前編はこちら
一時はNBAに戻る事すら不可能かと思われたスプリーのキャリアは、スプリー自身の異議申し立てによる調停の結果何とか救われました。無期限出場停止処分が68試合の出場停止へと緩められ、無効とされた彼のNBA契約も元通りとなったのです。68試合とはスプリーがこの'97-'98シーズンに既に14試合出場を果たしていたため、残り68試合の出場を停止したものであって、要するにシーズン全休を命じられた訳ですね。この68試合出場停止というのは、コート上での事件を原因とする出場停止処分としてはNBA最長記録となります。スプリーに不名誉な勲章が加わってしまった訳です。それでも、NBAに戻れる訳ですから全然OKでしょう。
ただ、このシーズンが終わってもなお、スプリーがNBAのコートに立つ機会はすぐには訪れませんでした。それはスプリー自身の問題ではなく、ロックアウトが原因だったのです。時は正に労使交渉が決裂し、シーズン消失が噂されていた'98-'99シーズン。イレギュラーな形でスプリーの復帰は更に延長されました。
そして遂にロックアウトが終わり、50試合に短縮された'98-'99シーズンが始まる段になります。しかしながら、あれほどの事件を起こしたスプリーがウォリアーズにそのまま戻れるはずもありません。スプリーには新天地が必要でした。そんなウォリアーズのトレード相手となったのがニックスだったのです。テリー・カミングス、クリス・ミルズ、そして「ニューヨークの魂」と謳われた熱い男、ジョン・スタークスとの1対3トレードで、スプリーはシスコからNYCへの劇的な移籍を果たしたのです。そしてコンヴァースとの契約を失ったスプリーは、新興ブランドAND1のバッシュを履く事となります。
しかしながら、ニックスには既にアラン・ヒューストンという先発SGがいました。しかも出場停止以来の大ブランクもあります。結果、スプリーは彼のキャリアにおいて唯一、このシーズンだけはほぼベンチスタートでの起用となったのです。37試合中先発は僅か4試合、40分近かった出場時間も33.3分にダウン。それでもユーイングに次ぐチーム2位の16.4得点を挙げていたのは立派なものですが。
しかしながら、ニックスのこのシーズン成績は決して良いものではありませんでした。ヒート、ペイサーズ、マジックの3チームが首位を争うイーストにあってニックスはかろうじて勝ち越すのがやっとの成績。やっと27勝23敗で勝ち越し、シャーロット(現ニューオリンズ)・ホーネッツと1ゲーム差という僅差を制してイースト8位でプレーオフに滑り込んだのです。ところが、この8位というのがニックスにはラッキーでした。東の第1シードはニックス不倶戴天の敵、マイアミ・ヒートだったのです。
'96-'97シーズン、ニックスのHCだったパット・ライリーが'95年にニックスHCを辞してヒートHC/GMに就任して以来、ニックスとヒートのライヴァル関係は一気にヒートアップします。ニックスはライリー辞任後、あのドン・ネルソンをHCに据えるもシーズン途中で辞任、代わってライリー時代からのACだったジェフ・ヴァンガンディがHCに昇格していました。そしてニックスとヒートは、'96年からプレーオフで毎年のように、どころか毎年対決を繰り広げたのです。この経緯については「栄光無き〜」のユーイング、「新・栄光無き〜」のラリー・ジョンソンの際にも触れた通りですね。
そんな因縁の両チームが、2年連続1stラウンドでぶつかったのです。前年も第7シードだったニックスが第2シードのヒートを3勝2敗(当時の1stラウンドは5試合)で下しており、第1シード対第8シードと言えども全く関係無い戦いであると、ニックスとヒートの両方が正確に理解していました。
第1戦、ニックスはアウェーで95-75という衝撃の圧勝で早くもホームコートアドヴァンテージを強奪します。ヒートも負けじと第2戦を83-73で取ったものの、第3戦でホームへ戻ったニックスが97-73とまたしても圧勝し早くも王手をかけます。このままニックスが地元で一気に決めるかと思われた第4戦は87-72でヒートが踏み止まって逆王手。両者の決戦は、3年連続最終戦に持ち込まれたのです。そして第5戦は最後まで縺れ続ける大熱戦の末、ニックスがヒューストンのブザービーターで制したのです。NBA史上2度目となる、第8シードによる第1シード撃破の瞬間でした。
このシリーズ、続くカンファレンスセミファイナルでホークスをあっさり4タテで降す間もスプリーは引き続きベンチスタートでした。そしてカンファレンスファイナルの対戦相手はこれまたニックスの宿敵だったペイサーズ。ここで、転機が生じます。アキレス腱の故障と戦いながらもここまでコートに立ち続けてきたユーイングが、遂に第3戦より欠場を余儀無くされたのです。
ここまでニックスはチャーリー・ウォード、ヒューストン、ラリー・ジョンソン、カート・トーマスとユーイングを先発に立てていました。LJが劇的な4ポイントプレーを決めた第3戦、ヴァンガンディはユーイングに代わってクリス・ダドリーを先発Cに昇格させ、実際にはベンチから出場のマーカス・キャンビーをより長時間起用してこの第3戦を勝利します。そして第4戦、ニックスは更に先発メンバーを変更。カート・トーマスと交代でスプリーを先発へと昇格させたのです。これ以降、ニックスはシリーズをウォード、ヒューストン、スプリー、LJ、ダドリーという先発ラインアップで戦う事となります。
2勝2敗で臨んだ第5戦、スプリーは一気に約45分もの出場時間を得て29得点5リバウンド3アシストを叩き出します。ベンチからのキャンビーも21得点13リバウンド6ブロックと大爆発したこの試合でニックスは101-94と王手をかけ、第6戦も90-82で勝利。ここに、NBA史上初となる第8シードからのファイナル進出が実現したのでした。スーツ姿のユーイングと、喜びに打ち震えながらボールを投げ上げるスプリー、真っ先にヴァンガンディHCと抱き合うヒューストン、そして喜び合うチームメイト達の上に飛び乗るキャンビー。それは今にして思えば、ニックスの主役が完全に交代した瞬間だったと言えるでしょう。
そしてファイナルの相手はサンアントニオ・スパーズ。ダンカンとデヴィッド・ロビンソンというツインタワーに相対するには、ニックスのインサイドは非常に小粒でした。何しろダドリーは本来ブロックショットしか売りが無い控えセンター、先発PFのLJは6-7という背の低さです。大ヴェテランのハーブ・ウィリアムズに多くは望めず、後はキャンビーとカート・トーマスだけがニックスインサイドの頼みの綱だったのです。いかにここまでミラクルを演じてきたニックスとはいえ、流石にこれは相性が悪過ぎるように思われました。
実際、ファイナル開始早々ニックスはサンアントニオで連敗という苦しいスタートとなります。ニューヨークに戻ってキャンビーを先発Cに起用した第3戦はヒューストン34得点の活躍でようやく取ったものの、第4戦も敗戦してニックスは崖っ淵に追い込まれたのです。スパーズのツインタワーは、文字通りニックスにとって高い壁であり続けました。
そして運命の第5戦、ミラクルを信じるニューヨークの大観衆の声援を背にニックス、そしてスプリーは諦める事無く戦い続けました。誰よりも多くショットを放ち続け、最後まで勝利を信じて戦い続けたのです。
http://www.basketball-reference.com/boxscores/199906250NYK.html
そして77-78となった最後の場面、ゴールへ走りこみながら受け取るはずだったボールはゴール下へ入り過ぎました。スプリーがシュートを放とうにもスパーズのディフェンスが彼を取り囲みます。何とかゴール左へ抜け出し、ツインタワーに阻まれながらかろうじて放ったジャンパーはリムに当たる事さえなく外れ、ここにニックスのミラクルランは終わりを告げたのです。35得点10リバウンド、それがこの試合でのスプリーのスタッツでした。
ともあれこの劇的なファイナル進出をもって、スプリーは首絞め事件の汚名を濯ぎました。SLAM誌はスプリーを表紙にし、「いかにして彼はNBAを救ったか」という見出しを持ってきたのです。実際ロックアウトとマイケル・ジョーダン引退によるダメージが危惧されたNBAをミラクルニックスが盛り上げた事は否定出来ない事実でありました。
AND1によるこの挑発的なCMも、こうなると大成功です。AND1は「ラトレル・スプリーウェルの誇り高いサポーター―――人気が出る更に前から」といい感じに調子に乗ったキャッチコピーで広告を打ちまくりました。カーターのダンクコンテストで一躍大ブレイクを果たす前のAND1人気の先駆けはここにあったんですね。
ともあれ、ニックスファンの心を完全に掴んだスプリーはヒューストンと共にスタークス&ユーイングに代わるニックスの看板選手となっていきます。翌シーズンからは完全に先発SFに定着、ヒューストンと共にチームの得点源1-2パンチとして活躍しました。ウォリアーズ時代から変わらない速攻からのボースハンドダンクはニックスファンの新たな楽しみとなったのです。
カンファレンスファイナルまで再び勝ち進んだ2000年には5年の契約延長を果たし、2001年には通算4回目となるオールスター出場。またキャリアハイとなる49得点をマークしたのも2001年です。スプリーはこの頃、完全にリーグ有数のスター選手のステータスを回復したといえます。
ただ、ニックスは2000年のユーイング退団後徐々に成績を降下させていきました。スプリーと中の良いクリス・ウェバー移籍の噂もあったものの実現する事は無く、一方でLJが引退、チーム内の親友キャンビーがマクダイス等との交換でナゲッツへとトレードされるなど、徐々にミラクルニックスは解体されていきました。
そしてスプリー自身もまた、NBA記録となる失敗無しでの3ポイント成功数9本という記録を置き土産として、ニックスを去る時が来ました。2003年7月23日、ホークスとシクサーズを交えた四角トレードの末にスプリーが向かった新所属先は、ミネソタ・ティンバーウルヴスだったのです。NBA最高のPFの1人だったケヴィン・ガーネットを擁しながらも、強豪ひしめくウエストにあってウルヴスは50勝を挙げながら1stラウンドでの敗退を重ね続けていました。'96年から実に7年連続の1stラウンド敗退という蹉跌の日々から脱出する為、ウルヴスは勝負に出たのです。
スプリーの4日後にサム・キャセールもトレードで加わり、ウルヴスはキャセール、スプリーにKGというビッグ3体制を構築。今ひとつ突き抜けられなかった強豪ウルヴスは一気に飛躍を遂げたのです。チーム史上最高となる58勝をマークしたウルヴスは一躍ウエスト1位&KG初のシーズンMVPという成果を携えてプレーオフへ突入します。
1stラウンドではカーメロ、そして親友キャンビーを擁するナゲッツに4勝1敗とし、遂にウルヴスは長年突破出来なかった1stラウンドの壁を突破します。続くカンファレンスセミファイナルの相手はまたも親友ウェバー(KGにとってもウェバーは親しい間柄でした)率いるキングス。流石に長年シャック&コービーの常勝レイカーズを脅かしてきた強豪だけあり、両者の戦いは最終戦まで縺れ込みます。
この大熱戦、実はKGの誕生日でもありました。こんな日に負けられないとばかり、KGは32得点21リバウンド4スティール5ブロックという凄まじいスタッツを叩き出します。それでもなお、試合は最後まで分かりませんでした。キングスの試合終盤3点差を追っての猛攻を必死で凌ぐウルヴス。残り2.5秒からウェバーの放った3ポイントが外れ、ウェバーがガックリとコート上に崩れ落ちると共に、ウルヴスのカンファレンスファイナル進出が決まったのでありました。スプリーにとってこれが3度目の、そして最後のカンファレンスファイナルとなったのです。
残念ながらカンファレンスファイナルではビッグ3の奮闘も空しく、シャック&コービーにペイトンとカール・マローンまでもが加わったレイカーズの前に2勝4敗で敗れ去ります。とはいえこの成果を叩き出したウルヴスは当面安泰かと思われました。ところが、ウルヴスのビッグ3体制は翌シーズンにはあっさり弱ってしまいました。
先にスプリーがニックスとかわした契約は'04-'05シーズンをもって終わろうとしていました。そんなスプリーにウルヴスは3年2100万ドルとそれまでより低い年俸となる契約をオファーしたのですが、スプリーはこれを拒みます。その時スプリーが公の場で吐いたコメントがこれでした。このヒト、またしてもブチ切れちゃったんですね。
"I have a family to feed ... If Glen Taylor wants to see my family fed, he better cough up some money. Otherwise, you're going to see these kids in one of those Sally Struthers commercials soon."
かくて、スプリーは再契約もままならない中でフラストレーションを抱えながらプレー、それが影響したかのようにチームのモチヴェーションもダウン。チーム成績までも一気に44勝にダウンしてプレーオフすら逃してしまうのです。この事について後にKGはウルヴスのオーナー、グレン・テイラーが再契約の金額を惜しんだ為に良いチームが台無しになった、といった趣旨の批判を行っています。
ともあれ、この'04-'05シーズンを最後にスプリーはFAとなります。しかしながら、35才になろうとするスプリーにオファーをするチームは現れなかったのです。ナゲッツ、キャヴス、ロケッツは興味を示したとされるものの実際のオファーには結び付きませんでした。その後も「最低保証額でプレーするぐらいなら引退する。金には困っていない」などとウルヴスのオファーを断った時と正反対の強がりコメントを出したりしながら機会を伺いましたが、そんなスプリーが望むようなオファーをするチームはありませんでした。
'05-'06シーズン始めにはレイカーズとの話があったとも言われてます。また2006年3月にはプレーオフへ向けての補強を目論むマヴスとスパーズからコンタクトがあったものの、スプリーがまともに連絡を取らずに話は無くなりました。2006年といえばマヴスがファイナル進出を果たした年だったんですけどね・・・。もしマヴスに入っていればファイナルで宿敵ヒートとの対戦だっただけに残念です。かくて、スプリーがNBAの舞台に戻る事は最早無かったのです。
その後のスプリーに関する情報はトラブルばかりでした。2006年8月には21才の女性との性行為中に(よりにもよって)首を絞めたとしてミルウォーキー市警に取調べを受ける羽目になります。2007年1月には大学時代からの妻との離婚のため、子供4人の養育費を請求される事となります。
http://sports.espn.go.com/nba/news/story?id=3241444
その支払いが出来ない為に、スプリーが所有していたヨットが売りに出された話は大きく報じられました。ミルウォーキーの邸宅やニューヨークのウェストチェスターに所有していたマンションも抵当に入るなど、何であの時ウルヴスのオファーを断ったのこのヒトと言わざるを得ないようなニュースがその後も続いたのです。これは養育費だけの問題ではなく、そもそもスプリーが車好きでモータースポーツ方面にお金を浪費していた事も原因のひとつだったようですね。そう言えば、AND1の後でスプリーが契約したシューズ、DADAのシグニチャーモデルには車輪が回転するモデルが存在していました。
実のところ、その後スプリーの消息は途絶えています。NBA以外の場での復帰も無ければコーチをするでもなく、何か新たなビジネスを始めたという情報も無いのです。ただ、ウィスコンシン州にて彼が納税滞納額No.1という情報がありますので、生活には苦労しているんじゃないでしょうか。親友ウェバーやキャンビーに頼ったりとかしているのでしょうかね。かなーり心配なので、そろそろSLAM誌あたりのインタヴューを期待したいところです。
今やすっかり音沙汰無くなってしまいましたが、'90〜'00年代NBAにおいて最もエキサイティングな選手の1人として、スプリーの名前は絶対に外す事は出来ません。いつかまた彼が、元気な姿を公の場に見せてくれる事を信じたいと思います。
※本文引用以外の参考文献
ウィキペディア
Wikipedia
Answers.comよりスプリーウェル記事
encyclopedia.com
ESPNクラシックより「Sprewell's Image Remains in a Chokehold」
CBS SPORTS.comより「Report: Sonics set to make Spurs assistant Carlesimo coach」
スポーツ・イラストレイテッド誌HPより「Centre Of The Storm」('97年12月15日号)再録
wineandbowties.comより「ALL CHOKED UP: THE PARABLE OF LATRELL SPREWELL」
サンフランシスコ・クロニクル紙より「Captain Spree should remain a landlubber」
databasebasketball.comよりキャリアスタッツ
バスケットボールリファレンス.comよりキャリアスタッツ
※チーム成績もバスケットボールリファレンス.comを参考にしました。
マクファーレンNBAシリーズ3【ラトレル スプリーウェル】 (ニックス/ホワイト) / Latrell Sprewell
マクファーレントイズ NBAフィギュア/コレクターズクラブ限定/ラトレル・スプリーウェル/ミネソタ・ティンバーウルブズ
一時はNBAに戻る事すら不可能かと思われたスプリーのキャリアは、スプリー自身の異議申し立てによる調停の結果何とか救われました。無期限出場停止処分が68試合の出場停止へと緩められ、無効とされた彼のNBA契約も元通りとなったのです。68試合とはスプリーがこの'97-'98シーズンに既に14試合出場を果たしていたため、残り68試合の出場を停止したものであって、要するにシーズン全休を命じられた訳ですね。この68試合出場停止というのは、コート上での事件を原因とする出場停止処分としてはNBA最長記録となります。スプリーに不名誉な勲章が加わってしまった訳です。それでも、NBAに戻れる訳ですから全然OKでしょう。
ただ、このシーズンが終わってもなお、スプリーがNBAのコートに立つ機会はすぐには訪れませんでした。それはスプリー自身の問題ではなく、ロックアウトが原因だったのです。時は正に労使交渉が決裂し、シーズン消失が噂されていた'98-'99シーズン。イレギュラーな形でスプリーの復帰は更に延長されました。
そして遂にロックアウトが終わり、50試合に短縮された'98-'99シーズンが始まる段になります。しかしながら、あれほどの事件を起こしたスプリーがウォリアーズにそのまま戻れるはずもありません。スプリーには新天地が必要でした。そんなウォリアーズのトレード相手となったのがニックスだったのです。テリー・カミングス、クリス・ミルズ、そして「ニューヨークの魂」と謳われた熱い男、ジョン・スタークスとの1対3トレードで、スプリーはシスコからNYCへの劇的な移籍を果たしたのです。そしてコンヴァースとの契約を失ったスプリーは、新興ブランドAND1のバッシュを履く事となります。
しかしながら、ニックスには既にアラン・ヒューストンという先発SGがいました。しかも出場停止以来の大ブランクもあります。結果、スプリーは彼のキャリアにおいて唯一、このシーズンだけはほぼベンチスタートでの起用となったのです。37試合中先発は僅か4試合、40分近かった出場時間も33.3分にダウン。それでもユーイングに次ぐチーム2位の16.4得点を挙げていたのは立派なものですが。
しかしながら、ニックスのこのシーズン成績は決して良いものではありませんでした。ヒート、ペイサーズ、マジックの3チームが首位を争うイーストにあってニックスはかろうじて勝ち越すのがやっとの成績。やっと27勝23敗で勝ち越し、シャーロット(現ニューオリンズ)・ホーネッツと1ゲーム差という僅差を制してイースト8位でプレーオフに滑り込んだのです。ところが、この8位というのがニックスにはラッキーでした。東の第1シードはニックス不倶戴天の敵、マイアミ・ヒートだったのです。
'96-'97シーズン、ニックスのHCだったパット・ライリーが'95年にニックスHCを辞してヒートHC/GMに就任して以来、ニックスとヒートのライヴァル関係は一気にヒートアップします。ニックスはライリー辞任後、あのドン・ネルソンをHCに据えるもシーズン途中で辞任、代わってライリー時代からのACだったジェフ・ヴァンガンディがHCに昇格していました。そしてニックスとヒートは、'96年からプレーオフで毎年のように、どころか毎年対決を繰り広げたのです。この経緯については「栄光無き〜」のユーイング、「新・栄光無き〜」のラリー・ジョンソンの際にも触れた通りですね。
そんな因縁の両チームが、2年連続1stラウンドでぶつかったのです。前年も第7シードだったニックスが第2シードのヒートを3勝2敗(当時の1stラウンドは5試合)で下しており、第1シード対第8シードと言えども全く関係無い戦いであると、ニックスとヒートの両方が正確に理解していました。
第1戦、ニックスはアウェーで95-75という衝撃の圧勝で早くもホームコートアドヴァンテージを強奪します。ヒートも負けじと第2戦を83-73で取ったものの、第3戦でホームへ戻ったニックスが97-73とまたしても圧勝し早くも王手をかけます。このままニックスが地元で一気に決めるかと思われた第4戦は87-72でヒートが踏み止まって逆王手。両者の決戦は、3年連続最終戦に持ち込まれたのです。そして第5戦は最後まで縺れ続ける大熱戦の末、ニックスがヒューストンのブザービーターで制したのです。NBA史上2度目となる、第8シードによる第1シード撃破の瞬間でした。
このシリーズ、続くカンファレンスセミファイナルでホークスをあっさり4タテで降す間もスプリーは引き続きベンチスタートでした。そしてカンファレンスファイナルの対戦相手はこれまたニックスの宿敵だったペイサーズ。ここで、転機が生じます。アキレス腱の故障と戦いながらもここまでコートに立ち続けてきたユーイングが、遂に第3戦より欠場を余儀無くされたのです。
ここまでニックスはチャーリー・ウォード、ヒューストン、ラリー・ジョンソン、カート・トーマスとユーイングを先発に立てていました。LJが劇的な4ポイントプレーを決めた第3戦、ヴァンガンディはユーイングに代わってクリス・ダドリーを先発Cに昇格させ、実際にはベンチから出場のマーカス・キャンビーをより長時間起用してこの第3戦を勝利します。そして第4戦、ニックスは更に先発メンバーを変更。カート・トーマスと交代でスプリーを先発へと昇格させたのです。これ以降、ニックスはシリーズをウォード、ヒューストン、スプリー、LJ、ダドリーという先発ラインアップで戦う事となります。
2勝2敗で臨んだ第5戦、スプリーは一気に約45分もの出場時間を得て29得点5リバウンド3アシストを叩き出します。ベンチからのキャンビーも21得点13リバウンド6ブロックと大爆発したこの試合でニックスは101-94と王手をかけ、第6戦も90-82で勝利。ここに、NBA史上初となる第8シードからのファイナル進出が実現したのでした。スーツ姿のユーイングと、喜びに打ち震えながらボールを投げ上げるスプリー、真っ先にヴァンガンディHCと抱き合うヒューストン、そして喜び合うチームメイト達の上に飛び乗るキャンビー。それは今にして思えば、ニックスの主役が完全に交代した瞬間だったと言えるでしょう。
そしてファイナルの相手はサンアントニオ・スパーズ。ダンカンとデヴィッド・ロビンソンというツインタワーに相対するには、ニックスのインサイドは非常に小粒でした。何しろダドリーは本来ブロックショットしか売りが無い控えセンター、先発PFのLJは6-7という背の低さです。大ヴェテランのハーブ・ウィリアムズに多くは望めず、後はキャンビーとカート・トーマスだけがニックスインサイドの頼みの綱だったのです。いかにここまでミラクルを演じてきたニックスとはいえ、流石にこれは相性が悪過ぎるように思われました。
実際、ファイナル開始早々ニックスはサンアントニオで連敗という苦しいスタートとなります。ニューヨークに戻ってキャンビーを先発Cに起用した第3戦はヒューストン34得点の活躍でようやく取ったものの、第4戦も敗戦してニックスは崖っ淵に追い込まれたのです。スパーズのツインタワーは、文字通りニックスにとって高い壁であり続けました。
そして運命の第5戦、ミラクルを信じるニューヨークの大観衆の声援を背にニックス、そしてスプリーは諦める事無く戦い続けました。誰よりも多くショットを放ち続け、最後まで勝利を信じて戦い続けたのです。
http://www.basketball-reference.com/boxscores/199906250NYK.html
そして77-78となった最後の場面、ゴールへ走りこみながら受け取るはずだったボールはゴール下へ入り過ぎました。スプリーがシュートを放とうにもスパーズのディフェンスが彼を取り囲みます。何とかゴール左へ抜け出し、ツインタワーに阻まれながらかろうじて放ったジャンパーはリムに当たる事さえなく外れ、ここにニックスのミラクルランは終わりを告げたのです。35得点10リバウンド、それがこの試合でのスプリーのスタッツでした。
ともあれこの劇的なファイナル進出をもって、スプリーは首絞め事件の汚名を濯ぎました。SLAM誌はスプリーを表紙にし、「いかにして彼はNBAを救ったか」という見出しを持ってきたのです。実際ロックアウトとマイケル・ジョーダン引退によるダメージが危惧されたNBAをミラクルニックスが盛り上げた事は否定出来ない事実でありました。
AND1によるこの挑発的なCMも、こうなると大成功です。AND1は「ラトレル・スプリーウェルの誇り高いサポーター―――人気が出る更に前から」といい感じに調子に乗ったキャッチコピーで広告を打ちまくりました。カーターのダンクコンテストで一躍大ブレイクを果たす前のAND1人気の先駆けはここにあったんですね。
ともあれ、ニックスファンの心を完全に掴んだスプリーはヒューストンと共にスタークス&ユーイングに代わるニックスの看板選手となっていきます。翌シーズンからは完全に先発SFに定着、ヒューストンと共にチームの得点源1-2パンチとして活躍しました。ウォリアーズ時代から変わらない速攻からのボースハンドダンクはニックスファンの新たな楽しみとなったのです。
カンファレンスファイナルまで再び勝ち進んだ2000年には5年の契約延長を果たし、2001年には通算4回目となるオールスター出場。またキャリアハイとなる49得点をマークしたのも2001年です。スプリーはこの頃、完全にリーグ有数のスター選手のステータスを回復したといえます。
ただ、ニックスは2000年のユーイング退団後徐々に成績を降下させていきました。スプリーと中の良いクリス・ウェバー移籍の噂もあったものの実現する事は無く、一方でLJが引退、チーム内の親友キャンビーがマクダイス等との交換でナゲッツへとトレードされるなど、徐々にミラクルニックスは解体されていきました。
そしてスプリー自身もまた、NBA記録となる失敗無しでの3ポイント成功数9本という記録を置き土産として、ニックスを去る時が来ました。2003年7月23日、ホークスとシクサーズを交えた四角トレードの末にスプリーが向かった新所属先は、ミネソタ・ティンバーウルヴスだったのです。NBA最高のPFの1人だったケヴィン・ガーネットを擁しながらも、強豪ひしめくウエストにあってウルヴスは50勝を挙げながら1stラウンドでの敗退を重ね続けていました。'96年から実に7年連続の1stラウンド敗退という蹉跌の日々から脱出する為、ウルヴスは勝負に出たのです。
スプリーの4日後にサム・キャセールもトレードで加わり、ウルヴスはキャセール、スプリーにKGというビッグ3体制を構築。今ひとつ突き抜けられなかった強豪ウルヴスは一気に飛躍を遂げたのです。チーム史上最高となる58勝をマークしたウルヴスは一躍ウエスト1位&KG初のシーズンMVPという成果を携えてプレーオフへ突入します。
1stラウンドではカーメロ、そして親友キャンビーを擁するナゲッツに4勝1敗とし、遂にウルヴスは長年突破出来なかった1stラウンドの壁を突破します。続くカンファレンスセミファイナルの相手はまたも親友ウェバー(KGにとってもウェバーは親しい間柄でした)率いるキングス。流石に長年シャック&コービーの常勝レイカーズを脅かしてきた強豪だけあり、両者の戦いは最終戦まで縺れ込みます。
この大熱戦、実はKGの誕生日でもありました。こんな日に負けられないとばかり、KGは32得点21リバウンド4スティール5ブロックという凄まじいスタッツを叩き出します。それでもなお、試合は最後まで分かりませんでした。キングスの試合終盤3点差を追っての猛攻を必死で凌ぐウルヴス。残り2.5秒からウェバーの放った3ポイントが外れ、ウェバーがガックリとコート上に崩れ落ちると共に、ウルヴスのカンファレンスファイナル進出が決まったのでありました。スプリーにとってこれが3度目の、そして最後のカンファレンスファイナルとなったのです。
残念ながらカンファレンスファイナルではビッグ3の奮闘も空しく、シャック&コービーにペイトンとカール・マローンまでもが加わったレイカーズの前に2勝4敗で敗れ去ります。とはいえこの成果を叩き出したウルヴスは当面安泰かと思われました。ところが、ウルヴスのビッグ3体制は翌シーズンにはあっさり弱ってしまいました。
先にスプリーがニックスとかわした契約は'04-'05シーズンをもって終わろうとしていました。そんなスプリーにウルヴスは3年2100万ドルとそれまでより低い年俸となる契約をオファーしたのですが、スプリーはこれを拒みます。その時スプリーが公の場で吐いたコメントがこれでした。このヒト、またしてもブチ切れちゃったんですね。
"I have a family to feed ... If Glen Taylor wants to see my family fed, he better cough up some money. Otherwise, you're going to see these kids in one of those Sally Struthers commercials soon."
かくて、スプリーは再契約もままならない中でフラストレーションを抱えながらプレー、それが影響したかのようにチームのモチヴェーションもダウン。チーム成績までも一気に44勝にダウンしてプレーオフすら逃してしまうのです。この事について後にKGはウルヴスのオーナー、グレン・テイラーが再契約の金額を惜しんだ為に良いチームが台無しになった、といった趣旨の批判を行っています。
ともあれ、この'04-'05シーズンを最後にスプリーはFAとなります。しかしながら、35才になろうとするスプリーにオファーをするチームは現れなかったのです。ナゲッツ、キャヴス、ロケッツは興味を示したとされるものの実際のオファーには結び付きませんでした。その後も「最低保証額でプレーするぐらいなら引退する。金には困っていない」などとウルヴスのオファーを断った時と正反対の強がりコメントを出したりしながら機会を伺いましたが、そんなスプリーが望むようなオファーをするチームはありませんでした。
'05-'06シーズン始めにはレイカーズとの話があったとも言われてます。また2006年3月にはプレーオフへ向けての補強を目論むマヴスとスパーズからコンタクトがあったものの、スプリーがまともに連絡を取らずに話は無くなりました。2006年といえばマヴスがファイナル進出を果たした年だったんですけどね・・・。もしマヴスに入っていればファイナルで宿敵ヒートとの対戦だっただけに残念です。かくて、スプリーがNBAの舞台に戻る事は最早無かったのです。
その後のスプリーに関する情報はトラブルばかりでした。2006年8月には21才の女性との性行為中に(よりにもよって)首を絞めたとしてミルウォーキー市警に取調べを受ける羽目になります。2007年1月には大学時代からの妻との離婚のため、子供4人の養育費を請求される事となります。
http://sports.espn.go.com/nba/news/story?id=3241444
その支払いが出来ない為に、スプリーが所有していたヨットが売りに出された話は大きく報じられました。ミルウォーキーの邸宅やニューヨークのウェストチェスターに所有していたマンションも抵当に入るなど、何であの時ウルヴスのオファーを断ったのこのヒトと言わざるを得ないようなニュースがその後も続いたのです。これは養育費だけの問題ではなく、そもそもスプリーが車好きでモータースポーツ方面にお金を浪費していた事も原因のひとつだったようですね。そう言えば、AND1の後でスプリーが契約したシューズ、DADAのシグニチャーモデルには車輪が回転するモデルが存在していました。
実のところ、その後スプリーの消息は途絶えています。NBA以外の場での復帰も無ければコーチをするでもなく、何か新たなビジネスを始めたという情報も無いのです。ただ、ウィスコンシン州にて彼が納税滞納額No.1という情報がありますので、生活には苦労しているんじゃないでしょうか。親友ウェバーやキャンビーに頼ったりとかしているのでしょうかね。かなーり心配なので、そろそろSLAM誌あたりのインタヴューを期待したいところです。
今やすっかり音沙汰無くなってしまいましたが、'90〜'00年代NBAにおいて最もエキサイティングな選手の1人として、スプリーの名前は絶対に外す事は出来ません。いつかまた彼が、元気な姿を公の場に見せてくれる事を信じたいと思います。
※本文引用以外の参考文献
ウィキペディア
Wikipedia
Answers.comよりスプリーウェル記事
encyclopedia.com
ESPNクラシックより「Sprewell's Image Remains in a Chokehold」
CBS SPORTS.comより「Report: Sonics set to make Spurs assistant Carlesimo coach」
スポーツ・イラストレイテッド誌HPより「Centre Of The Storm」('97年12月15日号)再録
wineandbowties.comより「ALL CHOKED UP: THE PARABLE OF LATRELL SPREWELL」
サンフランシスコ・クロニクル紙より「Captain Spree should remain a landlubber」
databasebasketball.comよりキャリアスタッツ
バスケットボールリファレンス.comよりキャリアスタッツ
※チーム成績もバスケットボールリファレンス.comを参考にしました。
マクファーレンNBAシリーズ3【ラトレル スプリーウェル】 (ニックス/ホワイト) / Latrell Sprewell
マクファーレントイズ NBAフィギュア/コレクターズクラブ限定/ラトレル・スプリーウェル/ミネソタ・ティンバーウルブズ