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(´・ω・`)ショボーン 列伝

(´・ω・`)ショボーン列伝 8 ダニー・フェリー〜あるドラフト拒否の結末〜

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菅野選手、結局日ハム入りを拒否しましたね。ダルビッシュ先輩がいなくなるのは残念でしたが、逆に考えれば彼のいなくなった分、日ハムに入団していれば菅野選手にも登板のチャンスはあったはずです。1年浪人しても巨人が1位指名してくれるとは限らない中、菅野選手の今後がどうなるやらですな。

さて、日本プロ野球では江川卓氏を筆頭にドラフト指名を拒否して浪人したり大学や社会人へ逃げて再度ドラフトにエントリーしたりする例は巨人絡みを中心に割と多いですが、アメリカではあまり例が多くありません。MLBはまた事情が違うようですが、ではNBAではどうでしょうか。

以前当シリーズで指摘した通り、NBA創成期などに入団拒否選手が相当数いたのは確かです。が、彼らの殆どは他に入りたい球団があるから拒否したのではなく、そもそも今と違って高収入が約束されていないプロバスケの道でやっていく気が無かっただけの事でした。日本のプロ野球みたいな入団拒否のケースは、私が知る限りでは記憶にあまり多くありません。まあ後でトレードやらFAやらで移籍出来るからってのもあるんでしょうね。私がNBAで把握している入団拒否ケースは2つありますが、それも特定の球団に入りたいという日本プロ野球的な理由ではなく、指名された球団に入るのが嫌だという理由でした。

その一例がこれまた既に取り上げた、スティーヴ・フランシスのケースだったんですね。そして今一人が彼に先立つドラフト拒否男、今回取り上げるダニー・フェリーです。カレッジプレーヤーの頂点に立ちながらNBAでは今いちだったなんて選手は枚挙に暇が無いですが、フェリーは珍しいパターンで失敗したケースと言えるでしょうね。

ダニエル・ジョン・ウィラード・フェリーは1966年10月17日、メリーランド州ハイアッツヴィルの出身です。彼の父ボブはセントルイス大、そしてNBAセントルイス(現アトランタ)・ホークスなどで現役で活躍したのみならず、引退後もバルティモア・ブレッツ(現ワシントン・ウィザーズ)でAC、更にはGMとして手腕を発揮、なんと2度に渡ってNBAエグゼクティヴ・オブ・ザ・イヤーを受賞しています。そんな父の存在がダニーのバスケットボールへの関わりに影響が無い訳がありませんね。

ダニーは高校でも指導者に恵まれました。彼のデマッサカトリック高校時代のコーチ、モーガン・ウットゥンは2000年にはバスケットボールの殿堂入りを果たしたほどの方だったのです。何せホームページまでお持ちですからね、ウットゥン。かくてフェリーは高校在学中に2回のオールアメリカン選出、パレード誌選出のプレーヤー・オブ・ザ・イヤーの栄冠を得ます。NCAAの名門チームから引っ張りだこの彼はノースカロライナ大、メリーランド大と比較検討の結果、デューク大への進学を決めたのです。

http://news.google.com/newspapers?id=j3gqAAAAIBAJ&sjid=wFIEAAAAIBAJ&pg=4451,243499&dq=danny+ferry&hl=en

当時の新聞にもこのようにフェリーのデューク大入学決定は取り上げられました。そして今度は名将コーチKの指導の元、アーリーエントリー禁止だったデューク大でフェリーは4年の大学生活の間にイーストリージョナルでのMVP受賞2回、オールアメリカン1st・2ndチーム各1回選出、そしてネイスミスおよびオスカー・ロバートソントロフィー、そしてUPIのカレッジ・プレイヤー・オブ・ザ・イヤー選出といった足跡を残したのです。何しろフェリーは未だに、デューク大の1試合での最高記録となる58得点という記録を持っているのですよ。



彼は2012年1月現在、総得点5位、リバウンド5位、アシストで7位というデューク大の歴代記録を持っています。この3部門で全てベスト10入りしている選手はフェリーだけであり、デューク大の選手達もアーリーエントリーが許されるようになった事を考えてもこのフェリーの記録が大きく変動する事はあまり無いと思われます。またアトランティックコーストカンファレンス(ACC)で2000得点1000リバウンド500アシストを達成したのも彼が初めてです。・・・ってこのあたりWikipediaの記述まんまなんですが、これだけ書き並べてても何か凄いですよね。そりゃあ彼の背番号35が永久欠番になるのも当然です。

彼が在学した4年間、デューク大はNCAAトーナメントでは実に'86・'88・'89年の3度に渡ってファイナルフォー進出を果たします。しかも'86年はコーチK体制下で初のファイナル進出、'87年だってスウィート16です。フェリー在籍時のブルーデヴィルズはデューク大学が黄金時代を築き上げる先駆けとなったと言えるでしょう。

かように、学生時代のフェリーのキャリアはなかなかに順風満帆でした。これだけの足跡を残した6-10の白人長身フォワードがラリー・バード2世としてNBAでの活躍を期待されるのは至ってナチュラルな流れです。ただ、問題はそのNBA入りの際の話、即ちドラフトでした。

http://nbadraft.net/nba_draft_history/1989.html

Danny Ferry (1989 NBA Draft 2nd Pick - L.A. Clippers)

フェリーは1巡目2位という、事前の予想通りの高順位での指名を受けたのです。問題は彼を指名した球団でした。ロサンゼルス・クリッパーズ。'70-'71シーズンにバッファロー・ブレーブスとしてNBA加入を果たしたこの球団は'78-'79シーズンからサンディエゴ・クリッパーズ、そして'84-'85シーズンからロサンゼルス・クリッパーズとなって今に至るのですが、ブレーブス時代にカンファレンスセミファイナルまで2度進出したのと、その間に1度1stラウンドで敗退した以外の全てのシーズンでプレーオフ出場を逃していました。特にクリッパーズと改名してからの成績は本当に酷く、'81-'82シーズンには17勝。その後は25勝、30勝、31勝、32勝、12勝、17勝、21勝という暗澹たる成績を重ねていたのです。今日のポール&グリフィン体制からは考えられないでしょうが、文字通りのドアマットチームだったんですね。我々'90sからのNBAファンにとっても正直、クリッパーズと言えば長年のドアマットチームと言うイメージがありましたが、この頃はそれ以上だったと言えます。

Danny Ferry (1989 NBA Draft 2nd Pick - L.A. Clippers)

フェリーが指名を受けたのは、そういう球団だったのです。ね、物凄く浮かない顔してるのが分かるでしょ?いかに大都会ロサンゼルスとは言えど、ここまでどん底の球団に入る事をフェリーは嫌がったのですね。そして当時としては、いや近年でも極めて稀な実力行使にフェリーは打って出たのです。即ち、NBAでプレーせず、なんとイタリアへと渡ったのであります。そしてこの時、フェリーのエージェントを務めていたのは他ならぬデヴィッド・フォーク。マイケル・ジョーダンのエージェントとして名を馳せた彼はこんなところでも出番があったんですね。

http://sportsradiointerviews.com/2011/07/13/david-falk-nba-lockout-updates-cba-negotiations-david-stern-michael-jordan/

イタリアリーグのイル・メッサージェロ(現ロットマティカ・ウィルトゥース・ローマ)に入団した彼は彼の地で23得点6リバウンドのアヴェレージを記録、チームをプレーオフへと導きます。なお、フォークの談によるとこの時フェリーは400万ドルのサラリーを得ていたようです。これはこのチームのオーナーがイタリアで三本指に入る大富豪だったからこそ出来た、当時としては破格の待遇でありました。フェリーとオーナーが望むなら、彼らは引き続きイタリアでプレーを続ける事も可能だったでしょう。そしてこの強攻策に、クリッパーズのGMに就任した往年の名選手、エルジン・ベイラーも遂に折れ、フェリーを移籍させるトレードを実現します。要するに江川方式です。そのトレードの内容については既に取り上げましたね。

クリッパーズ←ハーパー、'90年1巡目指名権(後にロイ・ヴォートを指名)、'91年2巡目指名権、'92年1巡目指名権(後にエルモア・スペンサーを指名)
キャヴス←ダニー・フェリー、レジー・ウィリアムズ


そう、少し前に取り上げたロン・ハーパーのクリッパーズ行きを決めたのがこのトレードであります。ここにフェリーの「クリッパーズだけは嫌だ嫌だ嫌だ」作戦は見事成功し、フェリーはイタリアでのプレーを1シーズンで切り上げ、晴れて'90-'91シーズンからキャヴスでNBAキャリアを始める事となったのです。

当時キャヴスはマーク・プライスやドアティといったタレントを擁してイースト期待のライジングチームとなっていました。アマチュアバスケットの世界で数々のキャリアを築き上げたフェリーには、更にキャヴスを1つ上のレヴェルへ牽引する事が期待されたのです。そんな期待を込めてか、フェリーはなんとキャヴスと10年契約を結びます。総額は3700万ドルとも4000万ドルとも言われたこの契約、ルーキースケールの規定がまだ存在しなかったからこその賜物でした。

が、現実は残酷でした。遂にフェリーが1年を待ってデビューしたNBAの水はあまりに苦かったのです。そもそもフェリーが加わった時のキャヴスはインサイドにはジョン・“ホットロッド”・ウィリアムズがセンター、ブラッド・ドアティがPFで先発し、それをラリー・ナンスがバックアップするという形でした。インサイドの充実したこのチームにおいて、フェリーの出番は決して多くは無かったのです。しかし、彼らを押しのけて先発の座に座れるだけのインパクトがフェリーに無かったのもまた事実です。クリッパーズ行きを拒んでいなければ出場機会にも恵まれ、そこそこ出番を得てもっと経験を積めた可能性もあったと思うのですが・・・。




結局81試合に出たものの先発は1度だけだったフェリーのスタッツは出場時間20.5分、FG成功率.428で8.6得点3.5リバウンド1.8アシストという平凡極まりないものでしかありませんでした。そしてフェリーはキャヴスで過ごした10シーズンの殆どを、ベンチスタートで迎えたのです。後に3ポイント成功率は上がってNBAでも通用する武器になったものの、それだけでした。そしてその10シーズンの間、キャヴスがフェリーをトレードしようとする試みは全て徒労に終わったのです。



フェリーが先発に定着したシーズンが1シーズンだけありました。6年目の'95-'96シーズン、29才にして82試合中79試合に先発したフェリーはFG成功率.459、3ポイント成功率.394で13.3得点3.9リバウンド2.3アシストをマーク。先発PFとしてはちょっと控え目ながらもマイク・フラテロのスローテンポオフェンスチームとなっていたキャヴスにおいてチーム4位の得点源となったのです。しかし、翌'96-'97シーズンにはFG成功率は.429、平均得点は10.6得点へとダウン、先発試合も48試合に減ります。結局フェリーの出場時間が平均30分を越えたのはこの2シーズンだけだったのです。

2000年8月10日、10年契約を終えたフェリーはFA移籍でスパーズと契約。ここでも多少先発の機会を得た時期もありましたが、基本的にはベンチから登場するシューター役としてのキャリアを送りました。ただ、スパーズに入れた事は彼にとって幸運でした。ダンカンとデヴィッド・ロビンソンのツインタワー体制だったスパーズはフェリーが在籍した3シーズンのうち最初の2シーズンは3PEATを驀進するレイカーズの前に敗れ去ったものの、3年目の'02-'03シーズンには遂にそのレイカーズをも下し、待望のファイナルへ。そしてファイナルでもネッツを下し、デヴィッド・ロビンソンの引退の花道を見事飾ることに成功。フェリーもまたその恩恵に与り、優勝リングを勝ち取ったのであります。既に齢36才、出場平均時間も9.4分と1ケタ台にまで落ち込んでいた彼は平均得点も僅か1.9得点と、最早ロールプレーヤーとしても戦力外に近いところにいましたが、ともあれNBA選手が誰しも求めるものを得たのです。

この後、フェリーは'03年7月24日に三角トレードで移籍となります。

ペイサーズ←フェリー、スコット・ポラード
スパーズ←ロン・マーサー、ヒド・タコルー
キングス←ブラッド・ミラー


そしてトレードされた先のペイサーズにて、フェリーは9月30日をもって解雇。この後、彼が再びプレーヤーとしてコートに立つ事はもう無かったのです。キャリア平均7.0得点2.8リバウンド1.3アシストというスタッツは正直、ラリー・バードと比較されたカレッジの寵児としてはあまりに寂しい結果でした。彼がNBAに残した足跡はキャヴス歴代2位に当たる723試合出場ぐらいのものです。

なお、フェリー自身はこの後スパーズに戻ってフロントに加わりました。ここでバスケットボールオペレーション部門のディレクターとしてマネージメントの業務に携わって経験を積んだ後、フェリーは'05年6月27日にこれまた古巣のキャヴスと5年1000万ドル近い契約で、キャヴス史上8人目のGMに就任したのです。既にレブロンをエースと抱く体制が出来上がっていたキャヴスはこれまたスパーズ出身のマイク・ブラウンが6月2日にHCになっていました。キャヴスはスパーズの血をフロントと現場に同時に取り入れた事になります。

ここからのフェリーの仕事は皆さんの記憶に新しいと思います。フェリーはレブロンとの再契約のためにウィザーズからFAでラリー・ヒューズを引き抜きます。この補強そのものは結果的にはキャヴスに大きなプラスにはなりませんでしたが、ともあれレブロンはキャヴスとの契約を延長したのです。その後もフェリーはレブロン体制で優勝を目指すべく、そしてレブロンをずっとこのフランチャイズンに残留させ続けるべく補強を続けたのです。

結果としてキャヴスは'06-'07シーズンにはファイナル進出を果たしました。ファイナルで彼らをスウィープで薙ぎ倒した相手がフェリーとマイク・ブラウンの古巣スパーズだったのは出来過ぎでしたが。フェリーはその後もベン・ウォーレス、モー・ウィリアムズ、アンソニー・パーカー、ジャマリオ・ムーン、レオン・ポウ、シャキール・オニールといった選手を獲得。またドラフトでもダニエル・ギブソンやJ.J.ヒクソンを指名するなどの成果を残します。

http://www.nba.com/cavaliers/news/ferry_grant_100604.html


そしてレブロンが「The Decision」と共にキャヴスを去る決断を公表する2010年7月8日に遡る1ヶ月と4日前、6月4日にフェリーは契約期間1ヶ月を残してキャヴスのフロントを去りました。特に最後の2シーズンは2連続となるリーグ最高勝率をマークした事実を考えても、フェリーの補強は決して悪いものでは無かったとは思います。実際彼はキャヴスを去った後、再びスパーズに戻ってバスケットボールオペレーション部門のヴァイスプレジデントに就任したのですから。なお、プライヴェートではフェリーは妻と5人の子供に恵まれております。

NBA選手としてのフェリーのキャリアは非常に期待を下回るものでした。それがドラフト指名を拒否した結果なのか、そもそもフェリー自身がNBAでもエースとしてやっていけるだけの能力が無かったのかは今となっては分かりません。しかし、少なくともあのドラフト拒否がフェリーに全く悔いの無いものだったとは思えません。そのまま素直にクリッパーズに行っていたら彼のキャリアはどう違っていたのかと思わずにはいられませんし、そんな選択をかつて行った彼が結局レブロンには去られてしまう事となった運命の皮肉を感じずにいられないこの頃です。

※本文引用以外の参考文献
Wikipedia
SI.comより「NBA Draft Busts」
bleacherreport.comより「The Top 25 College Stars Who Were Busts in the NBA」
pocketfives.comより「WORST 10 PLAYERS TO EVER BE LABELED "THE NEXT LARRY BIRD"(FUNNY)」
BASKETBAWFULより「Worst NBA Champions: Danny Ferry」
バスケットボールリファレンス.comよりキャリアスタッツ



ADIDAS CLEVELAND CAVALIERS SNAPBACK CAP / アディダス クリーブランド キャバリアーズ スナップバック キャップ【ライトブルー×オレンジ】
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(´・ω・`)ショボーン列伝 7 ボビー・ハーリー〜注意一秒、怪我一生〜

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健康第一、じゃないですか。健康なうちはその有難さに気が付きませんが、そうでなくなって初めてその有難味に気付かされるってのは本当に良くある話です。これから福島原発事故によって我々も色んな局面で、思いもよらぬ形でそれを味あわされるのではないかと私は結構心配してます。皆、食べるものとか住むところとか色々気をつけるんだぞー。

http://iwaiff.com/201110/jp/friends/friends_after_311_movie_koide.html



さて、今回は流石にそこまで社会派な話ではありません。交通事故でのダメージで約束されていたはずのNBAキャリアを棒に振ってしまったNCAA界の至宝PGを今回は取り上げます。デューク大学で一時代を築き上げた幻の名司令塔、ボビー・ハーリーです。

ハーリーは1971年6月28日、ニュージャージー州ジャージーシティーの生まれです。彼の父ボブ・ハーリーSr.は地元セント・アンソニー高校のHCを勤めていました。



そんなセント・アンソニー高校に進学したハーリーは親子鷹宜しく、学校のスターとなります。'85年から'89年までの在学中、彼は母校を4年連続ニュージャージー州のトーナメントで優勝させたのみならず、4年生時には20得点8アシスト3スティールのアヴェレージ、32勝0敗のチーム成績、そしてアメリカ全体でのランキングNo.1をもたらしたのです。結局、彼の高校在学中の通算成績は115勝5敗という圧倒的なものとなったのであります。お約束のマクドナルドオールアメリカンにも勿論選出されて順風満帆な彼のバスケットボールキャリアは、大学進学により更に追い風に恵まれます。彼が進学した先は名門デューク大学だったのです。



ハーリーがデューク大学に身を置いた'89-'90シーズンからの4年間こそは、デューク大にとって最良の時代でありました。名将コーチKことマイク・シャシェフスキーの元、デューク大学は圧倒的な強さを発揮します。そしてクリスチャン・レイトナー、グラント・ヒルといったスター選手達をコート上で指揮していた司令塔こそがハーリーだったのです。彼は1年生時からいきなり7.6アシストを叩き出しすと、それ以降は徐々に平均得点をアップ。FG成功率も2年生以降は3ポイント成功率共々4割台に乗せたのです。

ハーリーの加入直前シーズンでも既にデューク大は28勝8敗、NCAAトーナメント準決勝まで勝ち進んでいましたが、ハーリー加入後は更に成績が向上。29勝9敗→32勝7敗→34勝2敗→24勝8敗と推移したのです。ハーリーの2年生時にヒルが加わり、4年生になった時にはレイトナーが卒業していました。要するに2・3年時が最強なんですね。実際、その2シーズンでデューク大は優勝しています。1年生時はラリー・ジョンソン率いるUNLVに決勝で敗れましたが・・・。3年生時には優勝のみならずファイナル4のMVPを獲得。また4年生時にはトーナメントこそ2回戦でジェイソン・キッドとラモンド・マレーを擁するカリフォルニア大に屈しましたが、ハーリー個人は17.0得点8.2アシストをマーク、オールアメリカン1stチ−ム選出という成果を得たのです。

カレッジ時代のハーリーのプレーを見ると、彼のコートヴィジョンの広さ、正確なシュート能力、そして6-0とやや低い身長や見掛けからはちょっとイメージ出来ないぐらいの闘志でした。・・・PGにとって理想的な資質ですね、それって。また、彼は決して自らに満足しませんでした。「彼は自らにとても批判的だ」とはグラント・ヒルの談です。

実際彼のノールックパスやアウトレットパスの妙技を見ていると、NBAでもすぐ通用しそうに見えます。当時アーリーエントリーを許さなかったデューク大に進学していなければ、彼はかなりの高確率で大学卒業を待たずNBAへ向かった事でしょう。アーリーエントリーしなかった事でハーリーはNCAAでの通算アシスト記録歴代1位となる1,076アシストを残します。デューク大での1試合アシスト記録16も彼が保持しています。ハーリーはカレッジ史上最高のPGの1人となり、彼の背番号11はデューク大の永久欠番となったのです。とどめに彼は'94年2月公開となったシャックとペニー出演で知られる映画「ブルー・チップス」にも本人役でカメオ出演を果たしています。彼のバスケット人生は完璧でした。ここまでは。

http://nbadraft.net/nba_draft_history/1993.html

'93ドラフト。マジック奇跡の2年連続ドラフト1位が話題を呼んだこの時のドラフトで、ハーリーは1巡目7位でキングスの指名を受けました。5位指名権を持っていたウルヴスがハーリーを指名していればレイトナーとのデューク大コンビがミネソタの地で再結成されるところでしたが、ウルヴスはこの時アイザイア・ライダーを指名したのです。一方当時のキングスはミッチ・リッチモンドをエースとし、しかしながら彼以外の戦力はやや薄いドアマットモードでした。ヴィン・ベイカーのようなビッグマンもまだドラフト候補に残っていましたが、キングスは敢えてバックコートを固める道を選んだのです。



ハーリーはITZ (In The Zone) という会社と契約、TVCM出演を早くも勝ち取ります。そしてキングスでハーリーは加入1年目からいきなり先発PGの座を勝ち取りました。実際、ハーリーはデビュー戦となるナゲッツ戦で7得点7アシスト2スティールを挙げて勝利に貢献します。その後もデビュー8戦目にして早くも2桁アシストをマークするなど、そこそこな出足に見えたハーリーのルーキーイヤーは、しかし僅か19試合で終わってしまったのであります。

http://www.nytimes.com/1994/12/30/sports/driver-guilty-in-hurley-case.html

'93年12月12日。ホームでのクリッパーズ戦に19分00秒出場して0得点7アシストだったハーリーは自らトラックを運転して帰宅の途に着きました。そこで彼はペンキ屋、ダニエル・ウィーランドの運転するステーションワゴンの前で曲がりました。この時、問題は2つありました。1つはウィーランドのステーションワゴンはヘッドライトを点灯していなかった事。そして今1つは、ハーリーがシートベルトをしていなかった事だったのです。

ハーリーのトラックはウィーランドのステーションワゴンに激しくぶつけられ、ハーリーはトラックから投げ出され、肺へのダメージ、肋骨・腓骨の骨折、背骨の圧迫骨折などの重傷を負ってしまったのです。5分後に現場に車で通りがかったマイク・ペプロウスキーの助けもあって、ハーリーは幸い命を落とす事こそ無かったものの、シーズン残りを全てリハビリに当てる事となってしまったのです。彼の代役で先発PGに戻ったのがスパッド・ウェッブだったという訳ですね。

それでも、ハーリーは翌'94-'95シーズンにはコートに戻ってきました。彼は深刻なダメージから何とか立ち直り、バスケットボールが出来る体を取り戻したのです。急に止んだ彼への追い風は、再び吹き始めたかに思われました。



こちらの動画の9位に、復帰したての'94年、ハーリーの見事なアリウープパスが見られます。これを見る限り、ハーリーのプレーは元通りであるように見えますね。



また、ハーリーは自らの事故経験を元に、シートベルト着用を訴えるCMにも出演したのです。こういうCMに敢えて出演ってのはいかにもアメリカらしいですね。しかし、ハーリーの体は回復しても、彼自身のプレーは最早デューク大時代の栄光を取り戻す事はありませんでした。FG成功率は0.370を越える事も無く、NCAAであれだけ決めた3ポイントも通用せず、そして出場機会も失われていきます。それでも出番さえ与えられれば14得点17アシストをマークしてみせた日もあったのですが、3年目、4年目とハーリーの出番は減っていきました。

しかしながら、出場時間あたりでハーリーのキングス時代のアシスト数を計算してみると、実はそんなにペースダウンしている訳でも無いのです。ハーリーがキングス時代の5シーズン、全試合に36分出場したとすると彼のアシストは8.3→7.4→7.3→8.3→6.9と推移した事になります。あれ、そんなに酷くなくね?付け加えるなら、FT成功率だって毎シーズンほぼ7割を越えていた訳ですよ。スタッツを見る限りでは、彼の問題はFG成功率にしか無い様に見えます。

しかし、やはり交通事故のダメージは長期的に彼のプレーの質に響いたのでしょう。ハーリーはキングスでの5年目、'98年の2月18日にマイケル・スミスとのセットで、オーティス・ソープ及びクリス・ロビンソンとの交換でヴァンクーヴァー(現メンフィス)・グリズリーズへとトレードされます。若干の出場時間の向上こそあったものの彼を取り巻く状況にはさして変わりはありませんでした。そしてロックアウトで短縮された'98-'99シーズンの開始前、ハーリーはグリズリーズのロスターからカットされます。ここに、ハーリーのプロ選手としてのキャリアは終わりを告げたのです。栄華を極めたデューク大時代を思えば、あまりに呆気無い終わり方でした。

NCAAでトップクラスだったPGと言えどもNBAで必ずしも通用した訳ではありません。仮に健康なままだったとしてもハーリーがNBAで通用した保証は無論ありません。しかし、少なくとも本人にとっては悔いが無いと言ったら嘘になるでしょう。せめてシートベルトだけでもしていれば、こんな事にはならなかったのでは無いかと思うと、やはり残念でなりません。プロアスリートたる者、帰宅時と言えども気を抜いてはいけなかったんですね。

http://www.usatoday.com/sports/horses/2006-08-04-haskell-hurley_x.htm

良く知られている通り、引退後のハーリーはサラブレッドの馬主となります。彼のソング・アンド・ア・プレイヤー号はファウンテン・オブ・ユース・ステークを勝ちました。現在はデヴィル・イレヴン・ステイブル号の馬主です。もうお分かりでしょうが、この馬名はハーリーの母校デューク大のチーム名ブルー・デヴィルズ、そして彼の当時の背番号11に因んだものですね。これら以外にも優勝した馬を持つなど、馬主としてのハーリーはなかなか順調なようです。もっとも、ソング・アンド・ア・プレイヤー号購入時の借金を返せず銀行に訴えられたりもしているようですが。

http://www.usatoday.com/sports/basketball/nba/sixers/2003-09-25-hurley-sixers_x.htm

その一方で、ハーリーはバスケットボールの世界にも戻ってきました。まず'03年にはシクサーズのスカウトとして雇われ、コーチングへの情熱を語っていました。



そして'10年、その願いは遂に叶えられます。'10年4月、ワーグナー大はハーリーをACとして雇用したのです。これには訳がありました。ハーリーの弟、ダンがHCに就任して、兄を呼んだのでした。親子鷹に続き兄弟船とはなかなか泣かせますなぁ。

http://espn.go.com/mens-college-basketball/story/_/id/6949060/mike-krzyzewski-bobby-hurley-enter-duke-sports-hall-fame

またハーリーは恩師コーチKと共に、デューク大の殿堂入りを丁度果たしたところです。まあ上記のNCAAでの晴好を考えればこれは至って順当なセレクトですよね。



幸せな家庭にも恵まれ、ハーリーの生活自体は思ったよりも幸せであるように見受けられます。あの交通事故のためNBAでこそ輝けませんでしたが、ハーリーの人生はまだまだこれからです。自身が望んだコーチの世界で、ハーリーが成功するニュースが届くのを楽しみに待ちたいと思います。



※本文引用以外の参考文献
Wikipedia
スポーツイラストレイテッド誌より'92年11月23日号記事再録「Greetings From Jersey City」
ニューヨークポスト紙より「Bobby Hurley’s long journey back to basketball」
ThePostGameより「Bobby Hurley's Greatest Moment? Wasn't At Duke」
breederscup.comよりデヴィル・イレヴン・ステイブル号データ
スポーツリファレンス.comよりNCAA時代キャリアスタッツ
バスケットボールリファレンス.comよりキャリアスタッツ



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(´・ω・`)ショボーン列伝 6 デジュワン・ワーグナー〜さまよえる100得点プレーヤー〜

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http://en.wikipedia.org/wiki/List_of_basketball_players_who_have_scored_100_points_in_a_single_game#cite_note-21

1試合100得点。ハイスコアゲームが普通だった頃でもなかなか実現出来るものではないこの大記録は、NBAではウィルト・チェンバレンただ一人が持つ記録です。NCAAでも非公式の試合を含め4回しか達成された事がありません。これが高校となると、2011年9月現在で男子高校生19人、女子高生5人が達成しているんですね。しかしながら、一方でNBA以外のカテゴリーでこの記録を達成した選手の殆どが、NBA及びWNBAで名を残すような活躍はしていません。例外はNCAAのポール・アリジン、そして女子高生だったシェリル・ミラーとリサ・レスリーぐらいです。

チェンバレンのNBA記録は'62年、NCAAの記録はいずれも'50年代の達成なのですが、高校ともなるとチーム戦力差が著しいケースがあるからか、2000年代だけでも4人が100点越えを果たしているのです。その中の1人を今回は取り上げましょう。NBAでは花開かなかったスコアリングガード、デジュワン・ワーグナーであります。

デジュワン・マーケット・ワーグナーは1983年2月4日、ニュージャージー州カムデンの生まれです。彼の父は地元カムデン高校を2度の全国制覇、ルイスヴィル大をNCAAトーナメント優勝に導いた後にNBAでも僅か2シーズンのプレーながらレイカーズでリングを獲得した幸運な選手、ミルト・ワーグナーです。因みに'87-'88シーズンにレイカーズでプレーした後に健康の問題で一度NBAを離れた後に、'90-'91シーズンにNBAに舞い戻るという珍しいキャリアの持ち主だったりします。一旦ミルトは6-5のコンボガードでしたが、息子デジュワンも父親の背中を追った訳ですね。

そんな息子デジュワンもまた、父と同じカムデン高校へ進学。そこで彼は父を超えて見せたのです。



高校時代の彼は正にアンストッパブルでした。シニア時代の42.5得点、総得点3,462点はニュージャージー州の高校記録1位。



そして、これが伝説の100点ゲーム。いくら高校といっても100点ゲームがそうそうあるものではない事は上述の通りです。丁度100点ってのがアレな感じがしないでもありませんが、ともあれこの「1試合100点」というインパクトが彼の看板となった事は間違いありません。当然ながら彼はマクドナルドのオール・アメリカンゲームにも招待され、ここでも25点を叩き出したのです。高校時代の彼は正に全米トップクラスの注目を集めるスター選手だったと言えましょう。



http://www.sports-reference.com/cbb/players/w/wagneda02.html

そんなワーグナーが選んだ進路はメンフィス大でした。HOOP誌2011年10月号にて奇しくも「ジョン・カリパリの功罪」という記事が出ていましたが、正にこの時のメンフィス大はカリパリがHCでした。一度はNBAでネッツを指揮していた時代もあった彼は、ワーグナーを勧誘してメンフィスへ導いたのです。彼の采配の元、ワーグナーは21.2得点2.5リバウンド3.6アシストと、スコアラーに特化したスタッツを残します。ただ、FG成功率は.410と高くはありませんでしたが。

ともあれメンフィス・タイガースは27勝9敗のシーズンを過ごし、カンファレンスUSAのナショナルディヴィジョン1位となりました。またNCAAトーナメントには出場出来なかったものの、NIT(ナショナル・インヴィテーション・トーナメント)では見事に優勝を飾り、ワーグナーはトーナメントのMVPに選出されたのです。

http://www.gotigersgo.com/sports/m-baskbl/spec-rel/041702aaa.html

モーリス・ウィリアムズ、T.J.フォード、エメカ・オカフォー、クリス・トーマスと共にスポーティングニュース誌のオールフレッシュマンチームに選出されたワーグナーのNCAAキャリアは、しかし1年で終わりを告げます。ワーグナーは在学1年でNBAドラフトにエントリーしたのです。まあそれ自体は良くある話なんですが、彼の場合その決断を後押ししたのはカリパリでした。しかも奇妙な事に、彼はわざわざワーグナーの奨学金を取り消したのです。つまり、奨学金を取り消す事でワーグナーがNBA入りするよう差し向けたという事になります。何やら強引な手法ですが、まあ一方でカリパリはワーグナーが1巡目指名でNBA入り出来る(=多額の契約金を得られる)事を確信していたとも言えますね。

http://nbadraft.net/nba_draft_history/2002.html

実際、ワーグナーはこの年のドラフトで6位、キャヴスの指名を受けます。カリパリの読みは当たっていた訳です。問題は、その先にありました。ワーグナーのNBAデビューは47試合中24試合に先発して平均出場時間29.5分で13.4得点2.8アシスト。まあまあに見えます?FG成功率.369という数字を知らなければそう判断しても良かったかも知れませんが・・・。しかも膀胱感染症、右膝の半月板損傷とそれに伴う手術が彼の出場機会を減らしてしまっていたのです。また、ややセルフィッシュとされていたプレースタイル故なのか、故障に伴うものなのかは分かりませんが、ディフェンス面では期待出来ないのも事実でした。



2年目はもっと残念な事になりました。44試合中4試合に先発したワーグナーの出番は平均16.1分と更に減少し、6.5得点1.2アシストと完全にチームの主軸から外れます。懸案のFG成功率の低さは3ポイント以外全く改善を見ず、.366と前年並みに。例の右膝手術で開幕から1月2日まで故障者リストに入り続けていたために彼は33試合欠場を余儀無くされた上に、5試合をコーチ判断で欠場したのであります。しかも、このシーズンにはレブロンがキャヴスに加わっており、チームの意識は当然ながらレブロン一色となります。

3年目、ワーグナーは完全に戦力外の扱いとなります。僅か11試合、平均9.3分の出場。そしてFG成功率は.327・・・チームがレブロンフィーヴァーに沸く中、レブロン程では無かったにせよ高校時代にスター選手として鳴らしたワーグナーの心境はいかばかりだったでしょうか。ただ、これには理由があります。ワーグナーは故障のみならず、潰瘍性大腸炎で入院を余儀無くされていたのです。

そしてこのシーズン終了後、キャヴスがチームオプションを行使しなかったためワーグナーはFAとなります。キャヴスに彼を引き留める意図は最早無かったのです。まあ、ワーグナーの症状はそれどころではありませんでした。何しろ薬物療法では効果が無かったのです。ここで手を差し伸べてくれたのは当時ニックスのHCだったラリー・ブラウンです。ブラウンはワーグナーの元にニューヨークの
医学専門家を派遣しただけでなく、ワーグナーの相談にも乗ります。その結果、ワーグナーは2005年の10月25日、全結腸摘出手術を受けました。

そして翌2006年、4月にはワーグナーはトレーニングを開始します。このニュースはフィラデルフィア・デイリー・ニュース、そしてコムキャスト・スポーツネットで取り上げられたのです。

http://sports.espn.go.com/nba/news/story?id=2598975

そして約1年後の2006年9月、ワーグナーは'06-'07シーズン開幕前にウォリアーズと2年契約を結び、遂におよそ2年振りにNBAの舞台に戻って来る事が出来たのです。学生スター選手だったワーグナーのNBA復帰というストーリーはしかし、たった1試合の出場のみでの解雇、そして契約の買取という形で終焉を迎えます。これで、ワーグナーのNBAキャリアは完全に終わってしまったのです。

http://www.euroleague.net/competition/players/showplayer?clubcode=sop&pcode=TGA

ワーグナーはその後、2007年8月にポーランドのProkom Trefl Sopotと契約、ユーロリーグにも姿を見せます。ただ、ここでの彼のスタッツは6試合の出場で8.3得点、そしてFG成功率.298とやはりインパクトのある結果は残せませんでした。彼はこの地でも尻、次いで膝と故障を連続して負ってしまったのです。そして今のところ、これが彼の最後のプロキャリアとなっています。彼はこのシーズンを
最後に、生まれ故郷のカムデンに舞い戻ったのです。

そして今、ワーグナーはもう一度NBAに復帰する夢を描いています。彼には今や息子、デジュワン.Jrがいるのです。今、ワーグナーはこう語ります。

“He's never seen me in the NBA. So that's one thing I want to do ― get back to the NBA so he can watch me. Just us being in the house, him watching the games, I think it would be good to see his dad out there.”

息子はNBAの自分を見た事が無い、だから僕がやりたいのはNBAに戻って彼が僕を見られるようにすることだ・・・うむ、その気持ちは凄く分かりますね。一方でそれが無理となれば、学位を揃えてコーチングの道を歩む事も考えているようです。

また、キャリアを全う出来なかった選手には良くあることですが、ワーグナーもNBAの試合を見るのは苦痛だと言います。TVで試合を見ると動きを分析し、しばらくするとチャンネルを変えてしまう、そんな日々だそうです。その気持ちも痛い程伝わります・・・

果たしてワーグナーが愛する息子にもう一度NBAのコートに立つ勇姿を見せられるかと言われれば、正直可能性は相当低いと言わざるを得ません。NBA行きを目指してマイナーリーグでプレーしただけでも彼の体が悲鳴を上げてしまいそうな気がしてならない、というのが正直なところです。

6-2という背の低さでありながら、彼は決してポイント・ガードではありませんでした。NBAでは成功例の少ない小兵SGでありながら長距離シュートも良くなかった彼が、仮に健康を保てていたとしてもどれほどNBAでやれていたのかは疑問の残るところでしょう。

それでも、息子の為に三回目の復帰があるかどうかは注目する価値はあるんじゃないかと思います。メンフィス大学の後輩にあたるデリック・ローズやタイリーク・エヴァンスが新人王に輝き、リーグを席巻する今、果たして奇跡は起こるか否か。かつての100点プレーヤーに三度目の正直があるか否か、今は続報を待ちましょう。

※本文引用以外の参考文献
Wikipedia
Hoopshypeよりワーグナー評
Yahoo!「BALL DON'T LIE」より「Catching up with Dajuan Wagner」
NJ.comより「Once New Jersey's brightest basketball star, Dajuan Wagner now prefers obscurity」
メンフィス大学2001年度記事アーカイヴ一覧
NBA.comよりバイオ(インターネットアーカイヴ)
NBA.comよりスタッツ(インターネットアーカイヴ)
バスケットボールリファレンス.comよりキャリアスタッツ



タンホイザー序曲~ワーグナー:管弦楽曲集タンホイザー序曲~ワーグナー:管弦楽曲集
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(´・ω・`)ショボーン列伝 5 マーカス・ファイザー〜ベイビー・バークリーの失敗例〜

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さて、バークリー、そしてベイビー・バークリーことウェザースプーンと続けざまに小兵PFの成功例を取り上げて来ました。しかしながら、やはり一般論としてPFはタッパが無いと厳しい、これもまた現実であります。バークリーやウェザースプーンのような選手達はむしろ例外なのであり、大半のケースでは6-7〜6-8ぐらいのタッパのPFが通用するのは普通NCAAまででしかありません。NBAに入れば彼らはPFでは背丈やフィジカルに乏しく、かといってSFではスピードやシュートレンジが足りずというどっちつかずで淘汰されてしまう、それが残念ながら殆どのケースでの現実です。カール・ランドリーのような成功例は、残念ながら稀なのですね。

今回はそんな失敗例の中から、比較的近年モノのサンプルを選びました。ドラフト屈指の不作年として名高い2000年組の1人たるPF、マーカス・ファイザーであります。

ダーネル・マーカス・ラマー・ファイザーは1978年8月10日、ミシガン州インクスターの出身です。高校はルイジアナ州のアルカディア高校へ進み、ここで毎度御馴染みマクドナルドオールアメリカンゲームに招待されます。そんな彼が選んだ大学はアイオワ州立大でした。ここで彼は3シーズンを過ごし、3年間平均で18.9得点7.4リバウンドというなかなかのアヴェレージを残します。しかも3年目、'99-'00シーズンにおいてはFG成功率.582に加えてそれまで得意ではなかった3ポイントまでも.357の確率で沈め、実に22.8得点ものアヴェレージを残したのです。

そんなファイザーの1年目にアイオワ州立大のHCを務めていたのがティム・フロイドでした。彼こそがファイザーの能力に注目し、ファイザーをアイオワ州立大に誘った男だったのです。マクドナルドオールアメリカンに出場した選手がアイオワ州立大に入ったのは、実はファイザーが始めての例だったのですね。



フロイド自身は「ラストダンス」を踊り終えて、マイケル・ジョーダン、ピペン、ロドマンをはじめとする主力選手の殆ど、そして名将フィル・ジャクソンが去ったブルズに招聘されてアイオワ州立大を離れ、ブルズの新HCに就任します。そのためファイザーの2年目以降はフロイドは直接拘わる事はありませんでしたが、それでもなお上記の成果を挙げたのです。ファイザーは所属するビッグ12カンファレンスにおいてオールビッグ12の1stチーム、プレイヤー・オブ・ザ・イヤー、シーズン及びトーナメントのタイトルなどを獲得。またNCAAトーナメントにおいてもチームをエリート8に牽引します。フロイドの目はここまで見る限り確かでした。スポーツイラストレイテッド誌の表紙を飾ったのもこの大学時代の事です。

人生の頂点


http://www.nbadraft.net/nba_draft_history/2000.html

そして2000年ドラフト。ケニオン・マーティン、ストロマイル・スウィフト、ダリウス・マイルズに次いでファイザーは1巡目4位でブルズの指名を受けます。そう、フロイドがHCのブルズです。自ら見出した才能がNBAでも必ず生きると、彼は信じていた事と思います。

http://web.archive.org/web/200101241034/http://nba.com/features/week_ten_rookie_001201.html

実際、彼だけがファイザーの将来性を期待していた訳じゃありません。こちらのNBA公式HPにあった記事など見て頂ければよく分かりますが、バークリーが3〜4インチ背が高かったらファイザーみたいになるんじゃね?って書かれてたりする訳です。彼の身長については6-8ないし6-9と表示されていますが、cmで言えば203cmであるようです。バークリーやウェザースプーンよりは流石に長身ですが、PFとしてはやはり小型ですね。ただ、こんな当世の原発報道@日本並みに楽観的な記事でさえ、こういう疑問を投げかけていました。「PFに新人王エルトン・ブランド、SFにロン・アーテストがいるのに何故ブルズはファイザーを指名したのか?」と。この疑問に対してファイザー自身はこう答えています。

"You're going to see. No matter what position Elton Brand plays, they have a great organization, they have a great coaching staff that's going to put the best team on the floor."

"I consider myself a basketball player. I consider myself a player that's going to do whatever it takes to win. Whatever position Coach Floyd wants me to play, or whomever my coach is going to be, I'm going to do my best to make them proud."


えーと、まあ優等生な回答ですね。でもまあ実際、カレッジ時代の恩師がそのままNBAでもHCなんて、中学から高校へ進学したら担任が同じ先生、って漫画にありがちな展開そのままです。しかもファイザーの談によるとフロイドが離れた後もアイオワ州立大は同じコーチングだったそうです。書かれている情報だけで判断する限り、NBA入りを果たす大卒新人としては申し分無い環境であるように思われました。

結局ルーキーイヤー、ファイザーは72試合中13試合に先発して9.5得点4.3リバウンド1.1アシストという成績でした。案の定ポジションの問題もあってか出場時間は伸びずに21.9分に留まり、FG成功率も.430とフォワードらしからぬ低目の数値に。NBAオールルーキー2ndチームには入りましたが、期待程の成果は得られませんでした。それでもまあ1年目、慣れていけば徐々に対応出来るかなという予測は少なくなかったと思われます。このオフにグッドウィルゲームスにてアメリカ代表の一員として出場し、金メダルを受賞していたのですから尚更の事だったでしょう。

その2年目たる'01-'02シーズン、確かにファイザーは12.3得点5.6リバウンドとスタッツ上は向上が見られたかのようでした。しかしそれは76試合中20試合に先発して25.8分と出場時間を伸ばしたという要素もありました。何しろ、この年もFG成功率は.438でしかなかったのです。しかもシーズン半ば、12/24に恩師ティム・フロイドは4勝21敗という成績の責任を負って解雇されてしまったのです。

3年目の'02-'03シーズンにはFG成功率が.465とようやく改善されたものの、このシーズンには1月末に前十字靭帯を損傷して僅か38試合しか出番がありませんでした。そして4年目、最早ファイザーについてバークリーを引き合いに出す声は絶えて無くなりました。46試合出場で16.0分、7.8得点4.4リバウンド、そしてFG成功率は僅か.383。またしても彼は左右の膝を相次いで痛め、出場機会そのものを奪われたのです。スタッツを見る限り、プレーそのものも万全とは言い難かった事でしょう。

この散々たるシーズン終了後、ファイザーはエクスパンションドラフトでボブキャッツへと移籍します。早い話が、彼はプロテクトされなかったのです。そしてボブキャッツさえも彼をチーム1年目のロスターに入れる事はありませんでした。FAでバックスに拾われて54試合に出場した'04-'05シーズンはFG成功率.455の6.2得点3.2リバウンドと相変わらず見るべきものは無く、遂にファイザーはNBAで年間契約を勝ち取ることさえ叶わなくなってしまったのです。

http://www.nba.com/dleague/playerfile/marcus_fizer/

かくて'05-'06シーズン、ファイザーはNBADLのオースティン・トロスと契約。このシーズン、3/8にシアトル・スーパーソニックス(現オクラホマシティ・サンダー)と10日間契約を結んだものの出場機会無く終了。再度NBADLに舞い戻ってFG成功率.513で22.7得点7.8リバウンド3.3アシストをマーク、リーグMVPを受賞した日に今度はホーネッツと10日間契約して後にシーズン終了までの契約を勝ち取ります。結果3試合に出場し、6.7得点2.0リバウンド。これが、ファイザーにとって最後のNBAキャリアとなりました。



この後、ファイザーは大西洋を渡ります。まず'06-'07シーズンにはスペインリーグのPolaris World Murciaと1年契約を結び、またプエルトリコリーグのCapitanes de Areciboでもプレー。'07-'08シーズンにはイスラエルリーグのマッカビ・テルアヴィヴと2年契約し、ここで彼は実にFG成功率.699をマークして13.2得点、チームはユーロリーグ選手権の決勝戦まで勝ち進みました。しかしファイザーは膝の故障のため選手権の肝心なところでプレー出来ず、チームもまたCSKAモスクワに敗れ去ったのです。そしてこの故障のため、ファイザーは'08年9月に解雇。一旦11月にチームに戻るも、1月には再度解雇の憂き目を見たのです。

http://www.lostlettermen.com/whos-hot-marcus-fizer/

ファイザーの足跡で現在最後に分かっているのは'10年2月、アントワン・ウォーカーと共にプエルトリコリーグのGuaynabo Metsと契約したところまでです。facebookのアカウントを見ても現状が良く分かりません。どうやら現在はFA状態のようですが、このまま引退という可能性も低くは無いように思われます。

http://sportsillustrated.cnn.com/basketball/nba/2000/nba_draft/draftboard/players/36.html

スポーツイラストレイテッド誌のNBAドラフト時の記事(こちらではカール・マローンに喩えられていました)にもありますがファイザーの懸念材料はシュートレンジとパスの技術だったようです。結局彼のアシストはNBADL以外のカテゴリーでは成果が出ず、また彼のシュートがNBAで大きな武器となる事は無かったのも現実でした。彼のキャリアに最大のダメージを与えたのが故障である事はほぼ確実でしょうが、結果を見る限り彼の能力は残念ながらNBAでは通用しなかったのもまた事実でしょう。彼が期待された通りの成果を出したリーグはNBADL、そしてユーロの各リーグだけだったのですから。

NBAで成功出来なかったNCAAスター選手の一人として、ファイザーの名前は記憶され続ける事と思われます。本人にとっては不名誉な事でしょうし、まだ正式に現役を引退した訳では無い現状で彼が多くを語る事は無いと思われます。本当にユニフォームを脱ぐ決心がついてから、改めて彼の言を聞く事が出来れば、と思う次第です。



※本文引用以外の参考文献
Wikipedia
NBA.comよりバイオ(ウェブアーカイヴ)
NBA.comよりキャリアスタッツ(ウェブアーカイヴ)
バスケットボールリファレンス.comよりキャリアスタッツ
ユーロリーグ.netよりスタッツ
hoopshype.comよりプロフィール



STARTER NBA BULLS スタジャン シカゴ ブルズ レッド×ブラック リバーシブル スターター
STARTER NBA BULLS スタジャン シカゴ ブルズ レッド×ブラック リバーシブル スターター

(´・ω・`)ショボーン列伝 4 ハロルド・マイナー〜ベイビー・ジョーダンの悲劇〜

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マイケル・ジョーダンの功罪のうち、最大の罪を挙げるとするならばダンク、でしょう。空中を華麗に舞い、ダンクする彼の姿は確かに世界中の人々をも虜にしました。しかし、一方で彼のダンクを目の当たりにした全米の子供達はダンクにばかり夢中になり、バスケットの基礎練習を怠り、結果運動能力だけで戦おうとするような選手ばかりになって、国際大会で基本的なスキルに勝る他国に勝てなくなっていった・・・どうやらそういう事のようです。

また、ジョーダンというアイコンの偉大さゆえに、その後「ジョーダン二世」と呼ばれた選手は雨後のタケノコの如く次々と登場しましたが、コービー・ブライアントという偉大なる例外を除いてその称号で呼ばれた選手達はほぼ全員大成しなかったのです。

当シリーズもいよいよ本題と言いますか、当初のプランで想定していた面々を取り上げていこうと思います。即ち、高い期待を裏切り若くしてNBAを去っていった、ついぞNBAで才能が花開かなかった面々です。今回はその中でも代表格と言える選手を取り上げましょう。ジョーダン二世と呼ばれた面々の中でも極めつけの存在、ハロルド・マイナーであります。



マイナーは1971年5月5日のこどもの日、カリフォルニア州イングルウッドの生まれです。ええ、バイロン・スコットの育ったレイカーズ旧本拠地「ザ・フォーラム」のあった場所ですね。ホームタウンのイングルウッド高校で彼は早くもその運動能力を発揮し、その名を知られた存在となります。特にその爆発的なジャンプ力からの豪快なダンクは強烈なインパクトがあったのです。かくて、彼にはあるニックネームが与えられました。それが「ベイビー・ジョーダン」であります。・・・そのニックネームが後々自分を苦しめると、まだ若いこの時の彼には知る由もありませんでした。



http://www.sports-reference.com/cbb/players/m/minerha01.html

サザンカリフォルニア大(以下USC)へ進学した地元志向のマイナーはここでもその運動能力をフルに生かして次々とハイライトになるようなダンクを連発します。在学3年の間に20.6得点→23.5得点→26.3得点というアヴェレージをマークした彼は、カレッジ通算成績では3ポイント成功率.367となかなか悪く無い感じでした。当時の映像を振り返ってみても、決してダンクだけの選手では無い様に見受けられます。クロスオーヴァードリブルだってサマになってますよね。




それに3年生時にはリバウンドも7.0を稼いでいたのです。そしてこの年、彼はなんとシャック、モーニング、レイトナーといった凄まじい面子を押さえてスポーツイラストレイテッド誌選出のカレッジ・プレーヤー・オブ・ザ・イヤーに選出されます。



(↑何故か動画の最後が関係無い試合になってます)

しかしながら、彼のカレッジキャリアは些か苦い形で終わります。NCAAトーナメントにミッドウエスト第2シードで入ったUSCは2回戦でジョージアテック大と対戦、ジェームズ・フォレストのNCAA史に残る劇的な逆転3ポイントシュートを残り0.8秒からのブザービーターで喰らって敗れ去ります。このゲームをカレッジでのラストゲームとして、マイナーはUSCの総得点歴代1位の記録(2011年7月現在でも1位です)を引っ提げてアーリーエントリーを宣言してNBAへと向かいました。



かくて'92年、シャック、モーニング、レイトナーがドラフトトップ3を占めた年に、マイナーもまた12位指名でヒートに入団を果たしたのです。ヒートとの契約は5年730万ドルといったところでしたが、彼はより大きな収入を得る事となります。



それは、ナイキとの1400万ドルと言われる契約でした。新人ながら早くもこの契約を獲得出来たあたりに、マイナーへの期待の高さが伺えます。実際彼のあのダンクを見れば、CM映えする新たなライジングスターの登場を期待するのは無理からぬことです。6-5のタッパにあだ名が「ベイビー・ジョーダン」では尚更、ナイキとしてはほっとけませんよね。



・・・結論を先に言ってしまえば、NBAという舞台でマイナーが輝いたのはオールスターウィークエンド、スラムダンクコンテストだけでした。'93・'95年の2回、彼はダンクコンテストに出場してそのアスレティック能力を遺憾無く発揮し、細かいテクニックではなくダンクそのものの迫力で2回ともチャンピオンの座を獲得したのです。そしてこれだけが、彼がNBAで勝ち取った名誉の全てでした。

http://espn.go.com/nba/player/_/id/3789/harold-miner

レギュラーシーズンにおいての彼のスタッツは、大きな期待にはそぐわないものでした。ヒートでの3シーズンでは凡そ20分程度の出場時間を与えられ、先発の機会も与えられたものの平均得点は10.3得点→10.5得点→7.3得点と推移。FG成功率も.475→.477→.403と3年目にガクッと落ち込んだのです。そして4年目、'95-'96シーズンにはキャヴスへトレード。もっともキャヴスもそもそもシーズン開始前にマイナーをヴィクター・アレクサンダー(エクスパンションドラフトでウォリアーズから移籍していました)と交換で球団創設1年目のラプターズへトレードしたのですが、アレクサンダーが健康診断に引っ掛かってトレードが取り消しになっていたのです。

結局キャヴスに留まったマイナーでしたが、そもそも戦力外だっただけあって出番は7.2分にまで落ち込みます。そして2/20のブルズ戦、僅か5得点に終わったゲームを最後にチームを解雇されたのです。そして'96-'97シーズン開幕前、ラプターズ入りを目指すもプレシーズン中にカットされるに至り、彼はNBAのみならずバスケットボールそのものから離れる完全引退の道を選んだのでした。

長らく、マイナーがこうなった原因を説明する際には「彼はダンクだけの選手だった」という言い方がとりあえずされていました。もう少しちゃんと説明を加えた場合だと、「ディフェンスが良くなかった」「バスケIQが良くなかった」ってとこでしょうか。恐らく、それはそれで説明として正解だったのでしょう。そしてマイナー自身もその後は人前から姿を消し、バスケットボールとは縁の無い生活を送っているといった程度の情報しか入らなくなっていました。彼は長らくバスケットボールについて語る事さえしなかったのです。

http://www.lostlettermen.com/feature-uscs-harold-mineer-speaks-after-years-of-silence/

しかしながら、2010年になって突如、ESPNヤフーにマイナーの名前が久々に踊りました。その記事ソースが上掲のロストレターメン.comだったのです。ロサンゼルスのアイスクリーム屋で働いてるだの牧師になっただのとあれこれ噂ばかり言われ放題なのに業を煮やしたのか、長年の沈黙を破って遂にマイナーが過去の日々を語り始めたのでありました。「話す時だと思ったんだ。長い時間だった」と言って。

ラスヴェガスの地でマイナーは妻、娘と息子と一緒に暮らしていました。彼は現在職についてこそいませんが、選手時代の稼ぎを浪費する事無く、マメに管理・投資して実に堅実な生活を送っていたのです。おお、豪快なダンクのイメージと裏腹に地に足着いたヒトだったのですね。そんな彼は未だに自分の事を気にする人間が多いのに戸惑い気味でした。

「人々が私に関する話を読みたがっている理由に関して本当にちょっと唖然としているよ。僕は15年間とプレーしていないし、、およそ20年前のUSCでの3年生時以来国の規模で何ら重要な事も成し遂げてないんだ」とダンクコンテストの事は自らカウント外にするあたり、なかなか慎み深いですね。そしてこうも言ったのです。「僕は多分スポットライトの中にいるのに、決して慣れる事は無かった。僕にはスポットライトは落ち着かなくて、自然じゃないって言いたいね」と。そう言われて見れば、マイナーがダンクコンテストでチャンピオンになった時、トロフィーを持つ彼の表情はレブロンなんかが見せるふてぶてしさや自信のようなものとは無縁なものに感じられますね。むしろ良い子風にさえ見えます。

ナイスガイ風


※画像引用元はこちら

さて、更にマイナーの言に耳を傾けてみましょう。

「僕がプレーをやめた理由は2度の膝の手術を受けて悪化した間接を膝に抱えていた事、だからこそそれがあまりの損傷である事、そして僕が最後には膝に非常に軟骨が少なくなってしまった事を、多くの人々が理解しない」

実はそうだったんです。彼の4シーズンに渡るNBAキャリアにおいて、82試合フル出場という年は1度として無かったのですね。ディフェンスの欠落もこれで説明がつきます。なお、'97年にラプターズ入りを目指した時も、彼はよりによってコートの湿りでスリップしてしまい、膝を悪くして動けなくなってしまったのだそうです。

「まるまる2週間、僕はトロントで眠れなかった―全く眠れなかったんだ。分かってたんだと思う、おしまいだって」

今こうして彼の発言に耳を傾けてみると、果たして「ダンクだけ」「ディフェンスがダメ」といった過去の彼への評価が正しかったのかちょっと悩みます。無論これは彼の主張なので、実際のところはやはり彼自身に問題があった可能性も決して少なくありませんが、故障こそが彼のキャリアに暗い影を落とした主因である、という見かたは一考に価するなとも思いますしね。

ただ、間違い無く言える事はやはり「ベイビー・ジョーダン」というニックネームの重さでしょう。USC時代のHCであるジョージ・ラヴェリングはこう言っています。

「ハロルドに起こった最悪の出来事は『ベイビー・ジョーダン』のタグだといつも感じていた」

本当はスポットライトに当たるのも居心地が悪かった彼は、本当は主役ではなく例えばピペンのような脇役ポジションこそが望みだったのかも知れません。しかし、ジョーダンブーム真っ盛りのあの頃、世間は彼にそれを許してくれませんでした。実際のところ、マイナーのダンクのスタイルはジョーダンというよりもドミニク・ウィルキンスのそれに近かった気がするのですが・・・。もしも彼のニックネームが「ベイビー・ジョーダン」でなく「ヒューマン・ハイライトフィルム2nd」だったりしたら彼のバスケ人生はもしかして違っていたのでは、なんて思ったりします。

http://articles.latimes.com/2011/mar/07/sports/la-sp-crowe-20110308

今年(2011年)になってL.A.タイムス紙のインタヴューにも登場した彼は、ここでも概ね同じような内容の事を語ってますね。「寡黙だったので自分を表現するのにバスケットボールを使った」という言葉も上記の文脈で理解出来ますし、「(NCAAの)マーチマッドネスやNBAプレーオフ、オールスターウィークエンドを見るのが辛かった」という言葉も凄く胸に来ます。

嬉しかったのは最初のインタヴューで彼が「旧友やUSCとも連絡を取り、USCの試合を見に行く事さえ考えている」と言っていたことがどうやら実現しつつある事です。彼は実に10年以上のインターヴァルをもって公的な場所、ステイプルズセンターに姿を現しました。それはカレッジ時代に彼の所属していたパシフィック10カンファレンスの殿堂入り発表の場だったのです。そしてマイナーは来季、USC対カンザス大戦の前に行われる自らの背番号23の永久欠番セレモニーnに出席する事を約束しています。母校USCへ、これまた久々の凱旋となる訳です。

また彼は2年前、280ポンドまで膨れ上がった体重を一気に55ポンド減量して現役時代の体重を取り戻したそうでして、これに感銘を受けた彼はパーソナルトレーナーの資格を得るため、USCに戻って身体運動学ないしそれに近い分野の勉強をする事も考えているようです。近い将来、NBA選手を鍛え上げるマイナーの姿が見られる日が来るかも知れませんね。

「ジョーダン二世」という罪深い言葉の最大の被害者、ハロルド・マイナー。ようやく自分の過去に本当に決別出来た彼の今後の人生が、むしろこれから実り多いものとなる事を心から願っております。



※本文引用以外の参考文献
ウィキペディア
Wikipedia
バスケットボールリファレンス.comよりキャリアスタッツ



MITCHELL&NESS MIAMI HEAT SNAPBACK CAP / ミッチェル&ネス マイアミ ヒート スナップバック キャップ【レッド×ブラック】
MITCHELL&NESS MIAMI HEAT SNAPBACK CAP / ミッチェル&ネス マイアミ ヒート スナップバック キャップ【レッド×ブラック】

(´・ω・`)ショボーン列伝 3 レン・バイアス〜ドラッグが奪ったNBAの未来〜

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1986年7月19日、午前8時55分。その悲報は、程無く全米を駆け抜ける衝撃へと転嫁しました。

僅か2日前にドラフト1巡目2位指名を受けた若者が一度もユニフォームを身に纏ってNBAのコートに立つ事無くこの世を去るという、アメリカはおろか世界的にも類を見ない悲劇がこの日この時、起きてしまったのです。マイケル・ジョーダンとさえ比肩し得ると思われた才能がプロの舞台でその実力を証明する機会さえ持たずに終わってしまう・・・正に悲劇ではありませんか。その悲劇の主人公を演じてしまった選手こそが、今回取り上げる幻の名フォワード、レン・バイアスです。

バイアスは1963年11月18日、メリーランド州ランドーヴァーに生まれました。子供の頃から背が高く、冷静で物静かで控えめな彼に、当時の彼の友は「フロスティ」というあだ名をつけたのです。このあだ名な家族にまで浸透していたようですね。

そんな「フロスティ」は故郷メリーランドのノースウエスタン高校を卒業するとメリーランド大へ進学するという故郷愛を見せます。やがて、全米が彼に故郷愛以上のものを見出す事になりました。メリーランド一筋のこの選手には目覚ましいばかりのジャンプ能力、当たり負けしないフィジカルの強さ、そしてプレー創造の力が備わっていたのです。2年生時には早くもチームの主軸となったバイアスは、マイケル・ジョーダン在籍時のノースカロライナ大とも対戦しています。



3ポイントを決められるシュートレンジの広さこそ無いものの、バイアスには美しいシュートフォームが備わっていました。決して単なる運動能力だけの選手では無かったのです。それどころか彼はメリーランド大在学中に徐々にFTのを上達させ、4年生時には実に86%超の高確率に達しています。

バイアスのプレーをつぶさに見た訳でも無い私が、彼のプレースタイルを誰に例えるかは難しいですが、敢えて言うならばレブロン・ジェームズが一番近しいように思います。レブロンと違いアシストこそ多くなかったものの、6-8のタッパでペイント内の相手を蹴散らしてダンクやアリウープを見舞う姿は正に今日のレブロンを見るかのように感じますね。



ボストン・セルティクスのフロントはそんなバイアスをマイケル・ジョーダンに最も近い存在と認識していました。この'86年にラリー・バード、マクヘイル、ロバート・パリッシュのBIG3にレジェンドセンターのビル・ウォルトンを加えて優勝の美酒に酔いしれていたセルティクスでしたが、主力陣の高齢化を踏まえたセルティクスは、このチームに更に若いバイアスを加える事で、更に完璧なチームを作り上げようとしていたのです。バイアスならSF・PF両ポジションを埋めて、バードとマクヘイルを休ませる事が出来ます。そして彼らがユニフォームを脱いだ暁には新たなセルティクスのエースとして君臨する・・・これがセルティクスが描いた絵だったのです。そして彼らには、1984年にジェラルド・ヘンダーソン+現金での取引で得ていた2位指名権が手元にありました。いや、正確にはこのバイアスがドラフトに打って出るタイミングを考え、セルティクスは長期的プランでバイアスに狙いをつけていたのです。



http://www.washingtonpost.com/wp-srv/sports/longterm/memories/bias/launch/bias2.htm

かくて、セルティクスはこのドラフト2位指名権を使って、'86年ドラフトにてバイアスを指名しました。この時のバイアスのコメントを以下に抜粋しておきます。

"I don't have a ring yet. But I'd be pleased to wear one."

"I sat right there behind the bench and watched them warm up, and it was a dream. I thought then that could be me one day. It's a dream within a dream. My first dream was just to play in the NBA. To get drafted by the world champions is an extra one."


彼は幸運にも、NBAでもトップを張れそうな程のタレントを持ちながら、いきなりチャンピオンチームに加入できるという強運に恵まれた訳です。既にカリーム・アブドゥル・ジャバーを擁していたレイカーズに加入出来たマジック・ジョンソンもそうでしたが、ルーキーイヤーからバイアスは伝統ある名門球団で優勝争いに絡めるチャンスを掴みました。

"Maryland had a great team, but we were always the underdogs. Now the Celtics are the top dogs, a team that gets to the playoffs every year. I can handle it. I never looked at myself as a star. You all did. As far as not having the ball as much, I haven't even thought about that. I'll worry about it when I get there. I'll say one thing. It will be nice to get to play with a guy over 7 feet tall."


そう、彼はメリーランド大時代には王者にはなれませんでした。それが今度は一転して毎年プレーオフ進出している優勝候補チームです。普通はカレッジのスターは大学で優勝したりして、NBAでは弱小チームに行く訳ですが彼の場合は逆だったんですね。7フッターの選手、即ちパリッシュとプレーするのを楽しみにしていたのもこのインタヴューで分かります。

"They've told me I'll be the sixth man," he said. "They said I'd get plenty of playing time. I'm not worried about that."

バイアスは6thマン起用される事をセルティクス側から明言されていたのです。出場時間も保証されていた事が彼の言葉で分かります。実際、これが実現していたらレイカーズの2PEATは遥かに難易度が上がっていた可能性が極めて大です。むしろセルティクスの連覇の可能性が高かったのではないでしょうか。そしてNBA選手になって最初に何を買うか尋ねられたバイアスは、こう答えたのです。

"A car. A Mercedes."

何とも屈託の無い返答ですよね。夢に溢れた若者らしい、今日のドラフト選手でも答えそうな回答ですよね。バイアスは正にこの瞬間、人生の頂点にいたのです。そして、その喜びのままに彼ら家族は故郷メリーランドへ一旦引き返します。

翌18日、バイアスと彼の父はワシントンD.C.からボストンへ飛び、セルティクスコーチ陣やマネージメントとの契約セレモニー、そして早くもリーボックとの300万ドルの契約を結びました。父は先にワシントンに戻り、息子も夜には戻ってメリーランド大キャンパスの部屋へ戻ります。

http://www.washingtonpost.com/wp-srv/sports/longterm/memories/bias/launch/bias1.htm

バイアスがキャンパスに戻ったのは深夜11時頃。バスケットのチームメイト達、そしてフットボールチームの選手達とカニ料理を食し、2時ごろにはキャンパスを出て1人でドライヴ。3時に寮の部屋に戻りました。彼はこのカニ料理が最後の晩餐であり、このドライヴが人生最後のドライヴになることなど知る由も無かったのです。

そして翌朝、バイアスはチームメイトのテリー・ロングと話している最中に倒れたのです。彼が倒れたと思われる時間は6:25から6:32の間。バイアスの長年の友人、ブライアン・トリブルが911(あっちの119)コールをかけますが、この時既にバイアスは意識を失い、息をしていませんでした。心臓マッサージ、人工呼吸といった処置は全て失敗に終わりました。バイアスの姉妹によるとこの時バイアスは眠っているかのようだったと言います。確かに彼は眠りました。二度と目覚めない眠りに・・・。

救急搬送されても彼はもう意識を取り戻す事も、その肺に自ら息を吹き込む事もありませんでした。薬品も効かず、心臓に急遽取り付けられたペースメーカーも彼の命を救う事は出来なかったのです。そして8:55。医師は彼の魂が最早この世から離れてしまった事を告げたのであります。死因はコカイン使用による心不整脈でした。

この夜、バイアスの乗った車がワシントンD.C.でも有名なドラッグ売買の場、モンタナアヴェニューをクルージングしているのをワシントンD.C.の警察が覆面捜査で記録していました。車が途中止まっていた事、少なくとも2人は乗っていた事、そしてそのナンバープレートまでも、です。これは彼が最初にキャンパスに戻る前の事でした。この時に買ったと思われるコカインをバイアスは深夜ドライヴ後に使ったのであり、そしてそのコカインが彼の心不整脈を誘発したのです。かくて喜びに沸いていたキャンパスは一転して悲しみに沈みました。

彼は別に、ドラッグ常習者だった訳ではありません。何しろ5/27にはセルティクスによる健康診断もパスしており、薬物反応も出ませんでした。メリーランド大による身体検査でも心臓病の兆しは無く、勿論ドラッグについても検査で引っ掛からなかったのです。つまり、彼は初めてドラッグに手を出し、1回目でオーヴァードーズを起こしてしまったという事になります。



4日後、バイアスがプレーしていた場所でもあるメリーランド大のコールフィールドハウスには11,000人もの人々が集まり、バイアスに弔意を示しました。その中にはバイアス指名のため実に3年計画を立てていたというレッド・アワーバックもいたのです。彼は、「ボストンの街がケネディ大統領暗殺以来こんなにショックを受けた事は無かった」と述べました。そしてバイアスは生まれの地、メリーランドにあるリンカーン記念墓地に永眠する事となったのです。彼は結局、その短い生涯のほぼ全てをメリーランドで過ごしたのでした。

バイアスの死後、彼のチームメイトや友達は裁判に巻き込まれます。最終的にはバイアスの親友だったトリブルが麻薬の売人としての罪を認め、10年1ヶ月の懲役を受けます。メリーランド大は17年バスケットチームを率いてきた運動部長、ディック・ダルが職を解かれました。アメリカ議会はアンチドラッグ法、通称「レン・バイアス法」を可決します。

バイアス家の不幸は更に重なり、今度は'95年12月5日にこれまたバスケットボールの才能を持っていた弟、ジェイ・バイラス3世が更に若い20才という年で銃撃で死亡するという悲劇が起きました。彼は同じく非業の死を遂げた兄の隣で今は眠っています。この相次ぐ不幸にあって、バイアス兄弟の母は現在、アンチドラッグのレクチャーを行っています。

バイアスの悲劇はアメリカで相当に大きなインパクトを未だに残しているようで、没後も何度も記事特集が組まれています。ESPN、同じくESPN、更にESPN・・・あれ、ESPNばっかりですね?あ、SLAM誌ワシントンポストにもありました。

そしてつい最近も、ESPNが「WITHOUT BIAS」というドキュメンタリーを制作したばかりです。こちらはとりあえずYoutubeにあったトレイラーと本編未収録シーンを貼っときますので、一度ご覧になってみて下さい。






酒もそう深く飲まずタバコも吸わない私ですが、人がそれを嗜むのを止めるほど狭量ではないつもりです。他人に明らかな迷惑を与えるようなケース(他人に強制的に濃い目の受動喫煙させるとか、飲酒強制とか)でない限りは自己責任って奴ですからね。しかし、それ以上のもの、ドラッグ類の類に手を出せばどうなるか、我々は近年でも田代まさしという実例を見て知っています。あの痩せこけた姿を見てなお薬物に手を出せるか?って話です。大麻については諸説あるのも知っていますが、まあ現状では害の無いドラッグがあるなんて幻想は抱かないのが吉でしょう。少なくとも、好奇心で手を出して良い世界とはとても言えません。

バイアスのような屈強な体を持った人間でさえ、ただ一度の過ちで命を落とす、それがドラッグの真の危険です。1回だけだから安全、とかはありません。禁止されているのにはそれだけの理由があるんです。「ダメ。ゼッタイ。」という何の捻りも無いフレーズは、しかしシンプル故に正しいのですね。

たった一度の薬物のせいで注意一秒怪我一生どころか、その一生すら終わってしまう事があるという事を、バイアスの悲劇は今に語り継いでいます。そうでなくても田代まさしのような廃人人生になってしまう事だってあるんです。皆様が好奇心や一時の快楽に負ける事無く、薬物に縁の無い人生を送って下さる事を願って止みません。

そして最後に、セルティクスについてです。ここまで見てきた通り、セルティクスはドラフト2位で指名した未来の大器を失う事により、バード・マクヘイル・パリッシュの老いたるBIG3体制の維持を余儀無くされます。この悲劇がセルティクスの将来に暗い影を落とした事は言うまでも無い事でした。そして、あまりにも残酷な事にセルティクスの悲劇はこれで終わらなかったのです。

(以下、「栄光無き天才たち」次回へ続く)



※本文引用以外の参考文献
Wikipedia
http://armchairgm.wikia.comより紹介記事(大学時代のスタッツあり)



sports specialties NBA boston celtics deadstock capセルティックスコーデュロイ デッドストック キャップ
sports specialties NBA boston celtics deadstock capセルティックスコーデュロイ デッドストック キャップ

(´・ω・`)ショボーン列伝 2 サム・ブウイ〜史上最も不運なドラフト2位指名選手〜

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さて、こちらのシリーズも今回から個人へとフォーカスしていきます。当シリーズ第2回目は最初からこの方に決めていました。ドラフト2位での失敗指名と言えば皆様の脳裏をかすめるのはまずミリチッチだと思うんですか、今回は彼の出番は無しです。彼を軽く超える残念なドラフト2位指名、ストロマイル・スウィフトでもありません。また第1回目のように過去の歴史を掘り起こすのは今回は止めておこうと思います。今回取り上げるのは今日に至るまでブレーザーズに延々と続くビッグマン故障禍の流れを決定的にしてしまった7-1のビッグセンター、サム・ブウイです。

そもそもブレーザーズのビッグマン負の歴史はチームに初優勝をもたらしたレジェンドセンター、ビル・ウォルトンに始まります。'77年、スター軍団のシクサーズをはね除けてブレーザーズをチーム初優勝に導いた偉大なこの選手は、しかしドラフト以来ブレーザーズに在籍した4シーズンで平均50試合強しか出場出来ずに移籍していきました。そんなウォルトンがいなくなったブレーザーズは新たなビッグマンを求めていたのです。そして'84年、運命のドラフトが開かれました。NBA史上でも屈指のウルトラ大豊作年となったこのドラフトにおいて、ブレーザーズが持っていた指名権はなんと2位。この幸運を、しかしブレーザーズは見事フイにしてしまったのであります。



このドラフトにおける1位ピックはロケッツ指名のセンター、アキーム・オラジュワン。そして2位のブレーザーズもまたセンター指名に行きます。それがブウイでした。問題は3位指名が、ノースカロライナ大出身のあるガード選手だった事です。NCAAファイナルで決勝シュートを沈めた経験を持つそのガードが、NBA史上最高の選手の1人としてリーグに君臨する事を、その時点でブレーザーズには予想出来なかったのです。まあ、指名したブルズだって当時、彼のシグニチャーシューズが世界中で大人気となる事など、予想もしていなかったと思います。かくて、ブウイには永遠に剥がせないレッテルが貼られてしまったのです。「マイケル・ジョーダンより先に指名された男」。この肩書きは、ジョーダンの評価が上がるのと比例してブウイに重くのしかかっていきました。

マイケル・ジョーダンを差し置いて他の選手を指名した・・・この一点だけ見ればブレーザーズは確かに救いようの無い失敗を犯したとしか思えません。しかし、当時のブレーザーズのチーム事情とブウイのドラフト前までのプレーを見た時、必ずしもそうと言い切れない理由が見えて来ます。

1961年3月17日、ペンシルヴァニア州レバノンで生まれたブウイはレバノン高校時代から知られた存在でした。平均28得点18リバウンドを超えるアヴェレージではそれも当然ですね。後に同じくNBA入りを果たすビッグセンター、ラルフ・サンプソンとのビッグマン対決は「バトル・オブ・ザ・ジャイアンツ」と呼ばれたものでした(まあビッグマン対決って大概そう言われてたりしますが)。そのサンプソンとの対決では敗れたもののマクドナルドオールアメリカンにも選出された彼は各大学のリクルート合戦の末、ケンタッキー大へ入学します。

http://www.sports-reference.com/cbb/players/b/bowiesa01.html
http://www.bigbluehistory.net/bb/statistics/Players/Bowie_Sam.html

彼のケンタッキー大でのスタッツは3シーズンに及びました。'79-'80シーズンが12.9得点8.1リバウンド2.1ブロック、'80-'81シーズンが17.4得点9.1リバウンド2.9ブロック、そして'83-'84シーズンが10.5得点9.2リバウンド1.9ブロックです。・・・ええ、私は別に年度をミスタイプしたのではありません。彼のカレッジキャリアには、まるまる2年の空白があるのです。脛骨の相次ぐ故障が彼のNCAAキャリアを中断させたのであり、実はこのあたりに彼の今後の運命を予感させる要素はあったのですね。それでも彼は'80-'81シーズンにはNCAAオールアメリカン3rdチームに、'83-'84シーズンには2ndチームに選出され、彼の背番号31は永久欠番になりました。スポーツイラストレイテッド誌の表紙を飾ったのもケンタッキー大時代のことです。

ブウイ




これは適当に検索して見つけた、ブウイ最後のシーズンでのオーバーン大との対戦です。これまた後にNBAで外れ指名と言われる事になるビッグマンのメルヴィン・ターピン、NBAダンクコンテストで名を挙げるケニー・“スカイ”・ウォーカーを擁するケンタッキー大が、チャールズ・バークリー、チャック・パーソンを擁するオーバーン大に勝つ・・・胸が熱くなるなと。再三アリウープダンクを決めるブウイの姿を見て、それでもなお彼のピックを躊躇うのは確かに難しいです。

更にブレーザーズには今ひとつ、ジョーダンを指名しない理由がありました。彼らは既に遡る事1年前、'83年のドラフトでクライド・ドレクスラーという優れたスウィングマンを指名していました。ヒューストン大ではオラジュワンと組んでスラマ・ジャマの異名を取るダンクチームを結成して一世を風靡したドレクスラーはNBAでも1年目から全試合出場を果たして7.7得点とそこそこの成績を収めていました。そして実際その後彼はこの後ブレーザーズの顔としてチームを牽引していく事となるのです。14位指名としてはこれは大当たりであったと言えるでしょう。

既にドレクスラーを抱えるチームにジョーダンを連れて来てどうする、という考えは至って正統派な考え方ですね。ましてや今以上にビッグマンの存在が絶対視されていた状況では尚更の事です。今でこそ我々はジョーダンの偉大さを良く知っているのでブレーザーズの当時の判断を愚かと笑えますが、かように当時の状況を考え合わせると必ずしも間違った選択肢だったとも言い切れないのですね。

http://www.basketball-reference.com/players/b/bowiesa01.html

ただ、やはり結果だけ申し上げるならブウイを選択した事はブレーザーズにとってミステイクでした。1年目は76試合中62試合に出場し、FG.537で10得点8.6リバウンド2.8アシスト2.7ブロックとまずまずのスタートを切ってオールルーキーチームにも選出されましたが、大学時代同様に故障が彼のキャリアを細らせます。何しろこの度3シーズンの彼の出場試合は38試合、5試合、20試合です。いくらなんでも3シーズンに渡ってこれではブレーザーズも選択ミスを認めるしかありません。ウォルトンに続きセンターの故障禍に苦しんだブレーザーズは結局、彼をドラフト指名権とセットにして、バック・ウィリアムズとの交換でネッツへ送ったのです。

ネッツでブウイは4シーズンを過ごしますが、実はこちらではそこそこの出場を果たします。68試合、62試合、71試合、79試合ですから致命的な故障は無かった訳ですね。そして成績の方も移籍1年目から14.7得点10.1リバウンド1.8ブロックと結構良さげな感じに。その後も12.9得点7.7リバウンド2.4アシスト1.5ブロック、15.0得点8.1リバウンド2.6アシスト1.7ブロックと推移します。もっとも、その間FG成功率はセンターとしては相当低い.416→.434→.445ではありましたが。そして'92-'93シーズン、そのFG成功率こそ.450になったもののブウイのスタッツは9.1得点7.0リバウンド1.6アシスト1.6ブロックと些かダウンしました。ま、既にこの時彼は31才でしたからね。

その後彼はレイカーズで2シーズンを過ごしましたが1年目は再びの故障で25試合の出場に留まり、2年目は67試合に出場も4.6得点4.3リバウンドと最早戦力として多くを望める選手では無くなっていました。かくて'95プレーオフ終了後、ブウイはかつて自分より先にドラフト指名されたオラジュワン、ブレーザーズが自分を指名した理由だったドレクスラーがロケッツで大学以来のコンビを組んで優勝するのを尻目に、そっとユニフォームを脱いだのです。

ブウイというヒトの不運は度重なる故障、そしてジョーダンの存在に代表されます。しかしながら、そもそもブウイというヒトは色々と運がありませんでした。オラジュワン、ユーイング、デヴィッド・ロビンソンとビッグセンター盛況の時代だった事もそうですし、学生時代には'80年の五輪代表に選ばれながら出場出来ませんでした。しかもこれは彼恒例の故障では無く、なんとアメリカをはじめとする西側諸国のボイコットによるものでした。アフガニスタンを巡る東西対立という政治的な理由で、彼はモスクワ五輪でプレーする機会を失ったのです。つくづく運の無いヒトなんだなと思わずにはいられません。

思えばジョーダンのキャリアは彼と全く好対照です。五輪には'84年ロス五輪(モスクワ五輪時の仕返しで東側諸国がボイコットしたので尚更楽勝でした)、そして'92年バルセロナ五輪と2回金メダルを得る機会に恵まれましたし、故障らしい故障はNBA2年目のみ。ほぼ全キャリアをブルズで過ごし、6度の優勝、そして数え切れないキャリアでの業績の数々は皆様良くご存知の通りですね。

また、5度に渡るポストシーズンでブウイがほぼ全スタッツでシーズン以下の成績に留まっているのに対し、ジョーダンがむしろポストシーズンで凄まじいプレーを見せつけたのは今更私が申し上げるまでも無いでしょう。



NBAでのブウイのプレーをYoutubeで検索したところ、よりにもよってこんな動画がヒットする始末です。ブウイという人の不運は未だに続いているのかも知れないな、と思わずにはいられません。

http://his-airness.seesaa.net/article/7025455.html

なお、マイケル・ジョーダン一筋のMy Dear Airnessさん移転前の過去ログに、ブウイのインタヴューが軽く紹介されていますのでご存知無い方は一読をお勧めします。どうやらブウイ本人の中では心の整理が完全についているようで、何だかほっとしました。

http://www.lostlettermen.com/kentuckys-sam-bowie-now-racing-horses/


現在ブウイは競馬の馬主となっており、どうやらそちらでは順調なようですね。経済的にも恵まれているようで何よりです。NBA選手として成功しても経済的に破綻する選手は少なくありませんからね家族も妻と3人の子供がおり、娘の1人は父親譲りの長身で女子バスケットに挑んでいます。

ブウイとジョーダンの件は、ドラフト指名の際に何を重視すべきか、という永遠の課題を提示した好例と言えます。チームのニーズに合致したタレントを求めるのか、チーム事情に一切関係無く純粋に優れたタレントを取りに行くか。前回ご紹介した1位指名の残念な面々も実はビッグマンが過半数を軽く超える勢いでしたが、ドラフトでの失敗というのはビッグマン獲得を優先してPG〜SFポジションの才能を見落とす、というのが殆どであるように思います。ドラフトの際には是非このポイントを踏まえて自チームの指名を注視する事をお勧めする次第です。

そして最後にブレーザーズですが、ウォルトン、ブウイと続いたブレーザーズのビッグマン故障禍はその後もNBA入り前に故障を背負ってしまったサボニス、そして現在進行形で故障を重ねているグレッグ・オデンへと引き継がれてしまっています。しかもオデン君の直後に指名されたデュラントが大活躍し、またもブレーザーズに指名の失敗が囁かれている点までもブウイ&ジョーダンの関係とと合致する始末です。オデン君が将来当シリーズで取り上げられる日が来ない事、そしてブレーザーズのこの困った伝統がそろそろ打ち止めとなる事を願って止みません。

※参考文献

Wikipedia
ブウイキャリアまとめ
バスケットボールリファレンス.comよりキャリアスタッツ



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(´・ω・`)ショボーン列伝 1 最も残念なドラフト1位指名選手

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さて、いよいよブログ主待望のシリーズですw 何しろ、今回立ち上げた3シリーズ中でも最も取り上げる候補選手が多いですからね、これ。

基本的にはこのシリーズも他のシリーズ同様1人の選手にスポットを当てていきますが、今回だけは最初から名前を明かさず行こうと思います。何故なら今回のお題はこれだからです。

「NBAドラフト史上最も残念な1位指名選手は誰か?」

ドラフト1位指名といえば、フランチャイズの柱、チームのエースを指名する順位です。何しろ数ある才能に恵まれた新人候補の中から真っ先に1人を選ぶのですから、こんなに簡単な事はないように思われます。が、世の中そう簡単ではないのですね。ドラフトの歴史を紐解けば、「え、なんでこんなのが1位指名なの?」なんて選手はいくらでもいますし、逆になんでこの選手が1位じゃないんだ、って疑問も当然出てきます。何しろマイケル・ジョーダンだって3位指名ですからね。シャックやダンカンみたく誰もが納得する1位指名ばかりでは無いのですよ。

http://www.nbadraft.net/nba_draft_history/2001.html

皆さんがドラフト1位のスカ指名選手と聞いてまず思い浮かぶのはクワミ・ブラウンでしょうね。'01年にNBA史上初の高卒No.1指名選手となり、マイケル・ジョーダンの失敗ドラフトの好例として未だに語り草の彼は、確かに当時の期待を大いに下回ってますが何とかNBAに生き残れてはいます。今季だってボブキャッツで曲がりなりにも先発Cでしたからね。ま、タイソン・チャンドラーが2位指名でガソル兄が3位指名だった事は忘れましょう。ザック神が19位だった事も見なかった事にしといて下さいw

http://www.nbadraft.net/nba_draft_history/1998.html

あるいは、マイケル・オロワカンディーの名前が浮かぶ方もいるでしょう。ナイジェリアからやってきたビッグセンターにオラジュワンの再来を期待する向きもあってクリッパーズが'98年に指名した彼もまた、フランチャイズの柱とは成り得ませんでした。9シーズンNBAにいましたがFG成功率は.450を超えるのがやっと、平均得点も2桁いくかどうかというレヴェルでしたが、少なくともクリッパーズではそれなりに頼れるセンターだったのも事実です。

http://www.nbadraft.net/nba_draft_history/1995.html

またはジョー・スミス。'95ドラフトでウォリアーズが指名後シクサーズに移籍するまでの2年半までは割と順調に見えた彼のキャリアはその後一気に転落、細く長いキャリアを続ける事となりました。とはいえ、ソマトモさんもお気に入りな彼の燻し銀な活躍もそう捨てたもんじゃありません。

http://www.basketball-reference.com/players/e/ellispe01.html

パーヴィス・エリソンだろJK、と私も思ってました。'89年のドラフトでキングスの指名を受けたビッグマンたる彼、NBA入り早々に故障に苦しんてズタボロでしたがブレッツ(現ウィザーズ)に移籍して復活、20-10のアヴェレージを叩き出してMIPに選出されます。ま、その後また萎んだ訳ですが、まあ2シーズンだけでも輝けただけ良かったのかも知れません。

http://www.basketball-reference.com/players/b/bensoke01.html

調べてみるとちょっといい線(?)行ってそうだったのがこのヒト、ケント・ベンソン。'77年にバックスで指名されるもベストイヤーでやっと15.7得点6.8リバウンドと明らかに期待以下です。まあ、でも11シーズン生き残りましたけど残念なセンターではありました。

http://www.basketball-reference.com/players/b/barneji01.html
http://www.basketball-reference.com/players/h/heymaar01.html
http://www.basketball-reference.com/players/m/mcgilbi01.html

だんだん面倒になって来たので纏めていきますが、こんな人達もいました。ニックスによって'64年に指名されたジム・バーンズ、ニックスが'63年に指名のアート・ヘイマン、シカゴ・ゼファーズ(なんと現ワシントン・ウィザーズ)が'62年に指名したビル・マクギル、3年連続でなかなかアレな感じです。てかニックスって2年連続ドラフト1位指名だったんですね、この時。

http://www.basketball-reference.com/players/g/greensi01.html

'56年にロチェスター・ロイヤルズ(現キングス)が指名したこの方、名前が読めませんw Sihugo Greenって。小林師範か島本和彦さんクラスじゃないとこれはもうお手上げでしょうか?

http://www.basketball-reference.com/players/s/sharech01.html

こちらはフォートウェイン・ピストンズ(現デトロイト・ピストンズ)が'51年に指名したチャック・シェア。13.6得点10.8リバウンドがキャリアベストでありました。・・・まあ、この時代まで遡ると流石に色々勝手が違うよなとも思いますが。

・・・さて、いよいよ究極の残念1位指名選手発表の時がやってまいりました。ええ、今まで名前を挙げた全員を上回る面子がここから登場します。では行ってみましょう、まずは6位。

http://www.basketball-reference.com/players/m/martila01.html

ラルー・マーティン。'72年にブレーザーズが指名したセンターで、NCAA時代にビル・ウォルトンといい勝負をして株が上がるもNBAでは全く通用せず、ブレーザーズが'74年にそのウォルトンを指名した事で完全に居場所が無くなり、結局4年でNBAを去りました。一般的には彼がNBA史上ワーストのドラフト1位指名選手と認識されているようです。実は、私もこのエントリーを書き始めた時はそう思ってました。では、そのマーティンをも上回る第5位はこの方です。

http://www.basketball-reference.com/players/s/shannho01.html

ハウイー・シャノン。'48年のBAA、プロヴィデンス・スティーム・ローラーズ(現存しません)が指名したガードでしたが、1年目に13.4得点、2年目セルティクスに移籍して8.8得点。以上が彼のプロキャリアでした。これは流石に私も驚きました。が、まだまだ上(?)がいるんです。では、第4位です。

http://www.basketballreference.com/players/playerpage.htm?ilkid=WORKMMA01

マーク・ワークマン。'52年、ミルウォーキー・ホークス(現アトランタ・ホークス)が指名し、フィラデルフィア・ウォリアーズ(現ゴールデン・ステイト・ウォリアーズ)へ移籍したセンターです。彼のキャリアもまた2年だけでしたが、1年目が5.1得点、バルティモア・ブレッツ(後のウィザーズに繋がるバルティモア・ブレッツより前にあった現存しないチームです)へ移籍した2年目が4.0得点です。うむ、これはまた圧倒的ですね。では更にその衝撃を上回る第3位、ドゾー。

http://www.basketball-reference.com/players/t/tonkoan01.html

Andy Tonkovich。また読めない名前ですが、アンディ・トンコヴィッチとでも読めば宜しいのでしょうか。'48年に先程5位でも登場したプロヴィデンス・スティーム・ローラーズが指名したガードの彼、なんと1年しかプレーしていません。しかもシーズン60試合の時代に僅か17試合出場で2.6得点0.6アシスト、FG成功率.268です。むしろこれで1位じゃないのがビックリするレヴェルですね。では、いよいよ2位。

http://en.wikipedia.org/wiki/Clifton_McNeely

クリフトン・マクニーリー。BAA史上初のドラフトとなる'47年にピッツバーグ・アイアンメン(現存しません)の指名を受けたものの、彼はBAAでプレーしませんでした。彼は大学時代は得点王となりオールアメリカンにも選出された選手でしたが、プロリーグでプレーせずにテキサスの高校でコーチの道を選んだのです。こんな指名やっちゃったからこのアイアイメンってチームは創設1年で消滅したのでしょうかね

さて、お待たせ致しました。いよいよ1位です。

http://en.wikipedia.org/wiki/Gene_Melchiorre

栄えある、いや無いんですが第1位はまたしても名前が読めません。Gene Melchiorre、'51年にバルティモア・ブレッツ(4位で紹介済みのチームです)に指名されたこの選手もまた、1試合もプレーしませんでした。

若干5-8の小兵ガードたる彼は圧倒的なパス能力と得点力でブラッドリー大学を'47-'48シーズンから'50-'51シーズンまでの4年の在学中に119勝22敗に導きました。NCAAトーナメントとNITの両方に出場し、未だに1試合でのNIT記録となる71得点をマークしています。ミズーリヴァレーカンファレンスで1stチームに選出される事3回、オールNITチームに選出される事1回。各種メディアが選出するオールアメリカン1stチームも選出、と彼のキャリアは申し分無いものに思われたのです。

しかし、その在学中に彼は「ポイントシェーヴィング」("Point shaving"→得点出来る時に故意に得点しない八百長行為の一種)スキャンダルに見舞われました。実に7校、32名の選手が関わったこのスキャンダルに、Melchiorreと彼のチームメイト4名もセント・ジョセフ大(ジャミアー・ネルソンの母校ですね)、オレゴン州立大との対戦で意図的に得点を抑えた事を認めたのです。結果、彼とチームメイト2人はなんと懲役3年を言い渡されましたが、捜査に協力的だった為にかろうじて執行猶予が付きました。

http://espn.go.com/classic/s/basketball_scandals_explosion.html

当時のNBA社長モーリス・ポドロフは結局ポイントシェーヴィングスキャンダルに関わった全ての選手についてNBAでのプレーを生涯禁止としてしまいました。だったら指名する前にそう決めろよと思うんですが、これはタイミングの問題なんですね。即ち、この一連の事件で最初の逮捕者が出たのが'51年1月17日。ドラフトが行われたのは4月25日であり、Melchiorreが事件への関与を認めたのは7月24日、有罪が確定したのが10月初旬。つまり指名後にこのスキャンダルが発覚したという訳です。

http://en.wikipedia.org/wiki/1951_NBA_Draft
http://www.basketball-reference.com/draft/NBA_1951.html

結果として、この年のドラフト選手は2巡目までの指名選手のうち、Melchiorreを含む7人の選手がNBAの舞台に立つ事さえありませんでした。そもそも指名されても100%プロデビューするとは限らないご時勢ではあったものの、この人数の多さはやはり前後の年と比較しても際立っていますね。

Melchiorreはその後、故郷に帰って郵便局、保険と器具販売、婦人服販売と職を転々とし、最終的には自ら小さい運送会社を始めました。要するに、バスケットボールに関わる事はもう無かったのです。それでもなお、彼はシカゴランド・スポーツ・ホール・オブ・フェイムGreater Peoria Sports Hall of Fameなど、彼の偉業を称えるサイトが今でもなお散見されます。そして彼自身、どうやらご存命のようですね。

http://vintagebasketballautographs.webs.com/guards.htm

更に探してみると、彼のサインと当時の写真、イラストの画像が出て来ました。サイト3/5あたりにありますので探してみて下さい。そこに彼のコメントが引用されていました。

"It's not disappointing at all when I look back on it. I could understand why I couldn't play."

「振り返ってみて、失望は全く無い。何故(NBAで)プレー出来なかったか理解出来ていたから」


もしもあのようなスキャンダルに身を落とす事無くNBAでプレー出来ていたら、彼の名声はNBAにどれ程大きなインパクトを残した事でしょうか。その喪失感を込めて、彼を1位とさせて頂きます。

http://en.wikipedia.org/wiki/NBA_territorial_pick

実のところ、BAA時代の'49年からNBAの'65年までのドラフトは正確にはテリトリアル・ピックといって地元大学の選手が地元チームに優先的に1〜3人入団する、という抜け穴の制度が存在したので、この時期の選手達については厳密には1位指名選手とは言い難かったりもします。

時代背景の違いなどもありますから、この順位付けが正しいかというと異論はあるでしょう。ただ、「残念」という基準で行けばこの上位6名選出で概ね間違い無いかな〜と思います。今後流石にドラフト1位指名選手がこういう形で1試合もプレーせず終わるといったことは無いでしょう。2位指名では少し前にありましたが・・・おっと、その話はまた今度とさせて頂きましょう。

次からはいよいよ、他の新コーナー同様に選手をピックアップして行こうと思いますのでご期待下さいませ〜。

P.S.

http://en.wikipedia.org/wiki/NBA_first_overall_draft_pick

ウィキペディアより、歴代ドラフト1位選手リスト。・・・先にこれ見ておけばもっと書くの楽だったような気が



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六伍壱 ◆MAGICcvM2E
昔の名前はセントトーマスこと 「NBA MAGICAL INSIDE」 (現在更新停止)管理人、 2chマジックスレ は最近はご無沙汰。シャック&ペニー時代からマジックを追っかける'90s世代NBAファンです。耳寄り情報・ご要望・リクエスト・リンク希望・ツッコミetcはmagicalinside651@gmail.comまでドゾー。twitterにもおりますので「六伍壱」で検索してみて下さい。
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