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ARTISAN 8 ロン・“ハリウッド”・ハーパー〜花形→左遷→名脇役〜

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「人生いろいろ」とはよく言ったもので、ホント人生には予想外な事が起きます。山あり谷あり、スルスルっと上手く行く時もあれば何だか何をやってもドツボに嵌ってしまったりする事もあるんですよね。人生の花道驀進してたはずが一転して裏街道まっしぐらに行ってしまったり、かと思えばふとした弾みでまたいいルートに戻れたり。人生万事塞翁が馬、でございます。

今回は華々しくデビューを飾るも移籍先で一旦干され、その後の移籍先でも一瞬危なかったところからSGからPGへの転職でキャリアを建て直し、リングを5つ勝ち取るという何気に劇的かつ恵まれた選手生活を送った選手を取り上げましょう。「ハリウッド・ハーパー」ことロン・ハーパーであります。

ロナルド・ハーパーはオハイオ州デイトンにて、1964年1月20日に誕生しました。地元デイトンのカイザー高校時代には早くもオールオハイオ1stチームに選出されたハーパーは、アメリカ全土でもTOP50にリストアップされる高校生でした。コート上で一切トラッシュトークなどをやらない選手だったのです。ただ、寡黙なのはコート上だけの問題ではありませんでした。子供の頃からどもりのため近所の子供達にからかわれ続けてきたハーパーは家族と親友以外とはまともに話す事も無かったのです。高校にいてもハローとグッバイの二言だけしか話さなかったとハーパー自身も述懐しています。

更に読解能力が欠けている事も問題でした。結果、学業成績も振るわなかったハーパーには有名どころの大学からもリクルートの引きの手が無かったのです。地元デイトン大さえ声が掛からなかったハーパーに手を差し伸べてくれたのがマイアミ大学でした。彼らはハーパーを入学させ、言語病理学と聴能学の局長による監督の下、ハーパーの治療にあたったのです。どもりこそ完全には治せませんでしたが、彼らはハーパーに話すペースを教え、読解速度を上げるように勤め、そして何より群衆の前で話す訓練をさせたのです。かくしてハーパーの症状は改善を見ました。

そして、マイアミ大でハーパーのバスケットの才能も輝いたのです。.497→.537→.541→.545と毎年向上するFG成功率、12.9→16.3→24.9→24.4得点と推移する平均得点。ハーパーは更にリバウンドまでも7.0→7.6→10.7→11.7と向上させていったのです。彼のジャンプ能力を生かしたアクロバティックなプレーはジュリアス・アーヴィングに喩えられました。・・・そう、まだこういう選手への比喩にマイケル・ジョーダンの名前は出てこない時代だったんですね。むしろそのジョーダン自身がアーヴィングに喩えられていた時代でした。

マイアミ大自体はハーパーが2〜4年生時代にNCAAトーナメント3年連続1stラウンド敗退で終わったものの、ハーパー個人への評価は高かったのです。そりゃそうですよね、4年生時の成績って24.4得点11.7リバウンド4.3アシスト3.3スティール2.3ブロックですから。そりゃオールアメリカン2ndチームにも選ばれようってもんです。かくて攻守万事に優れたオールラウンドプレーヤーとして大いに期待されながら、カレッジ生活4年をキッチリ満了したハーパーは'86年のNBAドラフトへエントリーします。

http://www.nbadraft.net/nba_draft_history/1989.html#1986



このドラフトでハーパーを1巡目8位で指名したのがキャヴスでした。この年のキャヴスは1位でブラッド・ドアティー、2巡目29位でジョニー・ニューマンを指名。そして2巡目25位でマヴスが指名していたマーク・プライスをトレードで獲得します。更にはグレイグ・イーローやジョン・“ホットロッド”・ウィリアムズも加わったキャヴスはチームの基礎を一気に固めます。

ハーパーのプレースタイルはやはりNBAでも通用しました。1年目から82試合フル出場で22.9得点4.8リバウンド4.8アシスト2.5スティール1.0ブロックですよ?ルーキー・オブ・ザ・マンス2回選出、オールルーキー1stチーム選出は当たり前と言いますか、むしろなんで新人王じゃないの?ってレヴェル。因みにこの'86-'87シーズンの新人王は18.8得点8.3リバウンド3.6アシスト1.1スティールのチャック・パーソン。・・・うーん、チーム成績の差ですかねぇ。パーソンのペイサーズは41勝、ハーパーのキャヴスは31勝でしたから。実際このときの新人王争いは僅差だったようです。



この動画ひとつ見れば、ハーパーが単に運動能力馬鹿で無い事は明らかですね。アーヴィング、マイケル・ジョーダンがそうであったように、ハーパーもまた運動能力を生かしたクリエイティヴなプレーを身上としたのです。先輩達が生み出したスタイルを継承しながらも単なる模倣ではないあたりが素晴らしいですね。なお、あまり知られていませんがハーパーはダンクコンテストにも'87年・'89年の2回出場しています。残念ながら2回とも1回戦敗退ですが・・・。

ハーパー在籍時のキャヴスの躍進と挫折は「栄光無き〜」のマーク・プライスの回で取り上げた通りです。キャヴスは若い力を一気に爆発させ、次代の強豪チームとなるはずでした。しかし、マイケル・ジョーダンとシカゴ・ブルズという高い壁が彼らに立ち塞がってしまったのです。



そして、この「ザ・ショット」の前にキャヴスが散った'89年プレーオフの後、'89-'90シーズンが始まって間もない11月16日にハーパーはトレードされます。

クリッパーズ←ハーパー、'90年1巡目指名権(後にロイ・ヴォートを指名)、'91年2巡目指名権、'92年1巡目指名権(後にエルモア・スペンサーを指名)
キャヴス←ダニー・フェリー、レジー・ウィリアムズ


彼が向かった先は当時、NBA界の牢獄とさえ言われていたクリッパーズだったのです。しかもこのトレードは、'89年にクリッパーズにより1巡目2位指名を受けたダニー・フェリーの入団拒否に端を発するものでした。彼の入団拒否はイタリアで1年プレーするという実力行使を伴ったものであり、クリッパーズも遂にフェリーの獲得を諦めてこのようなトレードに打って出た訳です。ハーパーはとばっちりを受けたようなものでした。何しろ、新人がそこまでして入団を嫌がる球団へ代わりに送り込まれた訳ですからね。

しかもこの'89-'90シーズン、ハーパーはクリッパーズで僅か28試合しか出場していません。別に彼はフェリーのように出場を拒んだ訳では無いのです。ハーパーのような選手にはよくある事ですが、膝の故障が彼を襲ったのでした。かくてハーパーからキャヴス時代のアクロバティックな動きは影を潜めてしまいます。しかし、それでもハーパーはクリッパーズで腐らず頑張りました。彼がクリッパーズ時代にマークした約2.0スティールというアヴェレージは未だにクリッパーズのチーム記録となっていますし、得点はじめ各スタッツでの記録もキャヴス時代とそう変わらないものだったのです。確かハーパー自身は当時の事を色々ぼやいているインタヴューが存在したと思いますが、少なくともコート上では彼はベストを尽くしていたと思いますね。何しろ、彼が在籍している間、クリッパーズは'92・'93年の2回に渡ってプレーオフ進出を果たしているのですから。ハーパーが「ハリウッド」というニックネームを得たのもこの時です。



そしてそんなハーパーに転機が訪れます。が、最初はそれはそれでキッツイ選択肢でした。ハーパーは'94年9月15日、FA移籍で契約した先はかつての宿敵シカゴ・ブルズ。しかも、あの大敵マイケル・ジョーダンは正に引退中。恐ろしい事にハーパーは、ジョーダンの代役というおよそ99%の選手に不可能なミッションを背負わされたのです。今やかつての運動能力をも失っているハーパーにそれは無理な相談でした。

結果、ブルズでの彼の1年目の成績はそれまでのキャリアアヴェレージを大幅に下回る6.9得点に留まり、シーズン途中からは先発の座さえ失います。3/19に当のマイケル・ジョーダンが現役復帰を果たしてしまっては尚更ですね。しかもこのシーズン途中からハーパーは戦線離脱、プレーオフカンファレンスセミファイナルのマジック戦でようやく復帰を果たすも殆ど貢献出来ないままシリーズ敗退。ハーパーの存在意義さえ問われるこの流れから、しかし劇的なキャリアの転換がここで起きたのです。

ブルズは'95オフ、それまで先発PGを勤めていたB.J.アームストロングをエクスパンションドラフトで放出します。ハーパーはB.J.に代わり、フィル・ジャクソンの下でSGからPGへの転職を果たしたのです。元々オールラウンドな彼は背の高いPG好みななフィルの条件を満たしていました。それにトライアングルの元ではピュアPGタイプは必要無かったんですね。ハーパーはPG的役割よりも、ディフェンダーとしてその力を発揮する事となりました。

かくてハーパーのキャリアは思わぬ形で甦りました。ロドマンも加わったこのシーズン、ブルズはかつてプレーオフで激闘を演じて勝ち続けたキャヴスと負け続けたピストンズから先発選手を1人ずつ仕入れてパワーアップした訳です。ハーパー個人のスタッツは往年の高アヴェレージを記録することはもうありませんでしたが、最早その必要はありませんでした。NBA史上最高のSG、マイケル・ジョーダンとの上背あるバックコートを形成し、更にピペン&ロドマンのこれまた強力フォワードコンビを擁する事となったブルズは一気に72勝を挙げる史上最強のチームと化し、そこから怒涛の3連覇を飾る事となるのです。ハーパーはジョーダン、ピペンといったメインキャストを支える名サブプレーヤーとしての役割を十二分に果たし、チームに貢献し続けたのであります。

ラストダンスを踊り終えて再びジョーダン、更にピペン、ロドマン、フィル・ジャクソンとメインキャストがごっそり抜けたブルズでもう1シーズンだけプレーしたハーパーはブルズ帝国の崩壊を目の当たりにした後、ブルズから放出された後に'99年10月13日、FAで最後の移籍を果たします。彼が向かった先は再びハリウッド。フィル・ジャクソンがHC職に復帰したロサンゼルス・レイカーズだったのです。

ここでもハーパーは先発PGとして、ブルズ時代と同じ役割を果たしました。まだトライアングルが導入されて日も浅いレイカーズにおいて彼の存在がどれ程大きかったかは想像に難くありませんね。かくてレイカーズは見事優勝を遂げました。あと1シーズンだけハーパーは同じ役割を果たしましたが流石に寄る年波には勝てず、47試合の出場に留まります。2連覇を飾る事となるプレーオフでも6試合の出場に留まったハーパーは5度目のファイナルの舞台に立ったのを最後に遂にユニフォームを脱いだのです。

ハーパーは翌'02プレーオフでの限定復帰をフィル・ジャクソンに打診されたという説もありますが、これは実現しませんでした。もしも復帰していればハーパーは6つ目のリングを手に入れるチャンスだったのですが、まあ結果論ではあります。それでもなお、ハーパーはロドマン、そしてロバート・オーリーと並んで複数チームでそれぞれ複数のリングを手に入れたNBA史上3人しかいない選手なのです

http://www.nba.com/pistons/news/harper_050926.html

引退後はハーパーはあまり目立った事はやってませんね。'05年にはピストンズでACに就任して2年在籍しましたがそれっきりです。ブルズとレイカーズでフィル・ジャクソン指揮下でプレーしていた為か、インタヴューとかで色々よく尋ねられてる印象はあるんですけどねー。

http://www.ronharper4.com/

因みに本人の公式HPを見ても特に更新されてないなーって感じですね。私自身はやってませんがfacebookも調べてみるとファン作成のページだけが散見されます。とりあえずハーパーに会って嬉しそうなファンの写真がご愛嬌なので見てあげて下さいw

NCAA進学の際にひと苦労し、NBAではジョーダンの壁に屈した後に新米の我儘に振り回されて左遷されながらも頑張り、また移籍した先で一旦ズッコケかけながらそこから立て直して5回の優勝、しかも最後はロサンゼルス。なかなかに浮き沈みが激しく、最後はハッピーエンディングだったハーパーのキャリアそのものが、正に「ハリウッド」というニックネームに相応しかったのかも知れません。



※本文引用以外の参考文献
ウィキペディア
Wikipedia
スポーツイラストレイテッド誌'86年3月3日号記事再掲載分より「Miamian Without A Vice」
スポーツリファレンス.comよりカレッジ時代スタッツ
バスケットボールリファレンス.comよりキャリアスタッツ




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ARTISAN 7 スパッド・ウェッブ〜フライング坂田利夫〜

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ちっちゃくないよ!

およそバスケットボールというスポーツの世界において、高さが重要である事は今更言うまでも無い事です。ファミレスのウェイトレスだったら背の高い同僚に手伝ってもらえばさしたる問題はありませんが、バスケの世界では背の低い選手はパスを捌くかシュート力を磨くか、スピードで勝負するかってなとこでしょう。しかし、そこに新たな選択肢を持ち込んだ小兵ガードもまた存在します。即ち「小さかったら高く跳べ」です。

今回は身長僅か170cmという日本人並みの背丈からは考えられないジャンプ力でダンクコンテストを制し、日本でも一世を風靡した超小型PG、スパッド・ウェッブの登場であります。なおこの選手、小林師範往年の名サイト「NBAどっと混む」でも堂々取り上げられておりますので、今回は言わば師範に挑戦!という志の高い(←自分で言うな)企画です。まあ一歩目から盛大に間違った気もしますが気にしない方向で行きましょう。

本名アンソニー・ジェローム・ウェッブは1963年6月13日、テキサス州ダラスの出身です。貧しい家庭環境で育ったウェッブはしかし、子供の頃からそのクイックネスとジャンプ能力で他の子供達を圧倒していました。そんな彼の才能はWilmer-Hutchins High School在学中に注目されます。ここで平均26得点のアヴェレージをマークする活躍を見せたウェッブは、しかしあまり大学からの注目を集めなかったのです。それが5-7しかない彼の身長が原因である事は想像に難くありませんでした。

http://sports.jrank.org/pages/5183/Webb-Spud-Enrolls-at-Midland-Junior-College.html

しかしNCAAへの夢を諦めたくなかったウェッブは地元テキサス州のミッドランド短大へ進学、1年時から20.8得点2.0リバウンド7.1アシストという驚異的なスタッツを叩き出します。そしてミッドランド大は短大の全国大会決勝戦でシーズン無敗を誇ったマイアミ・デイド大ノース・フロリダ校をダブルOTの熱戦の末に倒して初優勝。この試合でウェッブはFG10/15、FT16/18で36得点を稼ぎ出して見せたのです。このウェッブの活躍はスポーツイラストレイテッド誌にも掲載されました。そして2年目も14.6得点3.0リバウンド10.1アシストをマークしたウェッブはNJCAA(ナショナル・ジュニア・カレッジ・アスレティック・アソシエーション)のオールアメリカンに選出されたのです。

そしてそんな彼の活躍をNCAAのノースカロライナ州立大(以下NCSU)のACだったトム・アバテマルコが注目したところから、ウェッブにも遂にNCAAへの道が開けます。ジム・ヴァルヴァーノHCはウェッブに奨学金を出し、彼をNCSUへ誘ったのです。これがウェッブの人生一度目の転機でした。そしてヴァルヴァーノHCの判断は吉と出ました。ウェッブは3年生時に9.8得点1.8リバウンド6.0アシスト、そして4年生時には11.1得点2.0リバウンド5.3アシストと短大時代よりは控え目なスタッツながら、'85年のNCAAトーナメントでのスウィート16入りに貢献したのです。

http://nbadraft.net/nba_draft_history/1989.html#1985

そして卒業後、ウェッブは'85年のNBAドラフトへ。しかしながらここでも彼の背丈の低さは大きく響きます。彼は実にドラフト4巡目、87位という低順位でピストンズに指名を受けたのです。この頃はまだドラフトの指名選手が非常に多く、2巡目どころか7巡目まで指名していたんですね。ま、指名=入団でもなんでも無いのは今日の2巡目指名と同じですが。そして実際、ウェッブも結局ピストンズでは解雇の憂き目に遭います。

ここでピストンズ解雇後2日でウェッブを拾ってくれたのはアトランタ・ホークスでありました。ホークスのコーチングスタッフはウェッブのジャンプ力に感銘を受けたのです。これが、彼の運命の2度目の転機だったと言えます。彼は首の皮一枚生き残ったアトランタの地で1年目から実に79試合に出場、僅か15.6分の出場時間で7.8得点4.3アシスト1.0スティールと結果を残したのです。

しかし、何と言っても彼の名声を確立したのはやはりこのシーズンのオールスターだったでしょう。'86年のオールスター会場は奇しくもウェッブのホームタウン、ダラス。そのためもあってか、ホークスはオールスターサタデーの華、ダンクコンテストに前年のチャンピオン、ドミニク・ウィルキンスと共にウェッブを送り込んだのです。そしてウェッブにとってラッキーだった事に、この時マイケル・ジョーダンは彼のキャリアにおいて唯一の長期故障のため、ダンクコンテストをも休まざるを得なかったのです。

この時のエントリーメンバーはホークスの2人の他にテレンス・スタンスバリー(IND)、ジェラルド・ウィルキンス(NYK)、ジェローム・カーシー(POR)、ポール・プレッシー(MIL)、ロイ・ヒンソン(CLE)、テリー・タイラー(SAC)という面子。大本命ドミニクは勿論、3年連続3位という結果を残す事になるスタンスバリー、ドミニクの弟ジェラルド、この翌年のコンテストでジョーダンと決勝を戦う事になるカーシーとなかなか腕に覚えのあるメンバーが揃っていました。そんな中にあって5-6という小兵のウェッブはダークホースどころか、完全に期待外の扱いでした。彼の背の低さも去る事ながら、坂田利夫とか上島竜兵とかあの系統のビジュアルだった事も、恐らくは彼が優勝候補から外されていた理由の一つだったんじゃないかなと思います。




ともあれ、コンテストの開始と共に観客達、視聴者、そして選手達までもが全く予想していなかった伏兵の登場に度肝を抜かれる事となったのであります。なお、この年の審査員には女子テニス界で当時最強を誇っていたマルチナ・ナヴラチロワも加わっていました。



ディフェンディングチャンピオンのドミニクが1stラウンドを免除となった中、この日最初にアテンプトに挑んだウェッブのボースハンドリヴァースダンクは一見失敗したかに見えますが、リプレーを見直せば分かる通りこれはダンクは成功し、彼の頭にボールが当たって跳ね、リムを通ってボールが戻ってしまった為に失敗したように見えただけの事でした。リプレーによりそれが確認された結果、このダンクは46点を獲得します。これはまだ、この夜の序章に過ぎませんでした。

地元の声援を受ける中、ウェッブはこの1stラウンドを結局46+48+47=141点と1位で突破、椅子越えダンクでここまで唯一の50点をマークして133点のジェラルド・ウィルキンス、代名詞とも言える180度ダンクで129点のスタンスバリーと共にセミファイナルへ駒を進めます。ドミニクも参戦してのセミファイナル、しかしこの時点まではやはりドミニクが大本命だと誰しも思ったはずです。ウェッブを応援していたダラスの観客だって半ばそう思っていたのではないでしょうか。ところが、ウェッブはいきなり自ら投げ上げてワンバウンドしたボールを空中で掴むとそのままバックハンドで、しかも両手で叩き込んでみせたのです。この完璧な一発でウェッブは50点満点を叩き出します。



この後に登場したドミニクのウィンドミルダンク1本目が46点だったところから、観客のざわつきが一層大きくなります。もしかしてウェッブのチャンピオンが有り得るのでは?という思いが、このあたりから観客の中にも生じてきたんじゃないかと思うんですよね。実際、観客のウェッブへの声援は更に高まっていく中、なんとウェッブは50+42+46=138点で、ドミニクと同点で決勝ラウンドへ勝ち上がったのであります。まさかの地元のヒーローの決勝進出に歓声は更に高まっていきました。ドミニクも弟ジェラルドならいざ知らず、まさか同じホークスから伏兵が現れた事に心中穏やかではなかったはずです。そもそも前年に優勝を争ったマイケル・ジョーダン不在でドミニクの1人舞台と思われ、2連覇はほぼ当確と見られていたところですからね。

そしてその決勝1本目、ウェッブはまさかの360度ダンクで観客を完全に虜にします。50点満点のジャッジに更に沸く場内。しかし、ドミニクも負けじと360度ダンクで50点満点を決め返してみせます。決着は2本目のダンクに持ち込まれました。その2本目、ウェッブはボールを床に叩き付け、ボールがバックボードに当たって跳ね返ったところをそのまま叩き込むという技を繰り出したのです。またしても50点!最早ジャッジも完全にウェッブの味方でした。



ドミニクがこれに対して繰り出したのはトレードマークのウィンドミルダンク。観客の合唱響く中で遂に出た点数は48点。その瞬間、ダンクコンテスト史上屈指のアップセット劇は成りました。チームメイト同士の2人がハグし合い、ドミニクは自らの2連覇を断ったチームメイトの偉業を称えたのです。それにしても、優勝後にウェッブにインタヴューするのがビル・ラッセルってのも凄い絵ですね。

この夜、ウェッブの名前は全米に轟いたと言って良いでしょう。言うまでもなく彼はダンクコンテスト史上最小のチャンピオンでした。彼以外に6フィート以下の身長で優勝したのはネイト・ロビンソンだけであり、ウェッブはこれ1点だけでもNBAの歴史に足跡を残したと言えます。そんなウェッブの存在はここ日本でも話題となり、当時シューズの契約を結んでいたミズノのCMにも出演を果たしたのです。このCMのキャッチコピーが「小さかったら高く跳べ」である事は有名ですね。このCMの動画がネット上に見当たらないのは残念ですが・・・。なお、余談ですがウェッブはこの後、'88年に今一度シカゴでのダンクコンテストに登場したものの、この時は1stラウンドで34+18点と散々な成績で敗退し、ジョーダンとドミニクの決勝戦を見守る立場に回る事となったのです。



選手としてのウェッブはホークスで計6シーズンを送りましたが、彼が戦力として機能したのは5年目の'89-'90シーズンからでした。82試合中46試合に先発したウェッブは9.2得点5.8アシスト1.6スティールの成績を残すと翌シーズンは更に出場時間を伸ばし、75試合中64試合で先発して13.4得点5.6アシスト1.6スティールと、遂にキャリア初の2桁得点に乗せたのです。

そのシーズンを最後に、ウェッブはトラヴィス・メイスとの交換で、'94年 2巡目とのセットでキングスへトレードされました。なお、この指名権でキングスは後のベンチモブの一角をなすローレンス・ファンダーバーグを指名することになるのです。そしてウェッブ自身も、キングス移籍1年目の'91-'92シーズン、77試合全てに先発してキャリアベストとなる16.0得点7.1アシストをマークしました。彼はキングスでの4シーズンを殆ど先発PGとして過ごし、2桁得点をキープし続けたのです。得点もアシストも徐々に下降していったものの、それでもキングス時代最後の'94-'95シーズンでも11.6得点6.2アシストでした。しかもこの時記録したFT成功率.934はリーグ1位だったのです

'95オフ、ウェッブはタイロン・コービンとのトレードで古巣ホークスに復帰。しかし51試合にベンチから出場して5.9得点2.7アシストをマークしていたシーズン半ばに今度はクリスチャン・レイトナー及びショーン・ルックスとの交換で、アンドリュー・ラングと共にウルヴスへ。26試合中21試合に先発してFG成功率.394ながら13.6得点8.6アシストとなかなかの成績を残したのです。しかしウェッブはこの'96オフ、ドラフト指名の大型新人ステフォン・マーブリーと入れ替わるように解雇されました。

このオフ、NBAでの契約を勝ち取れなかったウェッブは'96-'97シーズンをイタリアのScaligera Veronaというチームで過ごします。12.7得点をマークした彼はアメリカへ戻り、'97-'98シーズンに10日間契約でNBAへ復帰します。その時契約したチームこそがマジックでした。しかしながらこの時にはもう、ウェッブのプレーから輝きが失われていました。私も当時NHK-BSで1試合だけ見ましたが、与えられた出場時間にいい所をまるで見せられなかったのが残念でしたね。かくてウェッブは4試合のみの出場で3.0得点1.3アシストという成績を最後にマジックを解雇され、今度こそ完全にNBA、そしてバスケットボールからの現役引退となったのであります。



引退後の彼はそのダンクコンテストでの経験を元に講演会に呼ばれたりしていました。ダンクコンテストの審査員を務めたこともあります。またウェッブ自身のダンクコンテスト優勝から丁度20年後、2006年のコンテストでは上述のネイト・ロビンソンがウェッブのジャージーを着て、なおかつウェッブを飛び越えてのダンクでチャンピオンとなったのも記憶に新しいところですね。

現在ウェッブはNBADLのテキサス・レジェンズのバスケットボールオペレーション社長を務めています。そんなウェッブの最近の姿が動画でありましたので、是非ご覧になってみて下さい。



あの優勝から4半世紀、ウェッブは今でもダンクが出来るんです!今年の映像ですからこの時点で47才ですよ。彼のジャンプ力は未だに健在だなんて嬉しいじゃないですか。

http://www.nba.com/hawks/news/Catching_Up_With_Spud_Webb_110404.html

また、ロックアウトの煽りでNBA公式HPに現役選手の記事が載せられない為に各チームとも過去の選手特集に余念がありませんが、ホークスもウェッブのインタヴューを掲載しています。興味がある方は是非原文を当たってみて下さい。15才の娘がバスケットボールとバレーボールに励んでいる話、同じく小兵で知られるアール・ボイキンスを誇りに思うなんて話が載ってますよ。

日本人の平均的な身長よりも小さい背丈でNBAを11シーズン+10日間戦ったウェッブ。思えば漫画「Dear Boys」の主人公、哀川和彦のモデルは彼にあるのかも知れません。小さくとも偉大なるジャンプマンに、改めて敬意を表したいと思う次第です。



※本文引用以外の参考文献
ウィキペディア
Wikipedia
http://everything2.comよりウェッブのキャリアまとめ
スパッド・ウエッブ公式HP
Wikipediaよりダンクコンテスト結果
バスケットボールリファレンス.comよりキャリアスタッツ
NBA.comよりキャリアスタッツ




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ARTISAN 6 ケニー・“ザ・ジェット”・スミス〜華麗なる転職〜

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我々の世代ともなると、そろそろNBA放送を見ていると若手のみならずコーチ陣、そして解説者の面子に目が行ってしまいます。ああ、もうこの選手が解説だったりするのねと時の流れを感じる訳ですよ。マジック・ジョンソンやバークリー、レジー・ミラーにクリス・ウェバーといった方々が放送席に座る姿を見る度にそういう思いを強くする訳です。

ところがそんな中に、現役時代そこまで高名では無かった選手が1人混じっているのに気づく訳です。現役当時をご存じ無い向きには「誰これ?」感が一層強いですし、知っている世代にも「あれ、この人こんな陽性キャラでしたっけ?」と思わずにはいられないあのヒトです、あのヒト。



つー事で、古参ファンから新参ファンまで妙に気になるあの男で今回は行ってみましょう。ロケッツ2連覇時の先発PGとして鳴らした選手、ケニー・“ザ・ジェット”・スミスであります。

ケニーことケネス・スミスは1965年3月8日、ニューヨークはクイーンズというなかなかディープなエリアの出身です。Archbishop Molloy高校在学中の'83年にマクドナルドオールアメリカンに選出されていた彼は名門ノースカロライナ大へと進学、4年在学してFG成功率.512で12.9得点6.0アシストという成績を残します。



特に4年目の'86-'87シーズンには16.9得点6.1アシストという成績でバスケットボール・タイムズ誌選出のプレーヤー・オブ・ザ・イヤーに選出されたのです。この他にも彼はオールアメリカファーストチーム(AP選出)、オールACC(アトランティック・コースト・カンファレンス)チーム選出、ノースカロライナ大のアシスト記録といった数々の勲章を持ってNBAドラフトへ臨みます。



http://www.nbadraft.net/nba_draft_history/1989.html#1987

そして'87年のドラフト、ケニーは1巡目6位でサクラメント・キングスの指名を受けます。デヴィッド・ロビンソンを筆頭にアーモン・ギリアム、ピペン、ケヴィン・ジョンソン、ホーレス・グラント、レジー・ミラー、マーク・ジャクソン、ケン・ノーマンと結構当たり年だったこの年のドラフトで6位というのはなかなか評価が高かったと言えます。実際彼は1年目から61試合中60試合に先発してFG成功率.477で13.8得点7.1アシスト1.5スティールと上々のスタートを切り、オールルーキー1stチームに選出されたのです。そして2年目には17.3得点7.7アシストと更にレヴェルを上げていきます。

6-3とPGとしては身長のあるケニーは学生時代から既に圧倒的なジャンプ力で知られていました。それはNBAでも変わらず、ケニーはダンクコンテストに'90年、'91年、'93年の計3回出場を果たしています。優勝こそ無かったものの、それぞれ2位、4位、5位に入りました。彼の発案したダンクはなかなかの傑作でした。この動画はケニー自身が選んだダンクコンテストのダンクベスト10(2000年より前のダンク限定)ですが、10位に自らのダンクをセレクトしています。



このダンクは2000年のコンテストでラリー・ヒューズが挑みましたが、結局成功せずに終わりました。本番で成功させただけでも、ケニーのスキルの高さが分かろうというものですね。

さて、ケニーは初のダンクコンテスト出場を果たした'90年の2月13日にまずマイク・ウィリアムズと一緒にアントワン・カー及びセドリック・トニーとの交換でホークスへトレードされます。次いでその'90年オフ、今度はロイ・マーブルとのセットでジョン・ルーカス、ティム・マコーミック、そして'94年1巡目指名権と交換で約束の地、ロケッツへとトレードされたのです。

キングスではほぼ不動の先発PGだったケニーはホークスでは控えに回り出場時間減少に伴って一旦成績を落としたものの、ロケッツでは再び先発PGへ定着。加入1年目の'90-'91シーズンにはキャリアハイのFG.520で17.7得点をマークし、アシストも7.1と再びペースアップしました。

その後彼のスタッツは徐々に下降線を辿りましたが、そのプレーの質までは衰えてはいませんでした。そして彼のロケッツは徐々にチーム成績を向上させていったのです。'92-'93シーズンには55勝を挙げてカンファレンスセミファイナル進出を果たします。そして'93-'94シーズンには開幕から15連勝を叩き出す快進撃で58勝。オラジュワンはシーズンMVPを受賞し、チームはウエスト第2シードからまず1stラウンドでブレーザーズを3-1で倒すとカンファレンスセミファイナルではサンズとの第7戦まで縺れる熱戦を制して勝利。そしてカンファレンスファイナルではジャズを沈めて、遂にファイナルまで辿り着いたのです。



新人PG、サム・キャセールの台頭もあってケニーの出番はやや減ったような印象がありますが、実際にはケニーはむしろ出場時間を伸ばしてますね。この第7戦でも重要なショットを沈めたり、速攻から彼らしいダンクが繰り出されている様子が分かります。あと、試合開始前のハドルの映像を見てみると、ケニーがめちゃめちゃ喋りまくってる様子が分かりますね。あのしゃべくりキャラは現役時代に既に確立されてたってことでしょうか。

ともあれ、遂に優勝を飾ったロケッツでしたが翌年は成績を落とします。連覇の夢は幻かと思われたところでロケッツが打った妙手、それがブレーザーズからドレクスラーを引っ張って来るトレードだった訳です。大きなメンバー入れ替えを擁するこのギャンブルはレギュラーシーズン中に性急な成績アップをもたらしはしませんでしたが、47勝のウエスト6位でプレーオフに入るや否や、ロケッツはスパークします。1stラウンドでジャズ、カンファレンスセミファイナルでサンズ、カンファレンスファイナルでスパーズを連破して2年連続ファイナルの舞台へ。そこで待っていたのが、新進気鋭のオーランド・マジックだった訳です。




このファイナルの流れを決した第1戦、どうしてもニック・アンダーソンのFT4連続ミスに注目が集まりがちなんですが、その前に20点ほど開いた点差を縮めたロケッツの逆襲がありました。「20点差なんて簡単にひっくり返せる」という言葉の通り、ケニーはこの試合で実に11本中7本の3ポイントを叩き込んで、この逆転劇に貢献したのです。なお、ニック・アンダーソンのFTミス4連続の後にOTに持ち込む同点3ポイントを叩き込んだのもケニーでありました。

このロケッツ2連覇時代が、ケニーの選手生活最良の時だったと言えます。この翌年、'96-'97シーズンにケニーは68試合中56試合に先発するも、ロケッツ加入以来.475を切る事が無かったFG成功率が一気に.433まで下落。得点アヴェレージも遂に2桁を切ったこのシーズンを最後に、ケニーはロケッツから放出されます。

そして'97-'98シーズン、ケニーはピストンズとFA契約するも開幕1ヶ月持たずに解雇。次いで因縁のマジックとも契約しますがこちらでも1ヶ月持たず解雇。最後はナゲッツと10日間契約に漕ぎ付け、シーズン最後までプレーして33試合中3試合先発。これが、ケニーにとって最後のシーズンとなりました。私、このシーズンのマジックの試合でケニーを見かけた時、正直これはもうNBAで長くないなと思ったものでした。その姿をお見かけする事も無くなるだろうなあ、と。



↑心臓の弱い方は見ないでね!

http://www.tnt.tv/title/?oid=623948-3835

そんなケニーさんが、まさかユニフォームを脱いだ年に早速ターナースポーツことTNTの解説陣に加わるとは驚きでした。このスピーディーな再就職からしても、ケニーのしゃべくり能力はNBAの世界では相当有名だったのでしょう。バークリーとの丁々発止が有名な「Inside the NBA」はエミー賞を受賞する程の人気番組となり、現在まで続いているのは皆さんご存知の通りです。なお、ケニーとバークリーは共にロケッツに所属していた事があるものの、ロケッツでは丁度ケニーが去ったタイミングでバークリーが加入している為、現役時代に2人がチームメイトになることはありませんでした。それでこの見事なコンビネーション、流石ですね。



特に満座の爆笑を取ったのがこのコービーのCMの完璧なパロディーでしょう。ダンクコンテストに出場するほどのジャンプ力あってこそのこのギャグ、お見事と言う他ありません。てか、つくづくジョーク好きのアメリカらしい番組だなぁと思います。それにぴったりフィットするケニー・・・私、こういう役回りは現役時代トラッシュトーク王で鳴らしたペイトンあたりのものだと思ったんですけど、分からないものですねぇ。

なお、彼はしゃべりだけはなく文才もありまして、SLAM誌に1P連載を持ったこともあります。これがまた、ウィザーズにて現役復帰した時のジョーダン活躍予想、NBAに入ったばかりの新人への心得、HC就職事情(自身にもオファーが来ている事を告白)などなど、毎号読ませる内容でした。纏めて単行本にしてくれないものかと思う程のクオリティーです、実際。実はとてつもない才人だったって訳であります。

今後もNBA放送を見ていれば、否応無くケニーの底抜けに明るいトークを何度と無く耳にする事でしょう。そんなケニーがちょっとウゼエなとお思いの向きも、現役時代はこれだけの実績と見識を持ったヒトなんだという事を念頭に置いて頂き、広い心でもって見て欲しいなと思います。

※本文引用以外の参考文献
Wikipedia
http://premierespeakers.comよりケニー・スミスの紹介文
http://www.caaspeakers.comよりケニー・スミスの紹介文
NBA.comよりキャリアスタッツ
バスケットボールリファレンス.comよりキャリアスタッツ



MITCHELL&NESS HOUSTON ROCKETS SNAPBACK CAP / ミッチェル&ネス ヒューストン ロケッツ スナップバック キャップ【レッド×イエロー】
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ARTISAN 5 クラレンス・ウェザースプーン〜ベイビー・バークリーの成功例〜

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1人の偉大なる選手の台頭は、様々な形で影響を及ぼします。単純に彼のプレーに酔いしれるファンがいるのは言うまでもありませんが、彼のプレーに影響を受ける子供達と若い選手達があり、彼のプレーを見て同じようなタイプの選手の獲得を考えるチームがある訳です。チェンバレンやカリームのような偉大なビッグマンは劣化Ver.すら簡単に現れるものではありませんが、ジョーダンやマジックのような体格のガードやバークリーのような背の低いビッグマンなんてのは探せば結構います。そういった選手達の中で行けそうな選手がいると、彼らはジョーダン二世だのマジック二世だのと言われるようになる訳です。そして、悲しい事ですが彼らの殆どはそのニックネームにあまり相応しくないキャリアを送る事となります。その最たる例はハロルド・マイナーだった訳です。

「ベイビー・ジョーダン」あれば、「ベイビー・バークリー」あり。今回は、マイナーと同じ轍に嵌りそうで嵌る事無く、派手ではないにせよそれなりのキャリアを過ごした小兵PF、クラレンス・ウェザースプーンの登場であります。

ウェザースプーンは1970年9月8日、ミシシッピ州クロフォードの生まれです。そのまんまミシシッピで育った彼はミシシッピ州コロンバスのモトリー高校バスケ部でプレーした後、大学もそのまんまなサザンミシシッピ大へ進学。4年まるまるを過ごして18.2得点11.3リバウンドという好成績を残します。彼のスタッツは大学通算記録でもリバウンド・ブロック・出場時間で1位、得点で2位、平均得点・FG成功数・FG成功率・FT試投数&成功数、スティール数で3位となったのです。

'91年にはサザンミシシッピ大は21勝8敗で全国ランク入りを果たしています。ただNCAAトーナメントでは'90・'91年と連続出場を果たしながら共に初戦敗退となりました。それでもなお、ウェザースプーンは3年連続カンファレンスのプレーヤー・オブ・ザ・イヤーに選出されたのです。何しろ、彼のリバウンド数はカンファレンスでも未だに歴代1位なのですから。スポーツイラストレイテッド誌も彼の特集を5ページ組んだ程です。後に母校において彼の背番号35は永久欠番第1号となり、彼自身もまた殿堂入りを果たす事となります。

また、ウェザースプーンはグッドウィルゲームス(1986〜2001年にかけて夏季5回、冬季1回開催されたテッド・ターナー提唱の国際総合競技大会)の'90年シアトル大会に出場して銀メダル、'91年にはキューバで開催されたパンアメリカンゲームスのアメリカ代表としても出場して銅メダルを獲得しました。・・・そこ、微妙とか言わない。

こうしてカレッジキャリアを全うしたウェザースプーンは'92年のNBAドラフトへエントリー、1巡目9位で指名されます。彼を指名したのはフィラデルフィア・76ers。お分かりでしょうか、このタイミング。チャールズ・バークリーのエントリーをお読みであればバークリーがシクサーズにトレードを要求した件はご記憶の事と思いますが、なんとシクサーズはトレードでバークリーを放出して僅か3日後に同じポジションのウェザースプーンを指名したのです。実に分かり易い話ですね。

そもそもフィラデルフィアのメディアはNCAAトーナメント時点でウェザースプーンを「メトロのバークリー」と呼んでいました。確かに彼らには共通項がありました。それは、PFらしからぬ背丈です。バークリーが6-6と言いながら実際は6-4だったように、ウェザースプーンも6-7と言いながら実際は6-5に近かったのです。それでいて、バークリーと同じくウェザースプーンもまた、リバウンドへの情熱は強いものがありました。要するに色々被りまくってたんですね。かくてフィリーのメディアは喜び勇んで彼に「ベイビー・バークリー」のニックネームを授けてしまった訳です。すわ、ハロルド・マイナーの悲劇再びか?ま、再びも何も彼らはドラフト同期だった訳ですが。しかもマイナーよりもキツい事に、ウェザースプーンの場合はまんま、本物のバークリーの後釜で入ってしまってましたから完全比較されるという、新人にはハードモード過ぎる展開でした。しかもそこで「ベイビー・バークリー」だの「ネクスト・バークリー」だの・・・正直これは潰れてしまっても仕方無いレヴェルです。

・・・今回も結論を先に言ってしまえば、マイナーと違って彼は大丈夫でした。シクサーズに加入した初年度から15.6得点7.2リバウンドをマークして当時のシクサーズのルーキー記録を樹立(スタックハウスとアイヴァーソンが後に更新)、リバウンドでもシャック、モーニング、レイトナーという錚々たる面々に次いでルーキー4位に入り、オールルーキー2ndチームに選出されたのです。マイナーに負けたのはただ一つ、マイナーに次いで2位に入ったダンクコンテストだけでした。

昔のNBA年鑑を見ると、ウェザースプーンに関して「76ers一の努力家で自称ブルーカラー型」(ザ・マサダ刊『完全NBA選手名鑑'98』)という記述が見られます。要するに彼はベイビー・バークリーと言うほどの華があるタイプでは無かったのですが、ベストを尽くすハードワーカータイプだった訳ですね。HCには重宝されるタイプだったんじゃないでしょうか。

ウェザースプーンはその後もシクサーズで4シーズンを戦い抜きます。2・3年目は18点超の平均得点をマークし、スタックハウスが加入した4年目、アイヴァーソンが加入した5年目には彼らにボールを持っていかれて分かり易く得点アヴェレージを下げながら、しかし地味かつ堅実に頑張ったと言えるでしょう。しかもその間、シクサーズは'94年オフにシャロン・ライトとスコット・ウィリアムズ、'95オフにはコールマンをロスターに迎えています。彼らPF選手の加入の結果、ウェザースプーンはポジションをPFからSFにスライドしていたにも拘らず、引き続き好成績をマークし続けました。バークリー程の高FG成功率こそ無理だったものの、リバウンドとロングレンジジャンパー、インサイドでの頑張りでもってウェザースプーンはシクサーズ冬の時代を戦ったのです。

'97オフ、ロスターに手を入れるのが大好きなラリー・ブラウンがHCに就任します。彼は早速ウェザースプーンとマイケル・ケイジをセットにしてセルティクスのディノ・ラジャと交換しようとしましたが、これはラジャが健康診断をパス出来なかったため破談に終わります。すると今度はブラウンは、シーズン半ばにジム・ジャクソンとウェザースプーンをセットにして、ジョー・スミス&ブライアン・ショーと交換でウォリアーズへトレードしたのです。

これを境にウェザースプーンはジャーニーマンとなります。ウォリアーズで残り31試合を先発出場した後、彼はFA移籍でヒート→ショーン・ケンプやブライアン・グラントが絡む三角トレードでキャヴスへトレード→FA移籍でニックスと渡り歩きました。'00-'01シーズンのキャヴスでは82試合全て先発出場を果たしたものの、徐々にベンチからのスタートが増えていったのです。

最終的には'04-'05シーズン終了後、トレードされて2シーズンを過ごしていたロケッツにて解雇され、そのまま引退。オールスター選出もリングも無く、オールルーキー2ndチーム選出以外に特に勲章はありません。プレーオフでも'99-'00シーズンのヒートでカンファレンスセミファイナルまで進んだのがやっとでした。しかし、それでも同期の「ベイビー・ジョーダン」マイナーのような結末に比べれば彼のキャリアはそれなりに実りがあったと言えるでしょう。

派手なダンクや煌びやかなムーヴが無くてもNBAで長年結果を残せる、という見本のような選手、ウェザースプーン。バークリーのような偉大な足跡こそ残せませんでしたが、そのキャリアは十分尊敬に値するものでは無いかと思う次第です。



※本文引用以外の参考文献
Wikipedia
NBA.comよりバイオ(ウェブアーカイヴ)
NBA.comよりキャリアスタッツ(ウェブアーカイヴ)
NBA.comヒストリカルページよりキャリアスタッツ
バスケットボールリファレンス.comよりキャリアスタッツ



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ARTISAN 4 バイロン・スコット〜終わらないショータイム〜

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いや〜、迷いました。実は「新・栄光無き〜」「(´・ ω・`)ショボーン」そして当シリーズはこの4回目においてはそれぞれ物故者を扱うつもりだったんです。でも、良く考えたらそれをやるとバイアスから4人連続故人を偲ぶエントリーが続いてしまうというダウナーな感じになってしまいます。つーかその2回前もペトロヴィッチですし。

つー事で今回は当初の予定を変更し、セルティクスが2回続いたのに対抗して(?)レイカーズで行きましょう。あのショータイムバスケットボール時代を支えたガードにして、引退後はHCとしても実績を重ねつつある御方の登場です。オールドファンから近年のファンまで知名度の高い名選手/名コーチ、バイロン・スコットであります。

スコットは1961年3月28日、ユタ州オグデンに生を受けました。が、育ちはカリフォルニア州イングルウッドであります。そして高校時代にプレーしていたモーニングサイド高校はレイカーズの旧ホーム、ザ・フォーラムの近所だったんです。ある意味、既にレイカーズの申し子のようなものだったのかも知れません。高校時代、彼はマクドナルドオールアメリカンに選出と、早くもその才能の片鱗を見せていました。

http://thesundevils.cstv.com/sports/m-baskbl/mtt/scott_byron00.html

大学ではアリゾナ州立大を選んだスコットはここで3シーズンを過ごします。彼が在学した3年の間に得点アヴェレージは13.6得点→16.6得点→21.6得点と順調に伸び、しかも3年連続FG成功率は5割超。1年生時の2試合を除く全ての試合に先発した結果でした。その間、'81年3月には当時トップランクチームだったオレゴン州立大に61-81と圧勝したり、'83年にはオールアメリカン2ndチームに選出されたりといった成果を挙げています。



スコットは'83年、ドラフト4位でサンディエゴ・クリッパーズ(現ロサンゼルス・クリッパーズ)により指名されます。そして直後にノーム・ニクソンとのトレードでレイカーズへと移籍したのです。ノーム・ニクソンは当時レイカーズの先発PGでしたが、これでマジック・ジョンソンは先発PGへとスライドします。既にマジック・ジョンソンとカリーム・アブドゥル・ジャバーを中心としたレイカーズにおいて、スコットは1年目から74試合中49試合に先発し、チーム6番目のアヴェレージとなる10.6得点を挙げます。そして徐々にスコットは先発SGの座をより確かなものとし、マイケル・クーパーと共にショータイム・バスケットボールのフィニッシャー役となっていったのです。



こちらの動画の背番号4がスコット、21番がクーパーです。マジック・ジョンソンのトリッキーなノールックパスも、ボールをキッチリ受け取りゴールに叩き込む彼らの存在あってこそでした。特にマジックの加入1年目から一緒のクーパーはともかく、後から加わったスコットがアジャストするのは大変だったと思いますが、彼はレイカーズにおいてジャバー、マジック、ウォージーに続く4番目の得点源へと華麗に成長を遂げていきました。



先日もご紹介した「NBA's 100 GREATEST PLAY」のアシストランク1位に入っているこのマジック・ジョンソンのキャリア屈指のアシストもまた、スコットがフィニッシャーです。確かにマジックのパスもブリリアントなんですが、それを躊躇無く受け取り叩き込むスコットの運動能力あってのこのハイライトな訳です。今のスーツ姿からはちょっと想像つかないですかね?無論それだけでなく、基本的なシュート能力にも長けていた彼は3ポイントをも武器として得点を稼いだのです。実際'84-'85シーズンには.433で3ポイント成功率リーグトップの座を獲得しています。



スコットはショータイムバスケット時代のレイカーズを駆け抜け、'85年、そして'87・'88年の2連覇と都合3つのリングを獲得します。そしてジャバー、マジックが去っていった後もレイカーズを支えます。マジック一度目の引退寸前の'91ファイナル(ジョーダン率いるブルズに敗退)でも彼はそこにいましたし、'93プレーオフでバークリー加入効果でファイナルまで進む事となるサンズ相手に1stラウンドでアウェー2連勝を果たし、サンズを土俵際まで追い詰めた時も彼はそこにいました。



しかしこのオフ、FAになったスコットを獲得しようという球団は不思議な事に現れませんでした。レイカーズはチームの再建に入り、若手中心の起用に切り替えていったためスコットには出る幕が無かったのです。やっと彼がNBAに戻ったのはなんと12/6、レジー・ミラーのバックアップSGとしてペイサーズと契約してからでした。この新天地で彼は見事に期待された通りの仕事をこなし、チーム5位の平均得点でペイサーズのベンチに厚みをもたらしたのです。実際ペイサーズは彼の在籍2年間、いずれもカンファレンスファイナルまで勝ち進んでいます。ファイナルへ勝ち進んだニックス、そしてマジックにもしもペイサーズが勝っていたらロケッツと対戦していた訳ですが、果たしてどうなっていた事でしょうね。



この後'95オフにはエクスパンションドラフトでヴァンクーヴァー・グリズリーズ(現メンフィス・グリズリーズ)へ移籍、新設フランチャイズで1年を務めた後に解雇されると、再びレイカーズへと戻ったのです。この'96-'97シーズンは彼のキャリア唯一にして最後の1桁アヴェレージではありましたがヴェテランに相応しいリーダーシップをもたらしたのです。シャック、そして新人コービーを迎えて再び頂点を目指そうという体制を整えたレイカーズにとって、黄金時代を知るスコットの復帰はかなり良い補強でした。特に高校卒業したてのコービーにとっては良いお手本だったはずです。その頃の事をスコットが話しているインタヴューを見つけましたので、英語ヒアリング能力堪能な方は是非お聞きになってみて下さい。



このシーズンを最後に、遂にスコットはNBAを去ります。NBA史上75人目の15,000点達成、37人目の1,000試合出場など数々のマイルストーンに満ちた彼のNBAキャリアに欠けていたのは、スター多数のチーム故に選出されなかったオールスターぐらいのものでしょう。



なお、スコットはこの後ギリシアへ渡り、名門パナシナイコスと契約。何度と無くNBAで修羅場を潜り抜けて来た経験を最大に生かしてクラッチショットを沈めまくった彼は、パナシナイコスにギリシアチャンピオンの座をもたらし、今度こそ現役生活に別れを告げたのです。

そして休む間も無く彼はコーチ家業へと華麗な転身を遂げます。早速'98年からリック・エイデルマン政権になったばかりのキングスでACとして雇われると、ペリメーターのシューティングに磨きをかける事にまず成功します。

そして2000年には早くもネッツでHCに就任。初年度こそ26勝止まりと散々な成績だったものの、トレードでPGがマーブリーからキッドに代わった途端に快進撃を開始、一気に2年連続のファイナル進出という成果を得ます。なお、スコット体制で'01-'02シーズンに達成した52勝はネッツのフランチャイズ記録です。

ネッツでは4年目、'03-'04シーズン半ばに22勝20敗とやや低調なシーズンの最中に解雇されたスコットでしたが、翌'04-'05シーズンには今度はホーネッツのHCに就任。ここでも1年目こそ18勝止まりでしたがPGをバロン・デイヴィスからドラフトで獲得したクリス・ポールへと変更した2年目からチーム成績を徐々に好転させ、'07-'08シーズンにはこれまたホーネッツのフランチャイズ記録となる56勝ををマークし、激戦のウエスタンカンファレンスでカンファレンスセミファイナルまで駒を進め、スパーズと第7戦まで縺れ込む激戦を演じました。この翌シーズンもホーネッツは49勝でプレーオフ出場を果たしています。

スコットはホーネッツでも'09-'10シーズン、チームが3勝6敗と出遅れたところでまたしてもシーズン半ばの解雇となります。が、またしても間を空ける事無くキャヴスHCに就任したのが昨季の事だった訳です。またしても初年度、彼のチームは19勝に終わりました。そして今、またしてもPGをバロン・デイヴィスからカイリー・アーヴィングへと交代しようとしているのです。きっとスコットはネッツ、ホーネッツで得たのと同じような成果を、またしてもキャヴスで得られる事でしょう。レブロン時代に達成されたキャヴスのフランチャイズレコード、66勝を更新するのだけはちょっと大変かも知れませんが

※本文引用以外の参考文献
Wikipedia
NBA.comよりキャリアプロフィール(インターネットアーカイヴ使用)
バスケットボールリファレンス.comよりキャリアスタッツ
バスケットボールリファレンス.comよりヘッドコーチとしてのスタッツ



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ARTISAN 3 デトレフ・シュレンプ〜ノヴィツキーのプロトタイプ〜

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時代はドイツ、ですねえ。これを書いている2011年7月時点でNBAではノヴィツキーがファイナルMVP、F1ではヴェッテルが2年連続のチャンピオンへ独走中、そしてドイツ政府は世界最速で原発の全廃を決めました。イタリア政府も続いた事ですし、日本もこの際脱原発宣言をぶちかまして、今度は正義の日独伊三国同盟でも掲げればいいじゃないとか思っちゃいます。

ドイツ人が本気出したら、何のジャンルでも他の追随を許さない気がするのは私だけでしょうか。大学の時ドイツ語の教師がドイツ人のイケメンだったんですが、「ドイツ人の有名人を挙げて下さい」という問題に対して1・2番目ぐらいにヒトラーの名前が出てきて「ですよね〜」みたいな表情の先生が可哀想なので、シューマッハとかボリス・ベッカー、シュテフィ・グラフあたりの名前を出してフォローしてみた事を思い出しました。何つーか、いつ時分でも安定して世界トップクラスの人材を輩出するお国柄ですよね。

ところで、政治から学問、スポーツに至るまで精緻な国民性を遺憾無く発揮するドイツ人でさえも、流石にバスケットボールの世界にスターを輩出するには時間がかかりました。そうですよね、何しろ2000年代までドイツ人のNBA選手なんて台頭しなかった・・・いいえ、そうでもありません。ノヴィツキーの登場より早く、ドイツ人の先駆者となる長身シューターが存在しました。彼はチームのエースにこそならなかったものの、6thマンとして、また優秀な先発選手としてNBAに留まり続け、オールスター出場、更にはファイナル進出までも果たしたのです。今回はそんなドイツの、そして欧州選手の先駆者の1人、デトレフ・シュレンプを取り上げます。

シュレンプが生まれたのは1961年1月21日、ドイツが東西に分かれていた時代です。西ドイツのレヴァークーゼンに生を受けた彼はしかし、ノヴィツキーみたくドイツでずっとバスケットキャリアを積んでいた訳ではありません。彼は高校時代に大西洋を渡り、ワシントン州セントラリア高へと転校したのです。'81年、早速彼は新たな母校をワシントン州チャンピオンへと導きます。大学も同じワシントン州のワシントン大へ進学し、オールPAC10チーム、オールアメリカン2ndチーム(スポーティングニュース選出)などに名を連ねました。

また、'84年のロサンゼルス五輪には西ドイツ代表として出場、強豪ユーゴスラヴィアを向こうに回して30得点9リバウンド6アシストをマーク。この後もブラジル相手に36得点7リバウンドなどのスタッツを叩き出して予選ラウンドを2勝3敗で突破、マイケル・ジョーダンを擁するアメリカ代表と対戦します。ここで西ドイツは67-78と敗退して結局8位に留まったものの、終わってみれば全ラウンドを通じてアメリカ相手にもっとも接戦を演じたチームとなったのです。

そしてシュレンプはこの後、ジョーダンに遅れる事1年、'85年のドラフトにて1巡目8位でマヴスに指名されます。そう、なんとマヴスなんですよ。'80年代後半のマヴスはレイカーズをも脅かす好チームでしたが、それ故に新人のシュレンプには長時間の出場機会を得る事はありませんでした。



彼のこの頃のハイライトと言えばオールスターの3ポイントコンテストでした。特に初登場の'87年にはラリー・バードと優勝を争っています。このシーズン、彼の3ポイント成功率は.478でリーグ2位だったのです。



彼のNBAキャリアにおける転機はトレードでした。'89-'90シーズン半ばの2月、彼はヴェテランセンターのハーブ・ウィリアムズと交換でペイサーズへと移籍。これをきっかけにシュレンプの出場時間は30分台に乗り、成績も向上していきました。'90-'91シーズンには16.2得点7.9リバウンド3.2アシストとウェルバランスなスタッツで評価を勝ち取りました。彼はこのシーズン、更に翌シーズンとペイサーズで2年連続6thマンアワードを受賞します。

そして'92年のオフ、シュレンプは8年振りにオリンピックに出場。既にこの時ベルリンの壁は崩壊し、東西ドイツは悲願の統一を果たしていました。シュレンプも万感の思いを込めて、初の統一ドイツ代表としてバルセロナの地に立ったのです。なお、この時はドリームチームのアメリカに68-111とフルボッコにされつつ予選ラウンドを2勝3敗で突破、最終的には7位となりました。

そして'92-'93シーズン。シュレンプは遂に先発の座に定着し、19.1得点9.5リバウンド6.0アシストという目覚しい成績を挙げました。シュレンプという人はPGからCまで全ポジションこなせるんじゃないかというくらい器用なヒトでした。6-10という長身に見合わないボールハンドリングとシュートのスキル、そしてリバウンド能力。このシーズン、得点・リバウンド・アシストの3カテゴリーでトップ25に入ったのは彼1人です。このシーズン初のオールスター選出も納得ではあります。ま、彼が外国人枠を取ったので同じく好成績だったペトロヴィッチが選ばれなかった、という可能性もありますがね。

この素晴らしい成績を引っ提げて、更にシュレンプはトレードで新天地へ向かいました。デリック・マッキー等との交換で向かった先は、シアトル・スーパーソニックス(現サンダー)。ペイトン、ハーシー・ホーキンス、ケンプ、サム・パーキンスを擁していたソニックスにおいてシュレンプは長身先発SFとなったのです。6-10もの長身でSF先発というのはKGやそれこそノヴィツキーの登場まではかなり珍しい存在だったと言えます。

ソニックスでの6シーズンはシュレンプにとってのベストイヤーズであり、またソニックスにとっても最後の全盛期でした。ペイサーズ時代には控えていた3ポイントを再び武器とし、'94-'95シーズンには実に.514という高確率で再びリーグ2位に。FG成功率も.523で19.2得点6.2リバウンド3.8アシストという成績を挙げ、再度オールスターに選出されたのです。

ソニックスは'96年、チーム史上最後のファイナルへ進出。マイケル・ジョーダン復帰とロドマン加入で史上最強と謳われたブルズ相手に、2勝4敗と善戦を繰り広げました。NBAファイナルに辿り着いたドイツ人は'11年7月現在、シュレンプとノヴィツキーの2人のみです。

その後も'97、もう一度オールスターに選出されたシュレンプでしたが36才に達した'99オフにはソニックスを去り、FAでブレーザーズへ。選手層激厚のブレーザーズにあってバックアップとして貢献した彼はこのシーズン、久々にプレーオフでファイナルを伺う位置に。が、ブレーザーズはファイナル進出を目前とした第7戦、レイカーズに4Qでの大逆転負けを喫し、シュレンプ2度目のファイナルはなりませんでした。そして翌'00-'01シーズン、26試合のレギュラーシーズン出場とプレーオフでの3試合出場を最後に彼はユニフォームを脱いだのです。

引退後は'06年にソニックスでACを務めています。なお、この時のソニックスのHCはシュレンプのペイサーズ時代にHCだったボブ・ヒルでした。現在はワシントン州のコールドストリーム・キャピタル・マネージメントなる会社でビジネス・デヴェロップメント・オフィサーを務めています。元々大学時代に国際ビジネスを専攻してΦΔΘ(Phi Delta Theta)にも所属していた彼にとっては、バスケットボールから離れたセカンドキャリア構築もお手の物だったのです。こんなところでまでオールラウンドプレーヤーだったんですね。

更に彼は現役時代にデトレフ・シュレンプ基金を設立、こちらでも夫婦で多種多様のチャリティー活動に取り組み、数々の表彰を受けています。本当に驚きの守備範囲の広さですね。

夫婦と申し上げましたが、彼の妻マリーもまたアスリートです。'84年のロサンゼルス五輪には陸上のハードル選手として出場していたという経歴があります。そんな2人の間に生まれた子供はなかなかのエリートアスリートになれる気がするんですが、とりあえず2人の子供のうち長男のアレックス・ジョーダン・シュレンプはUCLAに在籍しているものの成果は出ていないようですね。まあ偉大な父親の影に怯える事無く頑張って欲しいものです。



最後に、シュレンプと言えばこの話題に触れないといけません。バンド・オブ・ホーセズというバンドがシュレンプの名前を関した楽曲、その名も「デトレフ・シュレンプ」という曲をリリースしているのです。シュレンプが引退した後、'04年にシアトルで結成されたこのバンドは名門レーベルたるサブ・ポップからデビュー。2ndアルバム「シース・トゥ・ビギン」の4曲目にこの楽曲を配したのです。このアルバムで全米35位にまで入った彼らは'10年の3rdアルバム「インフィナイト・アームス」で更なる成功を掴む事となりますので、興味を持った向きにはお勧めしておきます。なお、楽曲「デトレフ・シュレンプ」ですが歌詞を読むと別にバスケットボールについての歌ではありませんでしたw

ノヴィツキーに先立つ事13年、彼と同じく両フォワードポジションをこなした長身シューターにして先駆者として第一線で戦い続けた偉大なドイツ人の先輩にも、ノヴィツキー同様のリスペクトが持たれ続ける事を願って止みません。



※参考文献
ウィキペディア
Wikipedia
バスケットボールリファレンス.comよりキャリアスタッツ
スポーツリファレンス.comよりシュレンプのオリンピックスタッツ
Basketball Tippsよりバイオ
the GOOD POINT.comよりシュレンプの記事
InterBasket.netよりシュレンプのプロフィール



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ARTISAN 2 レックス・チャップマン〜スラムダンカーからクラッチシューターへの華麗なる転身〜

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NBAでプレー出来る選手ってのは、多かれ少なかれ何らかの能力なり特技なりを持っています。背の高さ、フィジカル、運動神経、ジャンプ力、メンタルタフネス、そういった数々の能力に日々の努力が合わさって、NBAでやっていける何かを持つのです。それがどういう形で結実していくか、それは選手個々人の特性や日々の練習の内容・成果によって異なります。また努力の結果、後天的に身につけるスキルだって当然ある訳です。マイケル・ジョーダンは引退まで新しいムーヴを研究する事に余念がありませんでしたが、そういう努力の賜物が今の彼の地位を築き上げているんですね。

今回はある意味ジョーダンと同じく、スラムダンカーからクラッチシューターへとジョブチェンジを果たしたあるガードについて取り上げます。1965年10月5日、ケンタッキー州ボウリング・グリーンに生を受けたこのイケメン(過去形)の名前は、レックス・チャップマンです。

レックスさん素敵!





地元のアポロ高校で既にバスケットボール選手としてスターだったチャップマンはあちこちの大学からリクルートされるも、地元志向を徹底して大学でもケンタッキー大を選びます。地元ながらも名門のこの大学で、オールサウスイースタンチームに1・2年と選出。2年時にはチームを27勝6敗まで引き上げ、チームはAP及びUPIの全国ランキングで6位に入ったのです。NCAAトーナメントでの成果はスウィート16(文字通り16強入り)で終わりましたが、チャップマンは大学でもそのキャリアを成功させたと言えるでしょう。かくてチャップマンは2年の在学期間を終えてNBAドラフトへとアーリーエントリーを果たしたのです。

'88年ドラフト、8位でチャップマンを指名したのがシャーロット・ホーネッツ(現ニューオリンズ・ホーネッツ)でした。彼こそはホーネッツ史上初のドラフト指名選手だったのてす。新球団創設当初故にスター選手もおらず、気兼ね無くプレー出来たであろうチャップマンは16.9得点となかなかのNBAキャリアスタートを切ります。ただ、やはりチームはエクスパンション1年目の悲しさ、20勝止まりのドアマットモードでありました。



またこのシーズン、チャップマンはその運動能力を武器にダンクコンテストにもエントリーするも8人中6位でフィニッシュ。優勝は全員をウィンドミルで吹き飛ばした感のあるドミニク・ウィルキンスのものとなります。



しかし翌年、彼は今一度ダンクコンテストに挑みます。チームメイトのケンドール・ギルも参戦したこのコンテスト、惜しくもチャップマンは8人中3位で敗れました。これらを見ても分かる通り、この頃のチャップマンはその運動能力でド派手なダンクをブチかます選手というイメージが強かったですね。この頃のNBAヴィデオを見ても、ダンクでのハイライトシーンに彼のダンクは結構使われていたものでした。

チャップマン自身の個人成績は2年目には17.5得点、3年目には15.7得点と推移します。問題はその間、ホーネッツが特に勝ち星を伸ばせた訳では無いという点でした。そして4年目、'91-'92シーズンに遂にチャップマンはホーネッツに見切りを付けられてシーズン半ばにワシントン・ブレッツ(現ウィザーズ)へトレード放出されたのです。ラリー・ジョンソンがドラフト1位で加わり、いよいよホーネッツが浮上するかというタイミングでの移籍とは、チャップマンも無念だったのではないでしょうか。しかもこの時、チャップマンは故障のため移籍後1試合のみの出場でこのシーズンを終えるのです。順風満帆に見えた彼のバスケットボールキャリアに、翳りが差し始めました。

チャップマンはブレッツで3シーズンを過ごし、その出場試合の大半を先発で務めます。2年目にはFG成功率.498、3ポイント成功率.388、18.2得点と3部門でキャリアハイを達成。しかしながら、彼の在籍期間中ずっとブレッツはドアマットチームであり続けました。そして3年目、やっとクリス・ウェバーとジュワン・ハワードのミシガン大FAB5コンビが揃ってチームが浮上出来そうな戦力が揃い出したというのにチャップマンの出場試合数は僅か45試合と落ち込みます。ここまで2シーズン連続60試合しか出場出来ていなかったところに更に出場数が下がったのを見れば明白ですが、チャップマンは更に故障に苦しんでいたのです。

そしてチャップマンは'95オフ、ヒートへとトレードされます。既にイケメンの風貌は髪の毛と共に去り、いつしか彼は髪を剃って髭を伸ばす、やや精悍なビジュアルへと変貌しました。そのヒートでもチャップマンは56試合と相変わらず故障で減った出場試合のうち、50試合で先発を務めて14.0得点をマークします。そしてキャリア初のプレーオフ出場を果たしました。ま、史上最強のブルズ相手に3連敗してすぐ終わったのですが。チャップマン自身も9.0得点と一気に数字を落としてしまいましたが、まあ世界最高のSG、マイケル・ジョーダンが相手では致し方無いでしょう。

そしてこのシーズン後、チャップマンはFAでサンズと最低保証額での契約を果たしました。NBAデビュー以来実に4チーム目となったこのサンズこそが、彼にとって運命のチームだったのです。この時のサンズは既にバークリーがロケッツへトレード移籍して去っており、代わりにキャセール、オーリー、マーク・ブライアントを迎えていました。この時のサンズはそれだけではない激動の1年でしたね。まず開幕から13連敗でフィッツシモンズHCが退任し、代わって就任したエインジHCがオーリーに試合中顔面にタオルをぶつけられる事件が発生して、オーリーはセドリック・セバロスとの交換でレイカーズへ放出。更にキャセールもA.C.グリーン、マイケル・フィンリーとセットでマヴスからのジェイソン・キッド獲得トレードの為に出されてしまったのです。ああ、ついでに言うならばルーキーとしてスティーヴ・ナッシュが加わった年でもありました。

かように選手の出入りが非常に激しかったこのシーズンのサンズにおいて、チャップマンは例によって65試合という微妙な出場数のうち、33試合に先発して13.8得点をマーク。そしてこのポストシーズン、彼はサンズファンの心を完全に掴んで離さないプレーを見せたのです。40勝でかろうじて'97プレーオフに進んだサンズの1stラウンド(当時は5戦シリーズ)での対戦相手はソニックス。この強敵相手にサンズを引っ張ったのがチャップマンでした。

ケヴィン・ジョンソンとキッドがガードで先発し、チャップマンはSFという超スモールラインアップで望んだサンズにあってチャップマンは第1戦では42得点を叩き出していきなり1勝を勝ち取る原動力となります。第2戦でも18得点でチームをリードしますがこちらは敗戦し、1勝1敗でサンズはフェニックスへ戻ります。

第3戦、チャップマンは23得点。KJ21得点、ウェズリー・パーソン29得点も効いてサンズは王手。そして第4戦4Q残り4.3秒、104-107というところまで来て、チャップマンはサンズファンの目の前で、見た者にとって忘れ得ぬミラクルショットをぶちかまして見せたのでした。



クラッチショット数ある中でも、これは本当に凄いですね。かつてダンクコンテストに出場していたチャップマンの跳躍能力あってこそのこの同点3ポイントでこの試合は見事OTへ突入したのです。このOTで敗れたサンズは結局2勝3敗で1stラウンドで敗退しましたが、チャップマンのサンズでのステータスはこれで決定的なものになったと言えます。

実際、チャップマンはサンズと2シーズンの最低保証額契約が終わった後、平均300万ドル超の4年契約をかわします。これはサンズ側の誠意だったなぁと思いますね。正直故障の多いチャップマンに複数年契約を提示するだけでもリスキーだったはずですから。そして実際、チャップマンはサンズでこの後、結局通算4シーズンしか残れませんでした。サンズ2年目には68試合中67試合先発で15.9得点と往年のスタッツに近い数字を叩き出したものの、3年目は38試合(全50試合の短縮シーズン)、4年目は53試合しか出場出来ませんでした。しかも4年目には18.1分しか出られていません。この2シーズン、チャップマンは故障で満足にプレー出来なくなってしまったのです。かくて契約2年を残し、32才の若さでチャップマンはユニフォームを脱いだのでありました。

引退後のチャップマンはサンズに残ってスカウト、バスケットボールオペレーションディレクターを務めます。その後はTNTでコメンテーターを務めた後、ウルヴスでのスカウト、ナゲッツでのプレーヤー人事担当の副社長などを歴任してますね。

プレーヤー個人としては将来的に名前を残す事は難しいキャリアですが、彼の名前は知られなくともあのクラッチショットは永遠に語り継がれる事でしょう。NBAに入れても何も成し得ないまま去っていく選手の方が圧倒的に多い事実を考えれば、例えオールスターになったり優勝リングを持ったりする機会に恵まれなかったとしても、彼のキャリアは決して悪いものでは無かったと思う次第です。

※参考文献
Wikipedia
ケンタッキー大ホームページ
NBA.comよりスタッツ
バスケットボールリファレンス.comよりキャリアスタッツ



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ARTISAN 1 サム・パーキンス〜異なるチームでファイナルに3回届いた男〜

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さて、こちらのシリーズもいよいよスタートです。1人目に誰を選ぶか二転三転しましたが、結局このヒトにしてみました。

平凡または明星


昔の明星か平凡みたいな爽やかな笑顔の2人、左は言わずと知れたマイケル・ジョーダン。そして右の選手が今回取り上げるビッグマン、サム・パーキンスです。

1961年6月14日、ニューヨークはブルックリン生まれのパーキンスは高校時代に頭角を現してマクドナルドオールアメリカンに選出された後にノースカロライナ大へ進学します。そこでチームメイトとなったのが写真の通りのマイケル・ジョーダン、そしてジェームズ・ウォージーでした。後にNBA入りを果たすこの3人を擁したノースカロライナ大は'82年のNCAAトーナメントでユーイングのジョージタウン大との激戦を制し、優勝の栄光を味わいます。パーキンスはまた、'84年のロサンゼルス五輪代表チームでもキャプテンの1人としてプレイ、金メダルを獲得したのです。まあジョーダンにユーイング、マリンを擁するチームでしたからそりゃ勝つよなとは思いますが。

そんなパーキンスはジョーダンと同じ'84年のドラフトで、ジョーダンに続く4位指名でマヴスの指名を受け入団。バークリーよりも指名順位が上なんですよ、実は。大豊作で名高いこの年のドラフトで4位、非常に高い評価が分かります。余談ですが、只今ファイナルで奮闘中のマヴスを率いるHC、リック・カーライルは3巡目70位で指名されていたりしますね。

http://blog.goo.ne.jp/tatsuya0505/e/80a90b9a197e3add5b0e13bbc4222deb

当時のマヴスはチーム創設5年目。プレーオフにようやく出場出来たばかりのチームで活躍していたのはブラックマンやアグワイア・・・といった話はNBAちゃんぷる〜さんのマヴスシリーズに詳しいですね。とりあえずパーキンスはオールルーキー1stチームに選ばれる、まずは悪く無いスタートを切りました。チームの中心とまでは行きませんが「ビッグ・スムース」の通称に相応しいビッグマンらしからぬスムースな動きで先発センターとしてチームに貢献したのです。

彼の在籍期間中、マヴスは'88-'89シーズン以外はプレーオフに出場。特に'86年にはカンファレンスセミファイナル、'88年にはカンファレンスファイナルまで勝ち進み、大学時代の先輩たるウォージーの在籍するレイカーズと激戦を繰り広げました。特に'88年の対戦では第7戦まで縺れ込む激闘の末にレイカーズが何とか逃げ切ったのです。実はマヴスがレイカーズとプレーオフで対戦する事は'11プレーオフ、カンファレンスファイナルまで無かったのです。つまりマヴスは23年振りのリヴェンジを成し遂げた訳ですね。

'90オフ、パーキンスはマヴスを離れ、FA移籍でそのレイカーズへ。この移籍とタイミングを同じくしてマヴスは一気にドアマットチームへの転落を果たしてしまいます。一方カリーム・アブドゥル・ジャバーが引退してセンターに苦労していたレイカーズで彼はたやすく先発を獲得しました。マヴス時代対戦していたUNCの同窓生ウォージー先輩とようやく同じチームに入れたパーキンスは、しかし今度は別のUNC同窓生とプレーオフで対戦する事となりました。そう、この年のレイカーズが若きダンリーヴィーHCに率いられて勝ち上がり、'91ファイナルで対戦した相手こそがフィル・ジャクソン、そしてマイケル・ジョーダン率いるブルズだったのです。



第1戦、ブルズが91-89とリードする残り23.5秒。ここでマジック・ジョンソンがボールを持ち、ブルズを引き付けておいて矢のようなパスを投げた相手こそがパーキンスでした。彼の3ポイントでレイカーズは見事残り14.0秒での逆転に成功。マイケル・ジョーダンのクラッチジャンパーはリムに嫌われ、最後に一縷の望みを賭けたピペンのハーフコートブザーも外れ、レイカーズはそのまま逃げ切ったのです。が、レイカーズはこの後4連敗し、パーキンスの初ファイナルは終わりました。

パーキンスはこの後、'92-'93シーズン半ばにベノイト・ベンジャミン+クリスティと交換でペイトン&ケンプを擁するソニックスへトレード。これ以降彼の出場時間が平均30分を越える事は無くなりました。先発も徐々に固定ではなくなっていきましたが、一方で3ポイントのアテンプト、そして成功率はアップしていったのです。

ソニックスは彼の移籍1年目に63勝、2年目に57勝するもそれぞれ1stラウンドで敗退(特に1年目はナゲッツに食らった史上初の第1シードアップセット)するなどポストシーズンで苦しみましたが3年目、'96プレーオフで遂に勝ち進んでファイナルへ。しかし、2シーズンの足踏みはマイケル・ジョーダンの引退中という貴重なチャンスをフイにしてしまいました。ようやくソニックスがファイナルの舞台に立った時、NBA史上最強のチームの1つと化していたブルズが、今度もパーキンスの前に立ちはだかったのです。



ニックスに1敗したのみでファイナルまで勝ち上がった最強ブルズ相手にソニックスは2勝を挙げますが、最後は力尽きます。パーキンス2度目のファイナルはまたもフィル・ジャクソン、ジョーダン、そしてブルズに敗れて終わりました。ソニックスはその後もウエストの強豪として頑張りますが、カンファレンスセミファイナル止まりとなります。

そして'99年。ロックアウトの影響で短縮シーズンとなったこのシーズン、パーキンスがFA移籍で向かった先はペイサーズでした。またしてもプレーオフ常連の強豪に加入したパーキンスがキャリア3度目のファイナルの舞台に立ったのは加入2年目、'00年ファイナル。対戦相手はまたしても、しかも今やフィル・ジャクソンが指揮する古巣レイカーズだったのです。ロスターにはレイカーズ時代のチームメイトたるA.C.グリーン、'96ファイナルを戦ったブルズにいたロン・ハーパー・・・パーキンスにとっても懐かしい相手であったことでしょう。

パーキンスはこの時点で引退を示唆していました。この時SLAM誌編集長が当時、SLAM誌の自らのページで「パーキンスは本当に引退するのか?」という一文を寄せていた事をよく覚えています。この時、パーキンスは'82年にNCAAトーナメントを制したUNCのロスター最後の現役選手だった(マイケル・ジョーダン自身が復帰するまでは、ですが)というこの一文、当時やけに私の心を打つ素晴らしい文章でしたね。



3を放つ度にインディアナの会場から「SMOOTH!」という歓声が響くほど人気者となっていたパーキンスはこのファイナルでもベンチから出場、'91年、'96年同様3ポイントで貢献します。しかし結局ペイサーズもまた、2勝4敗でレイカーズの前に屈しました。パーキンスはあと1年現役を続行しましたが最早FG成功率は4割を切り、チームも1stラウンドでシクサーズの前に敗退。40才のパーキンスはこのオフ9月17日に解雇され、今度こそ現役を退く事となったのであります。

http://www.nytimes.com/2008/09/18/sports/basketball/18hall.html

パーキンスは'08年にはニューヨークバスケットボールの殿堂(いわゆるバスケットボールの殿堂とは別です)入りを、ケニー・アンダーソン、ロッド・ストリックランドといった面々と共に果たします。

http://www.nba.com/pacers/news/perkins_hired_080609.html

またペイサーズでのファイナル進出時のHCだったラリー・バード社長の引きでプレーヤーとの関係を担当する副社長に就任しますが、こちらは2年後にその職を解かれています。現在はバスケットボールキャンプを行っている以外の活動はちょっと分からないですね。今回のプレーオフでカンファレンスファイナルでの分析をやっている記事がダラスニュース.comにありましたが、ダラスではやはり今でも「元マヴス」という事でこういう時にお声が掛かるのかも知れませんね。

3度のファイナル全てでジョーダンとフィル・ジャクソンの前に敗れ、個人としてのキャリアは選手としては概ねスターターではありながらもオールスターに届かず目覚しい記録は1試合でのミス無しで成功した3ポイント本数(8本)ぐらいと、パーキンスのキャリアは決して派手なものではありません。しかしその17年に及ぶ現役生活の間、プレーオフ不出場はマヴスでの1回(プレーオフ不出場)、レイカーズでの1回(パーキンス自身の故障)のみです。

プレーオフに出られないままキャリアを終える選手さえいる中で、ましてや弱小チームに指名されてドアマットにされる日々から始まりがちな高順位指名の選手であるにも拘わらず、彼はここまで所属チームに恵まれ続けました。ファイナルまで勝ち進むチームの一員として貢献する・・・そんな幸運に、しかも全て異なるチームで3度も恵まれたパーキンスのキャリアは、見かけ以上に充実したものでは無かったかと思うのです。今ファイナルを戦うパーキンスの後輩達にも、ファイナルの舞台で戦う重圧だけでなく、そこに立つ事が出来た幸運を噛み締めながら、悔いの無いプレーをして欲しいものですね。



※参考文献

Wikipedia
NBA.comよりスタッツ
NBA.comよりヒストリカルプレーヤースタッツ
バスケットボールリファレンス.comよりスタッツ・ゲームログ



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ペニー
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昔の名前はセントトーマスこと 「NBA MAGICAL INSIDE」 (現在更新停止)管理人、 2chマジックスレ は最近はご無沙汰。シャック&ペニー時代からマジックを追っかける'90s世代NBAファンです。耳寄り情報・ご要望・リクエスト・リンク希望・ツッコミetcはmagicalinside651@gmail.comまでドゾー。twitterにもおりますので「六伍壱」で検索してみて下さい。
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