だよ、ってなってても可笑しくありません。最近はタイガー・ウッズの事にまで一言入れてくるこの喝親父は誰よ?なんてナウなヤングの為に、今回はチャールズ・バークリー見参!で御座います。

バークレーは1963年2月20日、アラバマ州リーズ出身です。そのまんまリーズ高校に進学した彼は5-10と背も低く、バスケ部でも控え選手でした。が、なんと一気に6-4まで背が伸びると先発の座を勝ち取り、一気に頭角を現します。19.1得点17.9リバウンドという驚異的なスタッツでチームを26勝3敗、そして州大会の準決勝まで引き上げたバークリーでしたが、カレッジのリクルートはあまり強いものではありませんでした。アラバマ州には彼よりスカウトの目を引く選手、ボビー・リー・ハートがいたためです。結果、バークリーはオーバーン大、ハートはアラバマ大へ進学します。オーバーン大のHC、ソニー・スミスはバークリーを「デブ・・・風の如くプレー出来るデブ」と評価していた為です。評価してたんだってばよ。



↑ノイズの多い動画ですのでご注意下さい

スミスHCの慧眼振りはやがて証明されました。オーバーン大で過ごした3年の間にバークリーは14.1得点9.5リバウンドというアヴェレージ、そして未だにオーバーン大のチーム記録となっているFG成功率62.6%をマークしたのです。そして彼はサザンイースタンカンファレンス(SEC)で3シーズン連続リバウンド王、3年連続オールSECチーム選出、SECプレーヤー・オブ・ザ・イヤー、そしてオールアメリカン2ndチーム選出といった足跡を残していったのです。

驚くべきはバークリーのフィジカルでした。彼は登録上は6-6とされていましたが、実際の背丈は6-4だったのです。これはPG〜SGぐらいの身長でしょう。カレッジといえどもこの身長でPFどころかCを務めて、間違い無く自分より背の高い相手に上記のスタッツをたたき出していたのですから、その才能は火を見るより明らかでした。ディフェンスリバウンドを掴むと自らボールを運び、ボースハンドで叩き込む・・・そんな姿にオーバーン大のファンは酔いしれたのです。そんな彼についたニックネームは「The Round Mound of Rebound」でした。直訳するなら「リバウンドの小山」って感じですかね。

http://sports.espn.go.com/ncb/boxscore?replayId=225

'84年、バークリーはチャック・パーソンと共に生涯一度だけのNCAAトーナメントに出場、FG8/10に23得点17リバウンド4アシスト2スティール2ブロックという凄まじいスタッツを叩き出しながらもチームは71-72で惜敗しました。そして彼はアーリーエントリー、NBAドラフトへ向かいます。



NBA史上最高のドラフトイヤー、'84年組にあってバークリーは5位で指名を受けます。彼を指名したのはフィラデルフィア・76ers。'83年にはジュリアス・アーヴィングとモーゼス・マローンを擁してNBAチャンピオンとなっていた名門球団に入団というのはなかなか恵まれた境遇ではありました。特にNBA史に残る名センター、マローンはバークレーの良き先輩となります。彼からバークリーは体重のコントロール、試合前の準備と適切なコンディションを学んだのです。

バークリーはルーキーイヤーから82試合中60試合で先発、FG成功率.545で14.0得点8.6リバウンドを挙げてオールルーキーチームに選出。またポストシーズンでも14.9得点11.1リバウンドを稼いでみせたのです。チームはカンファレンスファイナルでセルティクスに屈したものの、いきなりポストシーズンでの経験を積めたのも若いバークリーにはプラスだった事でしょう。



既にアーヴィングがキャリアの黄昏を迎えつつあったシクサーズにおいて、バークリーはグングン成績を伸ばしていきました。2年目以降は不動の先発となり、オールNBAチームの1stと2ndの常連となっていきます。アヴェレージも20-10に到達し、3年目には14.6リバウンド、4年目には28.3得点とそれぞれキャリアハイを記録しています。しかしながら、チーム成績は緩やかに下降し、ポストシーズンでも大きな成果は残せませんでした。シクサーズにタイトルをもたらした巨人マローンは'86オフにワシントン・ブレッツ(現ウィザーズ)へトレードされ、アーヴィングは'86-'87シーズンに引退するに至って、シクサーズは完全にバークリーのチームとなりましたが、この翌シーズンにはとうとうシクサーズはプレーオフ進出が途絶えてしまいました。



シクサーズ時代のバークリーのプレースタイルは、同期のライヴァルたるマイケル・ジョーダンの優美さと正反対と言える荒々しいものでした。2:50前後に出てくるブロックショットの後でブロックした相手を助けるのかと思ったら怒鳴るなんてのは実に彼らしいですね。粗にして野だが卑ではない、といったところでしょうか。



この'90年にあったピストンズとの乱闘もよく見れば分かるように、バークリー自身がやられたのではなく、チームメイトのマホーンがアイザイア・トーマス、次いでレインビアにやられたのを見たからという実に彼らしい流れですね。この乱闘で彼は162,500ドルの罰金を喰らいます。



また、少々度が過ぎてしまったのが'91年3月、ネッツ戦でのの唾吐き事件です。人種差別的な野次を飛ばすコートサイドの観客に向かって彼は唾を吐いたのですが、これがその観客ではなく女の子に唾がかかってしまいました。バークリーはこの件で出場停止処分と10,000ドルの罰金を受けます。流石のバークリーもこれは反省して、後にこの少女と家族に謝りを入れてチケットをプレゼントし、やがて交流を深めていく事となりました。

ともあれ、プレーヤーとしての彼のステータスはどんどん上がって行きました。オールスターには'87年に初選出後、'97年まで11年連続選出され続ける事となり、'91年にはオールスターMVPにも選出されたのです。



見ての通り最後まで縺れたこのゲームで敵味方に分かれ、逆転を賭けたラストショットを放ったのがウエストのケヴィン・ジョンソンで、それをブロックに行ったのがバークリーでした。このショットはカール・マローンがシュートがリムに届く前にボールに触れてしまうという珍しいプレーで無効となってしまい、好ゲームは思わぬエンディングを迎えてしまいました。このショットが決まっていればMVPはKJだったかも知れませんね。

そんな個人成績の充実と裏腹にシクサーズは結果を残せませんでした。'88-'89シーズンには早々にプレーオフ復帰を果たすも1stラウンドでニックスに屈し、'89-'90、'90-'91シーズンは続けてカンファレンスセミファイナルでブルズに敗退。親友にして強敵でもあるライヴァル、ジョーダンがブルズで徐々にステップアップし、遂に'91年に頂点に立つのをバークリーはただ見ているしかなかったのです。

そしてマジック・ジョンソン引退を称える為背番号34を32に変えて臨んだ'91-'92シーズン。ブルズが2連覇を果たすのを尻目にシクサーズは再度負け越し、プレーオフ進出さえ逃してしまいます。最早バークリーの不満は爆発寸前でした。そもそもバークリー自身がお世話になったシクサーズ優勝の功労者たるモーゼス・マローンへの扱いから、バークリーはシクサーズフロントに不満を抱き始めていました。そこへ持ってきて一向に勝てないチーム状況に彼の不満は更に高まっていったのです。そして、遂にバークリーはシクサーズに対しトレードを要求。その願いは7/17、叶えられました。ジェフ・ホーナセック、ティム・ペリー、そしてアンドリュー・ラングとの交換トレードで向かった先は、あのケヴィン・ジョンソンが在籍する球団、フェニックス・サンズだったのです。

(以下、後編へ続く)



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新・栄光無き天才たち 4 レジー・ルイス〜セルティクスもう一つの悲劇〜

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死んじまったらおしまいじゃねぇか!

特に最近そう思うのは、私が所謂無信教に近しいスタンスだからでしょうか。それなりに年を取ったからでしょうか。それとも東日本大震災での生と死のドラマをあまりにも頻繁に目の当たりにしてしまったからでしょうか。それでもまだ、戦争を体験していないだけこの日本における我々の世代はまだ運が良いのかも知れませんが・・・。

生死観は人それぞれですが、とりあえず死んでしまえば人間は活動を停止し、やりたい事も出来なくなってしまいます。生まれ変わりとかあるかどうか分からないものにすがるのは危険です。どんなハンデを背負ったとしても、今この人生でベストを尽くさないと始まらないんです。

ただ、仕事に没頭したり、何かに夢中になったりするのは良い事ですが、度が過ぎればそれは時にあなたの命を縮めます。何事も程々にして、駆け足の人生よりも多少細くとも長い人生を私は望みたいですね。そりゃあ太くて長いのが最高なんですが。

前置きが長くなりました。今回取り上げるのは(´・ω・`)ショボーン列伝の3で取り上げたレン・バイアスに続いてセルティクス史上に残る悲運の名選手となってしまった男、レジー・ルイスであります。

ルイスはバイアスよりほぼ2年遅れた1965年11月21日生まれ。そして驚く無かれ、彼もまたメリーランド州出身です。但しルイスの場合はバルティモアの生まれでした。ルイスが進学した東バルティモアのダンバー高校は、彼のバスケット選手としてのキャリアの原点となります。

http://www.slamonline.com/online/college-hs/high-school/2007/09/dunbar-high-brick-house/

マグジー・ボーグス、レジー・ウィリアムズ、デヴィッド・ウィンゲート、そしてルイスと後のNBA選手を4人も擁するダンバー高は圧倒的な強さを見せました。'81-'82シーズン29勝0敗、そして'82-'83シーズン31勝0敗。それがルイス在籍時のダンバー高のシーズン成績だったのです。このチームは史上最高の高校チームの一つとして未だに語り草となっています。



http://www.sports-reference.com/cbb/players/l/lewisre01.html

バイアスと異なり、彼は大学でメリーランド州を出ます。進学した先はボストンのノースイースタン大でした。ここで彼は平均22.2得点をマークし、総得点数(2,708点)でも大学歴代No.1となります。言うまでも無く彼の背番号は永久欠番となりました。そして大学をキッチリ卒業してから、彼はNBAへと向かったのです。バイアスの悲劇から1年後、'87年のドラフト1巡目、22位。当時の1巡目としては下から2番目という順位で彼はセルティクス入りを果たしたのです。

ルイスがセルティクス入りを果たした時、まだセルティクスはバード、マクヘイル、パリッシュによるBIG3体制が健在でした。K.C.ジョーンズHCが新人をあまり使わないという事もあって出場時間も決して長くない中で、それでも時として出番が長くなればルイスは2桁得点をキッチリ稼いでみせたのです。またBIG3から若い彼が得るものは決して少なくありませんでした。

その効果が、2年目から早くも現れます。HCが交代し、バードが6試合しか出場出来なかったこのシーズン、ルイスは81試合中57試合に先発してFG成功率.486で18.5得点4.7リバウンド2.7アシスト1.5スティールを稼ぎ、一躍チームの中心に踊り出たのです。プレーオフでは1stラウンドでピストンズにスウィープ負けを食らったものの、バードが戻った'89-'90シーズンもルイスは79試合中54試合に先発、エインジを追い出して先発SGの座をほぼ手中にしました。FG成功率も.496と更に向上させてバード、マクヘイルに続く17.0得点を挙げ、完全に主力選手の座を固めます。もっとも、この時もプレーオフでは1stラウンドでニックスに敗退します。

名PG、デニス・ジョンソンが去ってブライアン・ショーに代わった'90-'91シーズンには18.7得点5.2リバウンドでチーム2位の得点源となり、今度は1stラウンドを突破、またもピストンズに2勝4敗で敗退。そしてバード最後のシーズンとなった'91-'92シーズンにはルイスは遂に20.8得点でチームの得点王となり、オーランドでのオールスターにも初選出されたのです。そしてプレーオフ、1stラウンドでペイサーズに勝った次の相手はキャヴスでした。その時のインタヴュー動画がありましたのでどうぞ。



セルティクス対キャヴスの激戦は第7戦まで縺れましたが、最後はマーク・プライス、ナンス、ドアティーを擁したキャヴスに凱歌が上がります。とは言えバードが引退し、マクヘイルとパリッシュも年齢による衰えが隠せなくなってきたチームにおいて、ルイスは完全にフランチャイズのセンターピースとなったのです。ドラフト22位指名選手としては申し分の無い大出世ですね。セルティクスはあのバイアスの悪夢を振り切り、次代を担う選手を得たかに思われたのです。

そして運命の'92-'93シーズン。バードを継ぐ新キャプテンに選ばれたルイスは80試合全てに先発して20.8得点4.3リバウンド3.7アシスト1.5スティール。しかし、問題は彼以外の選手でして、得点2位のゼイビア・マクダニエルは13.5得点。35才のマクヘイルと39才のパリッシュの衰えはいよいよ深刻なものになっていました。それでもルイスの尽力でチームは48勝を挙げます。ルイス加入以来セルティクスは57勝→42勝→52勝→51勝と推移していました。バードが引退し、BIG3の残り2人が衰えていたこの状況で48勝はむしろ賞賛に値します。そしてプレーオフ、第4シードで臨んだ1stラウンドで対戦した相手こそが新進気鋭のシャーロット・ホーネッツでありました。

第1戦はモーニングとギルに30得点を許したものの、3Qに引き離したセルティクスがまず1勝を挙げます。しかし、この試合でルイスは僅か13分の出場に留まり、17得点しか挙げていません。このゲーム、ルイスは試合開始早々に10点を稼ぎました。そして試合開始6分ほど経過した時、彼は突然前のめりに倒れるとベンチへ下がります。ベンチで休んだ後再び出場するも1分後に再び眩暈を覚えたルイスは前半の出場をここで終えました。チームドクターの診察を受けた後、再びルイスは後半開始早々に2本のシュートを決めるも再び眩暈に襲われ、ベンチに下がったのです。ルイスにとっては不本意極まりなかっただろうこのゲームが彼にとって最後の試合となってしまったのです。



この後、キャプテンを失ったセルティクスは第2戦を98-99と接戦で落とし、第3戦も89-119と惨敗。そして第4戦、このモーニングのクラッチショットと共にセルティクスは1stラウンドに沈んだのであります。

一方のルイスは4/30にニューイングランド・バプティスト病院で診察を受け、一旦帰宅するも精密検査のため緊急入院。心臓の異常の疑いが出てきたのを受け、セルティクスはボストンの心臓専門医13名を集めます。「ドリームチーム」と言われたこの医師団は「限局性心筋症による不整脈」という結論を下します。彼らは5/2、セルティクスのチームドクターを通じてルイスに引退を勧めたのです。

しかし、唐突に引退を告げられたルイスはこれに反発、数時間後に制止を振り切ってブリガム&ウィメンズ病院へ強引に転院してしまいます。そしてチームドクターがドリームチームの診察の詳細をテレビのインタヴューで明らかにした事で、ルイス側は更に態度を硬化させてしまいました。試合中にルイスを何度か試合に戻した事、そしてこの医師のルイスへのコミュニケーションミスはセルティクスへの非難を呼びました。

そしてブリガム&ウィメンズ病院は5/10に、ルイスを「心臓神経症」であると発表、ルイスの現役続行を許可したのです。一度は引退と言われたルイスの喜びは言うまでもありませんでしたが、結論ありきの診断だったのでは?というように傍目には見えてしまいます。ドリームチームとブリガム&ウィメンズ病院の医師との討論という話も持ち上がりましたが、セルティクス側はこれを結局断ります。法的な責任を避けたセルティクスのこの判断もまた、ルイスにとって命取りでした。

とはいえルイスも流石にブリガム&ウィメンズ病院による、あまりにも好都合過ぎる診察結果をそのまま信用するのもどうかと思ったのでしょう。6/21にはセカンドならぬサードオピニオンを求めてロサンゼルスにて4人の心臓専門医の診察を受けます。が、結局明確な結論は出ませんでした。悩んだルイスですが、そもそも現役続行への思いがあってこの転院を強行したのですからその判断を変える訳もありません。結局ブリガム&ウィメンズ病院の指導の元、復帰への準備を行いました。

そして7/27、午後4時15分。ルイスは親戚と共にセルティクスの練習場、ブランダイス大学の体育館で軽いシュート練習を始めます。しかし、5時過ぎにルイスは倒れました。たまたま隣のコートにいた救急医療士の指導の下まずブランダイス大学の警察官達が、追って到着した救急隊員が蘇生処置を行ったものの反応は無く、遂にはブランダイス大学長(後のマサチューセッツ総合病院長)までも駆けつけますが、状況は同じでした。

その後ウォルサム・ウェストン病院に運ばれたルイスでしたが、医師のあらゆる努力も実る事はありませんでした。かくて午後8時30分、既にルイスが倒れた事を知って報道陣もかけつけていた病院で、ルイスの妻の要請により医師による蘇生処置は終わりました。ここに、セルティクスはチームキャプテンにしてチームのエースたる偉大な選手を永遠に失ってしまったのです。享年27才の若さでした。

なお、ルイスの死後その死因がコカインによるものであるという記事がウォール・ストリート・ジャーナル紙に掲載されています。しかしこの件については証言なども錯綜しており、疑うに足る材料は少ないと思います。ルイスの生命保険会社がウォール・ストリート・ジャーナル紙に手を回して書かせた記事という説もありますが、個人的にはバイアスの死因から同じ可能性を連想して書かれた記事なんじゃないの?という気もしないではありません。その後ルイスの妻はブリガム&ウィメンズ病院側と法廷で争う事となりますが、個人的には「だったら最初にドリームチームの話をもっと冷静に聞いていれば・・・」という感を持たずにはいられません。

ともあれ、このルイスの死と共にセルティクスは一挙に暗黒時代に突入してしまいます。働き盛りのエースを失ったセルティクスはこの後一気にドアマット化し、8シーズンの間に1度も勝ち越せず、プレーオフも1回しか出場出来なくなります。特にマジックに1stラウンドで敗れて伝統あるボストン・ガーデンを後にしてから、'95-'96シーズン以降は実に6年の長きに渡ってポストシーズンと縁が無くなってしまうのです。これは栄光あるセルティクスの歴史において最長の屈辱でありました。

ポール・ピアースが2000年の9月25日、ロサンゼルスで暴漢に襲われて瀕死の重症を負った際、セルティクスファンの頭をよぎったのは間違い無くバイアス、ルイスの悲劇であったでしょう。またしてもチームの未来を担うフォワードが不測の事態で散ってしまうのか・・・そう思うのは当然です。しかし現場で一緒だったトニー・バティの迅速かつ適切な対応、そして僅か3日で退院したピアース自身の驚異の回復力でもって彼は'00-'01シーズンフル出場を果たします。そして翌シーズン、ピアースの活躍で遂にセルティクスはプレーオフに戻ったのです。バイアス、ルイスと続いたセルティクスの悲劇の連鎖が断ち切られた瞬間でした。

ルイスの背番号35は現在、セルティクスの永久欠番となっています。セルティクスで優勝せずに永久欠番となった選手は彼以外に1人しかいません。彼と背番号が1つしか違わないピアースのファイナルMVPの姿に、ルイスの魂がいくらかでも救われた事を願って止みません。





※本文引用以外の参考文献
Wikipedia
Fallen Celtic: Remembering Reggie Lewis
TIME誌より「Did Reggie Lewis Have to Die?」
バルティモア・サン紙より「Remembering Reggie Lewis」
バスケットボールリファレンス.comよりキャリアスタッツ

※ルイス入院の状況について週刊医学界新聞の連載、「市場原理に揺れるアメリカ医療 番外編 スター選手の死(マサチューセッツ総合病院内分泌部門、ハーバード大学医学部助教授 李 啓充)」を特に参考にしました。



Mitchell&Ness(ミッチェル&ネス) フィッテッドキャップ“BOSTON CELTICS”HEATHERED LOGO GREY
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新・栄光無き天才たち3 ドラジェン・ペトロヴィッチ〜夭折の1stユーロスター〜

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「栄光無き天才たち」「新・栄光無き天才たち」と続けざまにやっているこのシリーズですが、皆さんはこのタイトルの元ネタにあたる漫画「栄光なき天才たち」をお読みになった事があるでしょうか。主に週刊ヤングジャンプが以前に売れていた'80年代後半〜'90年代前半に渋く連載されていたこのシリーズは、明らかな先見性や優れた知性、並外れた能力を持ちながら残した足跡に比べてあまりに見合わない評価に終わってしまった偉人達にスポットを当てる、彼らの無念を慰めるかのような素晴らしい作品です。読んだ事が無いと言う方、是非ブックオフの集英社(文庫版もあります)コーナーをチェックしてみて下さい。

このシリーズで取り上げられた悲劇の偉人達の群像は多種多様です。ノーベル賞受賞確実と言われながら戦場に倒れた物理学者レッドパージの嵐に一度は全てを失った映画人つまらない決闘で無駄に命を散らした天才数学者世間の無理解と戦いながら日本人女性初のメダリストとなったアスリート、そして突然の事故でその才能が満開になる前に散ってしまったボクサーレーサー

今回取り上げるのは、ある意味今までで最もこのタイトルに相応しい人物だと言えます。ヨーロッパ出身の選手として初めてNBAで輝いた、しかしあまりに短い輝きで終わったガード選手、ドラチェン・ペトロヴィッチです。

1964年10月22日、彼が生まれたのはユーゴスラヴィア(以下ユーゴ)。ええ、そんな国名若い世代にはそろそろ通じませんね。世界史で第一次世界大戦を学べば分かりますが、あの時世界大戦を引き起こす原因となった東欧、バルカン半島に存在した連合国家です。マケドニア、ボスニア・ヘルツェゴビナ、クロアチアなどに分立していた諸国は第一次大戦終了後にユーゴという1つの多民族国家となります。ペトロヴィッチが生まれたのはそんなユーゴのクロアチアの地で、父親はモンテネグロ人。ユーゴという国家が無ければペトロヴィッチも誕生する事は無かったと考えると、運命の不思議を感じますね。あ、このユーゴという国の成り立ちの事は覚えておいて下さい。世界史のテストで役に立ちますし、また将来必ず取り上げますので。

ペトロヴィッチは元々バスケットボールに近いところにいました。ひとつは実の兄、アレクサンダルがバスケットボールをやっていた事。今ひとつは親戚にセルビア人バスケット選手、デジャン・ボディロガがいたことです。かくて子供の頃からバスケットボールに触れたペトロヴィッチは13才でBCシベンカのユースチームに選抜されてキャリアをスタート。

そして15才にして彼が早くもユースではなく一軍チーム入りを果たした時、BCシベンカもまたユーゴスラビア一部リーグ入りを果たします。若きペトロヴィッチをスターと頂くチームは'82、'83年と続けざまにコラチカップに準優勝。更に'83年のユーゴクラブ選手権では弱冠18才のペトロヴィッチが決勝点となるFT2本を決めて見事優勝を果たします。が、翌日審判のジャッジに誤りがあったとのことで再試合が決定、これを拒んだBCシベンカはタイトルを剥奪されたのです。・・・早くも彼には悲運の影がちらついていました。



この後、1年の兵役を挟んでペトロヴィッチは兄アレクサンダルを追ってBCツィボナ・ザグレブへ移籍します。彼が加入するなりBCツィボナ・ザグレブはユーゴ選手権、ナショナルカップを制覇。更にはレアル・マドリードを下してチーム初のヨーロピアン・カップ優勝をもたらしたのです。この大会では翌年も若きサボニスを擁していたBCジャルギリスを下して連覇。またナショナルカップでも連覇を果たします。更には'87年、ヨーロピアンカップ・ウィナーズカップを制覇と、チームに次々と優勝カップを増やしていったのです。

BCツィボナ・ザグレブ在籍の4年の間、ペトロヴィッチはユーゴリーグの1部で37.7得点、ヨーロッパのクラブ対戦で33.8得点というアヴェレージを残しました。最早ユーゴではやり尽くした感のあるペトロヴィッチは新たなるチャレンジを求めていたのです。そんな彼に興味を示したNBAチームがポートランド・トレイルブレーザーズで、'86年のドラフトでブレーザーズは彼を3巡目60位で指名していたのです。が、そもそも3巡目という低さからも伺える通り、そこまで獲得に本気だったかは何とも言えません。この時代、ユーロで成果を出している選手が今程には重視されていなかったのもまた事実でした。ペトロヴィッチ自身もこの段階ではNBAを選ばず、レアル・マドリードと400万ドルの契約を結んだのです。




レアルでもペトロヴィッチはスペインのナショナルカップ制覇をもたらし、ファイナルシリーズの得点(42点)及び3ポイント成功数(8本)でACB(スペインリーグ)記録をマーク。またヨーロピアンカップ・ウィナーズカップ決勝では62得点を叩き出して優勝に貢献しました。そして、遂に彼はNBA入りを決断。ブレーザーズはレアルに違約金(約150万ドル)を支払い、ここにペトロヴィッチのNBA入団が実現したのです。

ペトロヴィッチがNBAにやって来た'89-'90シーズンのブレーザーズはリック・エイデルマンが率いる強豪チームでした。そしてバックコートにはテリー・ポーターとドレクスラーが固定されており、言語の壁もあってペトロヴィッチは出場時間が伸びなかったのです。25才を迎えたばかりだった彼はこのシーズン77試合出場先発無し、平均12.6分出場で7.6得点。FG成功率.485と3ポイント成功率.459は流石でしたが、ファイナルまで勝ち進んだチームにあって、いかにヨーロッパ最優秀選手と言えども出場機会をいきなり得る事は難しかったのです。プレーオフでも12.7分の出場で6.1得点に終わった彼の不満は、翌シーズン更に爆発します。彼の出場時間は更に縮んで7.4分となり、4.4得点と成績もダウン。しかも38試合中20試合でDNPです。こんな事ならレアルに留まっていた方が余程マシだったと、ペトロヴィッチ自身も思ったことでしょう。ルディ・フェルナンデスもそうですが、どうもブレーザーズはユーロ圏の選手の扱いが上手くないようです。

転機は三角トレードでした。ナゲッツが絡んだこのトレードで、ペトロヴィッチはネッツへと移籍したのです。名将ビル・フィッチに率いられていた当時のネッツは'86年を最後にプレーオフから離れていたものの、この年を最後に引退したレジー・セウス、2年目のムーキー・ブレイロック、怪我持ちビッグセンターのブウイ、そして期待の新人デリック・コールマンを擁していました。ペトロヴィッチはこのチームにあって出場時間を20.5分と伸ばし、12.6得点を挙げてようやくNBAでの足がかりを得ます。

そして翌'91-'92シーズン、遂にペトロヴィッチの才能がNBAでも開花します。セウス引退と入れ替わるようにやってきた新人PG、ケニー・アンダーソンが加入したこのネッツにおいて、ペトロヴィッチは全82試合で先発SGとして完全定着、FG成功率.508、3ポイント成功率.444で20.6得点3.1リバウンド3.1アシストをマークしてみせたのです。SGでFG成功率5割超なんて、マイケル・ジョーダン以外には殆ど存在しないハイアヴェレージです。そしてペトロヴィッチの飛躍に足並みを揃えるかのようにネッツの成績も14勝プラスで40勝となり、ネッツは遂にプレーオフ出場を果たしたのです。

ネッツでの初プレーオフ、キャヴスと対決したペトロヴィッチは初戦で40得点を叩き出し、第2戦でも23得点、そして第3戦では20得点3リバウンド6アシストをマークする大活躍を見せました。結局1勝3敗で1stラウンド敗退となったものの、ネッツに久々に明るい希望が見え始めた事は明らかでした。

更にはこのオフ、ペトロヴィッチは3度目のオリンピックに出場します。15才のジュニアチーム時代からユーゴ代表としてプレーしていた彼は'84年のロサンゼルス五輪では銅メダル、'86年の世界選手権では銅メダル(但し大会の最優秀選手に選出)、'88年ソウル五輪では銀メダル、そして’90年世界選手権では遂に金メダルと輝かしい成績を収めてきたペトロヴィッチでしたが、母国ユーゴの分裂・独立に伴い、クロアチア代表としてこのバルセロナ五輪にやってきたのです。ドリームチームが君臨したこの五輪において、クロアチアは予選ラウンドでそのアメリカにこそ70-103と敗れたものの、残りの試合全てを勝って決勝トーナメントへ進出。準決勝ではユーゴ時代に五輪や世界選手権で激戦を繰り広げてきたソヴィエト連邦を自らのクラッチFTで見事沈め、決勝戦でアメリカとの再戦を果たしたのです。



ペトロヴィッチにとってドリームチームと対戦するという事は、マイケル・ジョーダン、そして旧チームメイトたるドレクスラーとの対戦をも意味しました。こんなバケモノ2人相手に24得点を挙げた事実こそ、むしろ評価されるべきでしょう。この決勝では25-23と序盤リードを奪うなど、クロアチア代表チームはなかなか意地を見せました。最終的には85-117で敗れはしましたが、クロアチア代表の2試合の点差は33点と32点であり、これはドリームチームの最小得失点差1・2フィニッシュです。再独立を果たしたばかりのクロアチアにとって、これは誇るべき銀メダルであった事は間違いありません。

そして'92-'93シーズン。フィッチに代わってネッツHCに就任したのはなんとドリームチームのHC、チャック・デイリー。そしてブレイロックが去ったネッツはケニー・アンダーソン、コールマン、そしてペトロヴィッチのBIG3体制を確立します。五輪のダメージがあったか70試合の出場に留まったペトロヴィッチでしたが、FG成功率.518(全ガード中2位)、3ポイント成功率.449(リーグ2位)、22.3得点(リーグ11位)2.7リバウンド3.5アシストとスタッツを更に向上させます。

2/28のニックス戦でケニー・アンダーソンがシーズン終了となったにも拘わらずチームは43勝と更に成績を向上させ、ペトロヴィッチ自身もNBAオール3rdチーム入りを果たしたこのシーズン、しかし彼はオールスターには選ばれませんでした。キャヴスから3人、ペイサーズからシュレンプがイースト代表として選ばれたこのオールスターにおいて、ペトロヴィッチはこのシーズンのハイスコアラー上位13名中唯一オールスターに選ばれなかったのです。この事実はペトロヴィッチをいたく失望させました。

そしてプレーオフ、ネッツはまたもキャヴスと対戦します。このシリーズ、ペトロヴィッチがFG成功率5割を超えた2試合はネッツが勝ち、.430を割り込んだ3試合ではネッツが敗戦というある意味分かり易いシリーズでした。ケニー・アンダーソン不在のまま2勝3敗というのは、むしろネッツは健闘したと言うべきなのでしょう。ケニー・アンダーソンが復帰するであろう来季こそはネッツも更に躍進するはずだ、そう見えました。

しかしながら、ペトロヴィッチ自身はネッツに対しても不満が募り始めていました。'93年オフのユーロバスケットでクロアチア代表としてポーランドへ向かった彼はチームメイトとの温度差、未だ契約延長をしてくれないチームに失望していたのです。そしてペトロヴィッチはアメリカ人レポーターに対して、NBAでの自身への敬意の欠落(オールスター不選出など)故にユーロへの出戻りを考えている事、ギリシアの2チームが3年750万ドルのオファーをオファーする用意がある事を告げたのです。パナシナイコスBCと口頭で合意している、という噂もありました。これらが本気だったのか、ネッツへの単なるプレッシャーとしてのものだったのか、今ではもう分かりません。

ペトロヴィッチはクロアチアの首都ザグレブへの飛行機に乗らずに、ドイツ人モデルにして女子バスケット選手だったガールフレンドと一緒にドライヴでクロアチアへ戻る事を選びます。そして運命の1993年6月7日、17:20。29才の誕生日まで4ヵ月半を残していたペトロヴィッチは、ドイツはバイエルン州インゴルシュタットから15マイルほど北に位置するデッケンドルフで、ガールフレンドが運転するフォルクスワーゲン・ゴルフの助手席で睡眠をとっていました。

激しい雨に濡れたアウトバーンで、その悲劇は起きました。スリップしていた車を避けようとしたトラックがガードレールにぶつかってしまい、道を塞いでしまったのです。トラックのドライヴァーはトラックを離れて後続の車を止めようとしましたが、数秒後にペトロヴィッチを載せたフォルクスワーゲンが衝突してしまったのです。そして運転していたガールフレンド、同乗していた元女子バスケット選手、ペトロヴィッチのうち、ペトロヴィッチだけがその事故で即死してしまったのでした。シートベルトを締めていなかった事が致命的だったようです。

彼の訃報に、ネッツのGMを務めていたレジェンドセンター、ウィリス・リードは「私にとっては息子を亡くしたようなものだ」と涙を流したそうです。チームメイトとの軋轢はいざ知らず、チームフロントは彼に敬意を持っていたように思えます。実際ペトロヴィッチの背番号3はネッツの永久欠番となりました。そのキャリアの短さ、オールスター未選出である事などを考え合わせてもこれは異例の措置です。

無論、本国でのペトロヴィッチの夭折後の扱いはもっと上でした。彼がかつて活躍したツィボナスタジアムは'93年10月4日にドラチェン・ペトロヴィッチ・バスケットボール・ホールと改名されます。ザグレブには彼の名前を冠した通りが出来、NBAチームとユーロの強豪チームを戦わせていたマクドナルド選手権のMVPは'94年以降ドラチェン・ペトロヴィッチ・トロフィーに改名。'95年の4月29日にはスイスにあるオリンピックミュージアムの前にペトロヴィッチのモニュメントが完成します。これは全アスリート中でも2人目の快挙だったのです。

彼の伝説は21世紀になってもなお終わりません。'01年7月9日、テニスの全英オープンを制したゴラン・イワニセヴィッチは10万人を集めた優勝パレードで、なんとペトロヴィッチのレプリカジャージを着たのです。その翌年、'02年にはバスケットボール殿堂、'07年にはFIFA殿堂入りを果たします。更には'06年にザグレブの地にドラチェン・ペトロヴィッチ・メモリアルセンターが完成、'08年にはユーロリーグ史上の偉大な50人に選出されているのです。恐らく、こういったペトロヴィッチへの追悼の意を込めた表彰は今後も続く事でしょう。

最後に、ウィキペディアにも引用されているペトロヴィッチへの追悼の言葉を2人分紹介したいと思います。

「多くの素晴らしい選手がいるアメリカでは想像するのが難しいだろうが、我々(クロアチア)は400万人の国家だ。彼無くしては、(我々の)バスケットボールは3歩後退する」(実兄アレクサンダル)

「ドラチェンと対戦するのはスリリングだった。毎回やりあう度、彼はアグレッシヴな態度で競ってきた。彼は神経質だったのではない、僕が彼に対するように彼は僕に対してきたんだ。だから、僕らは過去にいくつかの素晴らしい対決が持てたし、不幸な事にそれらは短い(期間の)対決だったんだ」(マイケル・ジョーダン)


NBA史上初と言って差し支え無い、ユーロから来た選手で初めてNBAチームのエースとなった選手。NBAでのスターとしての期間は僅か2シーズンで終わってしまいましたが、その足跡は決して色あせる事は無いでしょう。昨今のNBAでこそ普通にユーロはじめアメリカ国外出身の選手達が多数活躍していますが、今日の隆盛にはペトロヴィッチのような先駆者の存在がある事を覚えておいて欲しいと思う次第です。



※参考文献

ウィキペディア
Wikipedia
NBA.comより伝記
バスケットボールリファレンス.comよりキャリアスタッツ
ドリームチーム戦績
ニューヨークタイムス紙より、逝去直後の記事



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新・栄光無き天才たち2 ラリー・ジョンソン〜バスケットおばあちゃん〜

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フューチャー・ブルズ、という言葉がかつてありました。マイケル・ジョーダン時代のシカゴ・ブルズが絶頂を極めていた頃、このブルズの後に新たにリーグを席巻するチームはどこだろう?という期待を込めた議論の際、シャーロット・ホーネッツ(現ニューオリンズ・ホーネッツ)の名前が挙がる際に彼らの事を「フューチャー・ブルズ」と呼んだのです。そのフューチャー・ブルズ時代のホーネッツを代表する選手が、今回取り上げるラリー・ジョンソンです。

ラリー・ジョンソンは1954年11月28日、ケンタッキー生まれ。ケンタッキー大学で4年を過ごしたのちに2巡目24位でバッファロー・ブレーブスに指名されるも1シーズン4試合の出場のみでNBAを去り、その後はアメリカ国外でプレー・・・ってそれは同姓同名の別人ですw いやー、確かにシンプルな名前だとは思ってましたがいるもんですね、同じ名前。今回調べていて初めて知りましたよ。

フェイントはそれぐらいにして本題へ行きましょう。ラリー・ジョンソン(以下LJ)は1969年3月14日、テキサス州タイラー生まれです。スカイライン高校時代には既にその名を知られていた存在であり、'87年にはマクドナルド高校オールアメリカンチームに選出されます。19才以下でのFIBA世界選手権チームにも選出された彼が進学した大学は地元テキサスのオデッサ・カレッジでした。最近少ない気がしますが、名門で無くても地元の大学を選ぶという選択肢を選んだ訳ですね。但し、この大学、実はジュニアカレッジ、日本で言うところの短大に当たります。

LJはこのオデッサ・カレッジで1年目には22.3得点12.3リバウンドを稼いでジュニアカレッジ・プレーヤー・オブ・ザ・イヤーに選出されました。2年目には29.8得点10・9リバウンドでまたしてもプレーヤー・オブ・ザ・イヤー選出という活躍を見せていたLJは、この時点でもNBAドラフトにエントリーすれば1巡目指名されるだろうと言われていたのです。ただ、このタイミングで彼が選択したのはネヴァダ=ラスヴェガス大(UNLV)への転校でした。名将ジェリー・ターカニアン率いるUNLVには、後にNBA入りを果たす事となるステイシー・オーグモンとグレッグ・アンソニーが在籍していました。



転校1年目からLJは環境の変化に関係無くチームの中心人物として活躍します。そして'90のNCAAトーナメントでも彼らは問題無く勝ち上がり、決勝ではコーチKが率いるデューク大と対戦。レイトナー、ボビー・ハーリーを擁するこの強豪相手になんとUNLVは103-73で圧勝、NCAAトーナメント史上最多得点・最多点差の記録をマーク。LJも22得点11リバウンドで優勝に貢献しました。リクルート活動違反などの咎でUNLVがペナルティーを受けた翌シーズン、しかしUNLVは27戦無敗でトーナメントに突入する圧倒的強さを発揮します。このシーズンも彼らはトーナメントを勝ち上がり、ファイナル4まで進出を果たしたのです。UNLVがNCAAトーナメントで2年連続ファイナル4入りを果たしたのはこの時だけですね。なお、準決勝ではデューク大と対戦し、この時は前年のリヴェンジを喰らって敗退しています。

UNLVでの2年間でLJは21.6得点11.2リバウンド、そして実に65%近いFG成功率をマークします。そしてスポーティング・ニュース誌の選出するカレッジ・プレーヤー・オブ・ザ・イヤー、ネイスミス賞、ウッデン賞を受賞し、NCAAトーナメントMVPとオールアメリカン1stチームには2年連続選出。たった2シーズンだけで彼はUNLV史上総得点数で12位、総リバウンド数で7位のレコード、更には1シーズンでのFG成功率記録をマークするなど、最早その名声は揺るぎ無いものとなったLJは満を持して'91ドラフトにエントリー。エクスパンションチームとして4年目を迎えようとしていたホーネッツに1位指名を受けて入団を果たしたのです。

チーム創設時のエクスパンションドラフト(他球団在籍選手を獲得する特別ドラフト)でマグジー・ボーグス、デル・カリーを指名し、この前年にはケンドール・ギルをドラフトで指名していたホーネッツは徐々に上昇の兆しを見せ始めます。そしてLJはNBA1年目から全試合に出場(うち77試合先発)、19.2得点11.0リバウンド3.6アシストという申し分無い成績で新人王に輝きました。オーランドで開催されたオールスターのダンクコンテストでも2位と頑張りましたね。そして翌シーズン、ホーネッツはドラフト2位指名権で本格派センター、アロンゾ・モーニングを指名。ここに強力かつ若さと躍動感に満ちたホーネッツのフロントコートが結成されたのです。ボーグスからのパスで彼らが叩き込むパワフルなアリウープはこの時代のNBAハイライト映像の定番となっていきました。



モーニングを加えたホーネッツは一躍躍進を果たし、チームは一気に44勝を挙げて初プレーオフ進出を達成。LJ自身もホーネッツ史上初のオールスター先発出場を果たします。そしてこの'93プレーオフでは1stラウンドでモーニングのブザービーターにてセルティクスを下し、世代交代を大いに印象付ける結果となったのです。冒頭で紹介した「フューチャー・ブルズ」というフレーズはこの頃生まれました。確かにこの時、ギル、LJ、モーニングを擁するホーネッツの前途は洋洋たるものにしか思えなかったのです。カンファレンスセミファイナルでニックスに敗れたとはいえ、経験を積んで行けばこのチームの未来は非常に明るいものと誰しもが信じました。



LJが契約していたコンヴァースのCMでブレイクしたのもこの頃です。このおばあちゃんに扮してダンクするというCM演出の妙が功を奏し、コンヴァースも売り上げを伸ばしました。CMで使われていた「グランママ」という名称がそのままLJ自身の愛称となるなど、このCM人気がLJ自身の人気に跳ね返ったのも言うまでもありません。彼個人としてのピークはこの時代だったと言えるでしょう。

ところが、フューチャー・ブルズは思わぬ形で崩れていったのです。まずギルがこのシーズンオフ、シアトル・スーパーソニックスへ移籍して生え抜きBIG3が早くも崩壊。ジョーダン一度目の引退後とあって正にポストジョーダン時代に突入していたというのに、LJとモーニングも揃って故障欠場があった'93-'94シーズン、ホーネッツは41勝にとどまってプレーオフを逃します。但しLJとモーニングは世界選手権代表、通称「ドリームチームII」に揃って選出され、見事金メダルを勝ち取りました。

翌'94-'95シーズンにはホーネッツは50勝まで勝ち星を伸ばします。これはこの時点では球団史上ベストリザルトでありました。ただ、不運な事にこのシーズン途中、マイケル・ジョーダンが復帰してきたのです。迎えたプレーオフ、1stラウンドでホーネッツと対戦したのが正にこのブルズでした。そして、復活したばかりのジョーダンというやり難い相手にホーネッツは1勝3敗で敗退してしまいます。最終戦での審判の微妙なジャッジに対してLJが「リーグはブルズとマジックの対戦が見たかったんだろうよ」という愚痴のような一言を残して去っていったのが象徴的でした。フューチャー・ブルズは皮肉にも元祖ブルズに進路を阻まれてしまったのです。

そして'95-'96シーズン冒頭、フューチャー・ブルズは完全に崩壊してしまいます。これは'93年10月にLJがホーネッツと12年8400万ドルという当時最高額での再契約を果たしていた事に端を発します。モーニングはこの当時としては超大型契約を見て、ホーネッツに対して自分にもそれ以上の大型契約を求めたのです。若手スター選手同士故の意地の張り合いは2人の折り合いを悪くします。かくて、結局ホーネッツはモーニングとの再契約を断念、彼をシーズン開幕寸前にグレン・ライスやマット・ガイガー等と交換でヒートへトレードしてしまったのです。このトレードがホーネッツのフューチャー・ブルズ時代を終わらせました。チームはまたも41勝に後退してプレーオフを逃します。そしてこの'96オフ、LJもまたアンソニー・メイソンらとのトレードでニックスへと去ったのです。

実のところ、LJは背中の故障を抱え、PFらしい豪快なプレーは徐々に鳴りを潜めていきました。そもそも6-7という背丈の低さでPFとしてやっていた事自体が凄かったのですが、それにしても彼の体にガタが来るのはいかにも早かったのです。その結果、彼は徐々にアウトサイドに活路を求めます。それが顕著なのが3ポイント成功率でして、ホーネッツでのラスト2年間で既に彼の3ポイント成功率は.360を上回っていたのです。

ニックスに移籍してからのLJはしかし、最早チームのエース足り得る力は失いつつありました。オールスターに選出される事も最早無くなった彼はニックスで12.8得点5.2リバウンドとスタッツも低迷しますが、出場した76試合全てで先発の座は守りました。翌'97-'98シーズンも70試合全て先発して15.5得点5.7リバウンドとやや成績は好転します。しかし真の問題はポストシーズンにこそありました。「栄光無き天才たち」シリーズのユーイング編で触れた通り、'97プレーオフではチャーリー・ウォードとP.J.ブラウンの乱闘がきっかけでニックスはウォードはじめ主だった選手達が出場停止処分を受けましたが、その中には第7戦を出場停止とされたLJも含まれていたのです。かくて3勝1敗からニックスは3連敗して敗退。そして翌'98プレーオフは更に事態がエスカレートし、またも1stラウンドで対戦したニックスとヒートの戦いは2年連続乱闘へ発展します。そしてその主役は、なんとホーネッツでチームメイトだったLJとモーニングだったのです。



この乱闘についてどっちが悪いとか言うつもりもありませんが、とりあえずあのボクシングのようなパンチの応酬を見て「あー、この2人本当に仲悪いのね」と思わずにはいられなかったですね、正直。こんな凄まじいファイトが始まったところへ髪を振り乱して飛び込み、モーニングの足を掴みながら必死にバトルを止めようとしたジェフ・ヴァンガンディHCの株が著しく上がったこの乱闘の結果、今度はモーニングが第5戦出場停止となります。プレーオフ1stラウンドが5戦勝負だったこの時代、今度はヒートが乱闘で致命的なダメージを喰らう番でした。最終戦にニックスは勝ち、カンファレンスセミファイナルへ。しかしそこでペイサーズに敗れ、このポストシーズンは終わりました。

そして短縮シーズンとなった'98-'99シーズン。スタークスとのトレードでスプリーウェルが、オークリーとのトレードでラプターズからキャンビーがやってきたニックスは新戦力をヴァンガンディHCが積極的に起用しなかったこともあって伸び悩み、27勝でかろうじてプレーオフ第8シードに入ります。そして1stラウンドの相手はまたもヒートでした。メンバーは変われどシリーズの熱さは変わらず、シリーズはまたも最終戦の最終盤まで縺れ込んだ末にニックスが勝ちます。史上2チーム目となる第8シードのチームによるアップセット、しかも宿敵ヒート相手とあって勢い付いたニックスは続くカンファレンスセミファイナル、ムトンボを擁するホークスをなんとスウィープで圧倒し、カンファレンスファイナルへ駒を進めたのです。対戦相手はまたもペイサーズでした。



1勝1敗と星を分けての第3戦、残り5.7秒にニックス時代のLJを代表するハイライトプレーが飛び出しました。アントニオ・デイヴィスにディフェンスされたLJはしかし、構わず同点をかけて3ポイントを放ちます。鳴り響くファウルの笛、そしてリムに吸い込まれるボール。その瞬間マディソン・スクエア・ガーデンの観客は一斉に立ち上がり、場内は歓喜の声に満ち溢れたのです。一時NBAのハイライトでも使われていたこの瞬間、LJのシュートが決まった刹那に総立ちになるマディソンの光景が、私は物凄く好きなんですよね。この4ポイントプレーで第3戦を取ったニックスは結局4勝2敗でペイサーズを振り切り、第8シード史上初のファイナル進出を果たしたのであります。LJが決めるビッグLポーズはこのミラクルニックスを象徴するポーズでした。

しかし、さしもの快進撃もデヴィッド・ロビンソンとダンカンのツインタワーを擁するスパーズには通じませんでした。ユーイングが怪我で出られずダドリーとキャンビーをCに、LJをPFにしていたニックスにとってスパーズの高さは致命的だったのです。かくてLJ初の、そして最後のファイナルは1勝4敗で終わりを告げました。

翌'99-'00シーズンにニックスは50勝を挙げ、チームはカンファレンスファイナルまで勝ち進みます。しかしながらLJには早過ぎるキャリアの黄昏が近づいていました。得点は前年の12.0得点から10.7得点へとダウンします。プレーオフもペイサーズ相手に頑張りましたが最終的にはリヴェンジを喰らって敗退しました。そして'00-'01シーズン、とうとうLJのスタッツは9.9得点5.6リバウンドと、得点アヴェレージが2桁を割り込みます。F成功率も.411とガード選手以下に落ち込んだ彼の体は最早限界だったのです。かくてLJは'01年の10月10日、遂に引退を発表。実に32才の若さでした。その後、'07年に現役復帰の意思ありとの報道もありましたが実現には至っていません。

NBAデビュー時の華やかさを思えば、彼のキャリアは予想以上に静かな終わりを告げました。もしもあのままホーネッツでモーニングと組んでいたら、背中の故障が無ければ彼のキャリアはどうなっていたのかと思わずにはいられません。殿堂入りは母校UNLVでしか達成出来ませんでしたが、特に'90前半のNBAを知る世代にとって、彼は記録以上に記憶に残る存在であり続ける事でしょう。



※参考文献

ウィキペディア
Wikipedia
オデッサカレッジHP
NBA.comよりキャリアスタッツ
バスケットボールリファレンス.comよりキャリアスタッツ

P.S.1
コメント欄のGP!HUGOさんの書き込みが本エントリーの注釈として非常に秀逸ですので、是非そちらもご覧になって下さい。

P.S.2
SLAM誌HPにて、ラリー・ジョンソンが「グランママ」CM収録時のエピソードを語っていますので参考まで。なお、元々の記事が載っていたのはスポーティングニュースです。

http://www.slamonline.com/online/nba/2011/07/how-larry-johnsons-grandmama-character-came-to-be/




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新・栄光無き天才たち1 レジー・ミラー〜反逆のクラッチシューター〜

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"On the road, I always go for 3s. I knew it was coming. You knew it was coming. The crowd knew it was coming."

「ロードではいつも3で行くんだ。俺も(3が来るのを)分かってた、あんたらも分かってた。観客だって分かってたさ」

私がNBAを見始めて20年になりますが、これ以上格好良い台詞を吐いた選手を未だ知りません。お待たせしました、新シリーズ第1回目は以前からの約束通り、レジー・ミラーです。

ただ、ミラーともなると正直知名度はまだまだ高いですし、何度と無くD誌やH誌で特集される事も珍しくありませんから皆さんもある程度基本的な情報はご存知ですよね。生まれつき足が曲がっていた事、女子バスケット界のスーパースターだった姉シェリルにはなかなか敵わなかった事、UCLAでのキャリア得点数2位、単独シーズンでのUCLA記録3つ(総得点数、平均得点、FT数)、NBAでの彼の名声を決定的にしたニックスとの名勝負数え歌、'95年のカンファレンスセミファイナルで見せた8.9秒で8得点の奇跡、スパイク・リー監督とのトラッシュトークの応酬、マイケル・ジョーダンを相手にしてもなお怯まない鼻っ柱の強さ、レイ・アレンに抜かれるまで1位だったキャリア通算3ポイント成功数。彼のキャリアはリングを持たない選手とは思えないほどのエピソードに満ち満ちています。

http://www.kaiyou-k.jp/millerretsuden.htm
http://blogs.yahoo.co.jp/ilovenbanak/16674456.html

ざっと検索してみても、ミラーについて熱く語った記事はネットに既に複数あります。ですので、今回はミラーのプレースタイルやキャリアを細かく振り返っていく作業は先達の皆様方の記事にお任せし、私は私なりの視点でミラーの魅力を語りたいと思います。

NBAというリーグの主役はジョーダンのような看板役者、そしてレイカーズやニックスのような大都市チームである事に今も昔も変わりはありません。そんな中にあって、インディアナ・ペイサーズという決してリーグのメインストリームでは無い、しかもABAから合流してきたやや外様のチームでプレーしたミラーという選手は、ブルズやニックスといったリーグのメインストリートを行くチームに対してのカウンター的な存在であり続けたのです。

別に本人が望んでそうなった訳ではありません。実際、彼もFAでニックス行きを狙っていた事がありました(代わりに入団したのがアラン・ヒューストンだったと当時言われました)。ペイサーズでキャリアを終えた事は実は偶然の要素もあった事は確かです。その意味では巨人志望でありながらドラフトで指名されなかった恨みをぶつけて巨人キラーと化した、現役時代の星野仙一に近いものがあるかも知れません。



ニックスとのプレーオフ対戦時にスパイク・リーとやり合った時の、このミラーの闘志溢れる表情を見て下さい。もしかしてシュートが外れたらどうしよう、なんて弱い気持ちは微塵も感じられません。むしろ彼の表情は絶対に決めてやる、という自信に満ち溢れているではありませんか。アウェーのプレッシャーなどお構い無しのこのメンタルタフネス、現役選手でそうはいません。後日、スパイク・リーとも交流が出来たのみならず、ニューヨークに編集部があったSLAM誌でも、決して不可能だろうと思われていた表紙掲載を勝ち取ったのは、彼のプレー振りをニューヨーカー達も認めたからこそでしょう。



'93年、対ブルズ戦でジョーダン相手にぶつかっていって両者テクニカル&ミラーのみ退場なんて事もありました(乱闘は動画40秒ぐらいから)。そもそも乱闘してなんで片方だけ退場なのかって話なんですが、既にリーグのトップスターとして君臨していたジョーダンに向かってこういう事を仕掛けたところで、同じような扱いになる訳が無いんですよね。でも、そんな事ミラーには関係無かったのです。

それどころかミラーはジョーダンというスーパースターについて「妬んだ」とまで言ったそうです。「尊敬する」とか「ライヴァルだ」とかそんなレヴェルじゃありません。「妬んだ」んですよ。この台詞、なかなか出るもんじゃありません。この発言もまた、ミラーの闘争心の表れだと言えます。



そんな彼だからこそ、このジョーダンをフッ飛ばしての逆転3ポイントを決めて'98年のカンファレンスファイナルで常勝ブルズを後一歩まで追い詰める事が出来たとも言えます。ジョーダンを擁してブルズが優勝した6回のプレーオフでの行程において、ブルズ相手に3勝4敗まで持ち込めたチームはこの時のペイサーズ、そして'92年のニックスだけなのです。

そして冒頭に紹介した台詞。これは、'01プレーオフ1stラウンド、対シクサーズ初戦で決勝3ポイントをアウェーで叩き込んで勝った後の記者会見でのコメントなのです。両者は3年連続プレーオフで合間見えており、この前2回はペイサーズが勝利。そんな因縁のある対戦、しかも第1戦であの言葉を言えるのはちょっと凄いです。もっとも、結局この時はシクサーズがシリーズを制する事となりました。

この前年にペイサーズはファイナルまで勝ち進むもレイカーズの前に敗れ去り、この年にはそのペイサーズを倒したシクサーズがファイナルでレイカーズに唯一の黒星をつけるもこれまた敗れる事となります。レジー・ミラーとアイヴァーソン、共にアンチヒーロー的な2人のエースのキャリアが交差した瞬間でもありました。



結局、ミラーにとって唯一のファイナル進出時にはミラータイムはほぼ見られる事はありませんでした。その後もキャリアは続いたものの'04年11月のペイサーズ対ピストンズの大乱闘劇があった翌シーズン、そのピストンズとのカンファレンスセミファイナルでの敗戦を最後に遂にユニフォームを脱ぐ事となります。一度はニックス行きに心が傾いたこともあったものの、カール・マローンやペイトンが優勝の機会を求めて格安の契約でレイカーズ入りを果たした時には「俺はリング欲しさの移籍なんかしない」と彼らしい毒を吐き、結局はペイサーズでキャリアを全うしたのです。後日、セルティクスでBIG3が結成された時も声が掛かった彼でしたが、この発言通り彼は現役復帰はしなかったのです。

今や解説席での姿が増えた彼ですが、ここでもレポーターとして大活躍中の姉シェリルに一歩後れを取ってしまいました。選手としてのみならず、今度は画面の中で姉弟の対決は続いているのです。3ポイントの記録においてレイ・アレンが彼を追い抜いても、その手にリングが無くても、レジー・ミラーという選手の残したインパクトはそう消えるものではないでしょう。試合終盤、背番号23の次に恐れられた背番号31の反逆者スピリットを、放送席で彼のスーツ姿を見る度に噛みしめながら思い出していきたいと思います。





マクファーレントイズ NBA フィギュアシリーズ7 レジー・ミラー/インディアナ・ペイサーズ
マクファーレントイズ NBA フィギュアシリーズ7 レジー・ミラー/インディアナ・ペイサーズ
この文を書きたる者
ペニー
六伍壱 ◆MAGICcvM2E
昔の名前はセントトーマスこと 「NBA MAGICAL INSIDE」 (現在更新停止)管理人、 2chマジックスレ は最近はご無沙汰。シャック&ペニー時代からマジックを追っかける'90s世代NBAファンです。耳寄り情報・ご要望・リクエスト・リンク希望・ツッコミetcはmagicalinside651@gmail.comまでドゾー。twitterにもおりますので「六伍壱」で検索してみて下さい。
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